マシュー・ペリー提督 |
バンジョーが19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカで流行り、顔を黒く塗った白人によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えたミンストレル・ショーに欠かせない楽器となった。黒塗りフェイスは人種差別を助長するものとして批判され、ミンストレル・ショーは消滅したが、ショービジネスの歴史の観点に立つと重要な役割を果たしたといえる。1854年、そのミンストレル・ショーが日本で演じられたことは案外知られていないかもしれない。主催したのは黒船来航で日本を驚愕させたマシュー・ペリー提督(1794–1858)で、軍艦ポーハタン号の艦上で艦隊員によるショーが上演された。ご存知ペリーは1853年、アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻を率い、浦賀沖に停泊させ、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡した。そして翌年に横浜沖に停泊、日米和親条約締結に至った。開国交渉中に幕府の高官が招待され、歌と踊りの両方があるミンストレル・ショーが演じられた。公演の様子を描いた高川文筌の絵を見ると、バンジョー、ギター、フィドル、フルート、タンバリン、トライアングル、ボーンなどの楽器が使われている。笠原潔著『黒船来航と音楽』(吉川弘文館2001年)によると、交渉の節目ごとに横浜以外の函館と下田でも行われたという。プログラムを見ると、第1部、第2部に続き、ヴァイオリンの独奏をはさんで、ブルレスクの『リヨンの娘』で終わっている。ミンストレル・ショーの音楽も手掛けた、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家、スティーブン・フォスター(1826-1864)の『アンクル・ネッド』『主人は冷たい土の中』などの新作も披露された。ペリー遠征隊の公式画家だったウィリアム ・ハイネ(1827-1885)は「日本人は音楽が好きなようだ。提督が下田に合唱団を連れて来たとき、町の半分の人が彼らの演奏を聴きに集まったという。次に提督が合唱団なしで上陸したとき、多くの下町人が提督の後について行き、あらゆる手振りで、歌がどれほど気に入ったか、また合唱団を連れて来てほしいと伝えた」と書いている。
この絵はペリー遠征隊の最初の航海に同行したウィリアム・ H・ハーディがオレゴン州ポートランドに持ち帰った作者不明の「黒船の巻物」(1853~1917年頃)の一コマで『下田上陸北亜墨利加人』(下田に上陸した北アメリカ人)という説明がついている。バンジョー、ラッパ、そして小太鼓を手にした男たちが活写されている。顔を黒く塗ってないのでミンストレル・ショーではなく、小編成のバンドのようだ。小太鼓には巴の紋が描かれていて、これは和楽器である。高川文筌の『米利堅船燕席歌舞図』と同様、貴重な史料である。ハーディーは1918年に日本から帰国したが、警察に出頭した。ペリー提督との関係を捏造し、国民を欺いたと告発されたからである。口論は銃撃戦に終わり、彼は自らを銃で撃って傷を負い、1年後に短い闘病の末に亡くなった。ハーディの家族は、この巻物と彼が日本を旅行中に受け取った多くの贈り物をオレゴン日系人博物館に寄贈した。ペリー提督と共に日本に上陸したアメリカ音楽、黒船来航は西洋音楽の来航だった。
Black Ship Scroll | William H. Hardy Collection | Japanese American Museum of Oregon
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