2024年7月11日

カーター・ファミリーの隠れた助力者レスリー・リドルの功績

Lesley Riddle
Lesley Riddle by ©Mario Zucca

レスリー・リドルは、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンで、カーター・ファミリーへの影響により、カントリー・ミュージックの形成に貢献した。1905年にノースカロライナ州バーンズビルで生まれ、ヴァージニア州との州境にほど近いテネシー州キングスポートの近くで父方の祖父母のもとで育つ。若い頃セメント工場で働いていた彼は、1927年8月、削岩機につまずき、右足の膝を切断する怪我を負った。回復するまでの間、ギターを始め、革新的なピッキングとスライドのテクニックを身につけた。やがて、スティーブ・ターター、ハリー・ゲイ、ブラウニー・マクギー、ジョン・ヘンリー・ライオンズなど、サリバン郡やスコット郡のミュージシャンたちと共同作業を行うようになる。1928年12月、カーター・ファミリーを結成した A.P.カーターと出会った。カーター・ファミリーは1927年8月のブリストル・セッションズでの録音で知られるようになっていた。

Brownie McGhee and Lesley Riddle
Brownie McGhee and Lesley Riddle in Kingsport, Tennessee

リドルはキングスポートとバージニア州メイススプリングのカーター宅を行き来するようになる。リドルとカーターは、この地方を中心に曲集めの旅に出た。リドルは「人間テープレコーダー」として、メロディーを記憶し、A.P. カーターは歌詞を集めた。カーター・ファミリーは、"Cannonball Blues" "Hello Stranger" "I Know What It Means To Be Lonesome" "Let the Church Roll On" "Bear Creek Blues" "March Winds Goin' Blow My Blues Away", "Lonesome For You" など、リドル作曲あるいはリドル発信による多くの曲を録音することになった。リドルのギターテクニックはメイベル・カーターに印象を与え、彼女はその要素を自分のスタイルに取り入れた。1937年、リドルは結婚し、1942年、ニューヨーク州ロチェスターに移住した。やがて音楽から引退し、1945年にはギターを売り払い、その後20年間は無名のままであった。

Rounder ROUCD 0299 Released 1993

1965年、メイベル・カーターと共演したばかりのマイク・シーガーがレスリー・リドルを探し出し、レコーディングに復帰するように説得した。その後13年間、リドルとシーガーは何度もスタジオ録音を繰り返した。リドルはまた、スミソニアン・フォーク・フェスティバルやマリポサ・フォーク・フェスティバルにも出演した。リドルは1980年7月、ノースカロライナ州アッシュビルで死去した。1993年、マイク・シーガーとのセッションからの選曲が、ラウンダー・レコードから "Step By Step" として CD アルバムがリリースされた。カーター・ファミリーの曲は A.P. の作詞作曲と思われがちだが、彼は伝承歌謡蒐集家であり、リドルのコラボレーションなしには珠玉の作品群は生まれなかっただろう。蛇足ながらカーター・ファミリーのレコーディングに関しては、リドルは音楽著作権収益の恩恵に授かっていない。

YouTube  Step By Step - Lesley Riddle Meets Carter Family: Blues, Country, And Sacred Songs

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