2024年2月29日

鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ

これまで私が触れた何冊かの本、例えばジェイムズ・ジョイス『ダブリン市民』、ギルバート・ホワイト『セルボーンの博物誌』、W・H・ハドスン『はるかな国とおい国』などに共通していること、それは正直言って読み疲れるということである。少し読んでは放り出し、また忘れたころに読み進める。ヘンリー・D・ソロー『森の生活』もそうだが、ハーマン・メルヴィル『白鯨』(モビィ・ディック)がその極めつきではないだろうか。とにかく通読するだけでも厄介で、私は何度も挫折、数カ月を費やしてやっとのことで読み終えたのだった。物語のクライマックス、エイハブ船長と白鯨モビィ・ディックの闘いにたどり着くまでの道程が長いのである。著者メルヴィル(1819-1891)は実際に捕鯨を体験している。したがって見方を変えれば、ここに書かれている当時の鯨学、捕鯨業の実態、あるいは船員の生活など、貴重な記録文学と言える。18世紀~19世紀半の欧米諸国による捕鯨は鯨油を採ることが主目的だった。そして浦賀へ来航したペリーの艦隊の黒船が、江戸幕府に開港を迫ったのは、アメリカの捕鯨船団が燃料や食料補給のために寄港したかったからだという。

C・W・ニコル『勇魚(上・下)』(文春文庫)1992年

作家のC・W・ニコルさんが2020年4月3日、直腸がんのため長野市の病院で死去した。著書『勇魚(いさな)』を思い出し、読み返してみたが、これは一気に読破することができた。舞台は和歌山県太地、今でも捕鯨の町である。幕末。おりしも井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬などが世界に目を転じ始めたころだった。エイハブ船長は白鯨によって片足を失ったが、この小説の主人公、甚助は鯨に片腕を奪われている。失意のどん底にあった彼に声を掛けたのが紀州藩士、松平定頼だった。定頼は黒船の出現を知り、海防の必要性を幕府に説き、甚助を密偵に仕立てる。紆余曲折の末、ジョン万次郎に出会った甚助はジム・スカイの名で海外に雄飛する。波乱に飛んだ歴史物語だが、作者のニコルさんはよくここまで調べたものだと感心する。ウェールズ出身で、1995年に日本に帰化したが、一年間太地に暮らした経験があるという。その体験ゆえに書けたのだろうが、訳者あとがきにもあるが、私も鯨を勇魚(いさな)と呼ぶことは知らなかった。勇ましい魚という意味である。鯨は魚類ではなく哺乳類だが、中国語では鯨魚と表記する。万葉集に「鯨魚取海哉死為流山哉死為流死許曽海者潮干而山者枯為礼」(第16巻第3852番)という歌がある。鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ。つまり「海は死ぬだろうか、山は死ぬだろうか。死ぬからこそ海は潮が干し上がるし、山は草木が枯れる」という摂理を詠んでいるのである。

太地を初めて訪れた松平定頼は獲れた鯨の解体作業に立ち会う。太地角右衛門(網捕り式捕鯨の考案者)は漁師たちが鯨の霊に祈ったことに対し「わたしどもとて死の悲しみは感じますが、しかしその悲しみの一方に、海からあのような恵みを受けるよろこびもあり、わたしどもはなにひとつむだにいたしませぬ。肉、油、骨、髭、すべてを使います」と定頼に答える。さらに臓物も食べると答えながら「正直申して、わたしは肉のほうが、わけても尾に近い脂ののった肉が好きです」と説明する。これは鯨の尾の身、すなわち尾の背側の部分の脂が霜降りになった部位を指す。一昨年の暮れ大阪道頓堀の『たこ梅』でサエズリ(ヒゲクジラの舌)の煮込みを食べた話を書いた。これも絶品だが、尾の身の刺身はさらに素晴らしい。私はアメリカの海洋哺乳類保護団体のメンバーと会ったことがある。鯨の肉は物凄く美味しいよと話したら、彼らが目を丸くしていたのを思い出した。国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を表明したことで、2019年、1988年以来、30年ぶりに商業捕鯨を再開した。南極海での捕鯨を停止することは歓迎するが、鯨肉の供給に問題が出そうである。しかし鯨肉はもはや食道楽のための高級食材であり、もはや日本人の蛋白源ではないことを改めて再認識すべきだろう。

