写真は1841年、奴隷制度廃止運動に取り組んでいたフランスの作家、ヴィクトル・シュルシェール(1804–1893)がハイチに旅行したときに収集した楽器だ。パリの音楽博物館で160年間も眠り続け、ベルギーの首都ブリュッセルの楽器博物館のキュレーター、サスキア・ウィラートが2003年に再発見するまで目を醒まさなかった。Banza はバンジョーを意味する呼び名のひとつで、ポルトガルのギターにもこの名がついている。奴隷商人によって強制的に運ばれたアフリカ人が作った楽器である。皮を張った瓢箪に絃をつけた楽器がバンジョーのルーツだが、17世紀にジャマイカやハイチなど、カリブ諸島の奴隷が作って演奏していた、というのが定説になっている。奴隷の積出港はセネガルのゴレ島、ガンビアのクンタキンテ島、シエラレオネのバンス島など、アフリカの西海岸にあった。そのセネガルを旅行した際に、大きな瓢箪に絃をつけた、リュート型撥弦楽器を見たことがある。KORA と呼ばれているが、絃の数が多い複雑な楽器で、現在でも演奏されている。演奏方法はハープに近く、バンジョーの原型とは断言でない。アフリカ西海岸の3絃楽器 Akonting について興味深い記事がアメリカの公共放送 NPR のウェブサイトに掲載されている。いずれにしても、瓢箪絃楽器がどのようにしてアフリカから大西洋を渡り、広まったのだろうかという素朴な疑問を持っていた。 しかし奴隷船の図を見ると奴隷たちは蚕棚にぎっしり積まれ、立錐の余地がなかったことが分かる。
文字通り裸一貫、船に楽器を持ち込むことは、到底無理だったと考えられる。従って楽器自体が船で渡ったわけではないと考えられる。バンジョーは北米大陸で生まれたと思われがちだが、カリブ海の奴隷たちが新たに作った民俗楽器で、のちにアメリカ合衆国南部に伝播したと思われる。ハイチの Banza で特筆すべきは4絃でフレットレスであることだ。第4絃は他の絃より短く、ネックの途中から張るようになっている。常に開放のまま奏でられるドローン絃である。このドローン絃は5絃バンジョーの特長でもある。ミンストレル・パフォーマーだったジョエル・スウィーニーが発明したという説があるが、間違いである。彼は1810年生まれで、17世紀に作られたバンジョーのネックの途中にペグがついているからである。下の絵は奴隷所有者でもあった画家のジョン・ローズがろ描いた水彩画で、サウスカロライナ州ビューフォートの農園で踊る奴隷たちの貴重な記録である。クリックすると拡大するので細部を見て欲しい。右から二人目の男が演奏しているのも瓢箪バンジョーで、これはバンジョーを描いた最古の絵画として知られている。また西アフリカ起源とする頭飾り描かれている。楽器はハイチの Banza と酷似していて、ペグヘッドの形状や、平らなネック、胴体に刻まれたサウンドホールなどに共通性を見ることができる。カリブ海とは距離的に離れているが、18世紀に南部の農園に到達したのだろう。
しかしながらどのようにしてカリブから渡ったのか、残念ながらその点の文献に乏しいので、詳細は不明である。ビューフォートが海に面している点が問題を解くカギかもしれない。いずれにせよ地理的条件を勘案してみると、南部の農園生活で使われていた楽器が、現在のバンジョーに進化したのではないかと推測される。瓢箪ではなく、木製の丸い胴に牛または山羊の皮をつけた片面太鼓に、5本の絃を張ったバンジョーで、今日のものに近いものだった。そして19世紀から20世紀初頭にかけて流行った、ミンストレル・ショーに欠かせない楽器となった。現代では胴の背に共鳴板をつけたものと、ないものの2つのタイプがある。ポリエステルの皮を張ったバンジョーが主流で、演奏方法も多様化、フォークやオールドタイム、特にブルーグラス音楽の花形楽器になっている。太鼓に絃を張った楽器としては日本の三味線が馴染み深い。中国を経て琉球から伝播したが、元を辿れば古代ペルシャに起源を求めることができる。バンジョーのルーツも同様という仮説は成り立つだろうか? もしそうであるならば、バンジョーと三味線は同地域のルーツを持つことになる。何時ごろ、どのようなルートでペルシャから西アフリカに伝わったのだろうか。史料を探し、私論がまとまれば、ここに投稿したい。
Luth "Banza" Banjo avant 1841 / Haïti / Le Musée de la musique Philharmonie de Paris
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