PDF_BK  大崎晃「19世紀後半期アメリカ式捕鯨の衰退と産業革命」東京地学協会(PDFファイル 1.29MB)

2024年2月25日

シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座

Removing
Dismantled statue of Joseph Stalin, Budapest, Hungary, 1990
Ferdinando Scianna

写真家フェルディナンド・スキアンナは1943年7月4日、イタリアのバゲリーアで生まれた。1982年に国際的なフォトエージェンシーであるマグナム・フォトに参加した最初のイタリア人写真家である。シチリア島の田舎町で、息子の将来を医者かエンジニアにしようと考えていた質素な家庭に育った。幼い頃から写真に熱中するようになり、16歳のときに父親からカメラを与えられ、高校時代は友人の写真を撮ることを楽しんだ。高校卒業後、彼はパレルモ大学文学部哲学科に入学し、いくつかのコースを履修したが、写真家としての彼の作品に影響を与えることになるテーマへの強い情熱を持ち続けたものの、学業を終えることはなかった。1963年、作家のレオナルド・シャーシャ(1921–1989)は偶然、バゲリーア文化クラブで開催された大衆的な祭りをテーマとしたスキアンナの最初の写真展を訪れた。二人は会うと、すぐに友情が生まれ、それはスキアンナのキャリアにとって基本的なものとなった。シャーシャの支援は、出版界におけるスキアンナの重要な通過点となり、シチリアの写真家は最初の出版物を手に入れることに成功した。

Catholic festival
Catholic festival in Trecatagni. Sicily, 1963.

1965年、かの有名なシャーシャがテキストと序文を担当した "Feste religiose in Sicilia"(シチリアの宗教的祝祭)を出版した。この写真集は3年にわたる撮影の成果であり、1966年には権威あるナダール賞を受賞。1967年にミラノに移り、週刊誌 "L'Europeo"(ヨーロッパ)のでフォトジャーナリストとして働き始め、後に同誌の特派員、最終的にはパリ特派員となる。何度もシチリア島を訪れ、島民の表情や島に今も息づく民俗的な伝統を記録した。1977年、フランスでドミニック・フェルナンデス(1929-)とレオナルド・シャーシャのテキストによる "Les Siciliens"(シチリア人)を、イタリアで "La villa dei mostri"(怪物の別邸)を出版した。

Villalba, Sicilia
Black Clothed Wemen, Villalba, Sicilia, 1983.

パリでは若い頃から影響を受けていたアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908–2004)に出会った。この偉大な写真家から1982年、国際的なフォトエージェンシーであるマグナム・フォトの最初のイタリア人写真家として紹介され、1989年に正式メンバーとなった。 その間、スペイン内戦の撮影でスペインを訪れた際に知り合ったマヌエル・バスケス・モンタルバン(1939–1003)をはじめ、さまざまな売れっ子作家と親交を深め、コラボレーションを行った。キャンペーンはシチリアで撮影され、チームは2人のデザイナーだけで構成され、写真家でもあるオランダのモデルのマルペッサ・ヘニンク(1964年生まれ)はメイクアップアーティストを持たず、自分でメイクとヘアを行った。

Mexic
People of Political meeting, Mexico, 1988.

スキアンナは、ファッション写真にしては珍しく幼少期からのロケ地を選んだが、彼のショットの成功は、1980年代後半のドルチェ&ガッバーナのキャンペーンとブランドの成長に不可欠な貢献をした。 1995年には宗教的なテーマに戻り "Viaggio a Lourdes"(ルルドへの旅)を上梓、1999年には有名なアルゼンチン人作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899–1986)のポートレートを発表した。2003年には、個人的・集団的な記憶の調査を通して、彼の青春時代の環境と雰囲気を再現した写真集 "Quelli di Bagheria"(バゲリーアの人々)を出版した。2006年12月、ネブロディ州立公園の2007年カレンダーが発表され、メッシーナの女優マリア・グラツィア・クチノッタ(1968年生まれ)の12ショットが掲載された。

Rome 2000
Sheeps in Piazza di Spagna, Rome, Italy, 2000.

同じシチリア出身のジュゼッペ・トルナトーレ(1956年生まれ)とともに、新作映画 "Baarìa" の公開を機に、2009年に写真集 "Baaria Bagheria"(バリア・バゲリア)を出版した。2020年にヴェネツィアで開催された最後の写真展を含め、このシチリアの写真家に捧げられた展覧会がいくつか開催されている。2021年に再版・改訂された "Autobiografia di un fotografo"(ある写真家の自伝)など、いくつかの小説も出版している。フェルディナンド・スキアンナは「写真は写真家によって作られるものではない。彼らがすることは、ただ小さな窓を開けてそれを写すことだ。そうすれば、世界はフィルムに自ずと書き込まれる。写真家の行為は、書くことよりも読むことに近い。彼らは世界の読者なのだ」という素晴らしい言葉を残している。

magnum  Ferdinando Scianna (born 1943) | Profile | Highlight | Most Recent | The Magnum Photos

2024年2月23日

米国エリス島は大量の移民をどのようにして受け入れたのか

Immigrant children
Immigrant children, Ellis Island, New York Harboa, 1908. Photo by Brown Brothers

1890年以前は、連邦政府ではなく各州がアメリカへの移民を規制していた。マンハッタンのバッテリーに位置するキャッスル・ガーデン(現在のキャッスル・クリントン)は、1855年から1890年までニューヨーク州の移民局として機能していた。約800万人の移民がその門をくぐったが、そのほとんどが北ヨーロッパ諸国からの移民であった。1800年代、政情不安、経済的苦境、宗教的迫害がヨーロッパを襲い、世界史上最大の大量移民が発生した。1890年頃、キャッスル・ガーデンでは大量の移民を処理する設備も準備も整っていないことが明らかになり、連邦政府はエリス島に新しい移民局を建設することになった。建設中、バッテリーのバージ・オフィスは移民処理に使われた。エリス島の新しい建造物は、1892年1月1日に到着した移民の受け入れを開始した。アイルランド出身の10代の少女アニー・ムーアは、2人の弟を伴い、エリス島で手続きを受けた最初の移民として歴史に名を刻んだ。

S.S. Batavia
The S.S. Batavia carried 2,584 immigrants to New York City, 1903.

その後62年間で、1,200から1,700万人の移民がエリス島を経由してアメリカに到着した。ボストン、フィラデルフィア、ボルチモア、サンフランシスコ、ニューオーリンズなどの都市にも入港地はあったが、ほとんどの移民はニューヨーク港からアメリカに入国した。ホワイトスター、レッドスター、キュナード、ハンブルグ・アメリカ・ラインズといった偉大な蒸気船会社は、エリス島と移民全体の歴史において重要な役割を果たした。ニューヨーク港に到着した一等、二等船客は、エリス島で検査を受ける必要はなかった。一等または二等の切符を購入する余裕がある人は裕福であり、医療上または法律上の理由でアメリカで公害となる可能性は低いという理屈である。しかし、クラスに関係なく、病気の乗客や法的問題のある乗客は、さらなる検査のためにエリス島に送られた。このシナリオは一般に「操舵室」と呼ばれる3等船客にとっては、大きく異なっていた。

Examining Eeyes
U.S. inspectors examining eyes of immigrants, Ellis Island, ca 1913.

これらの移民は、蒸気船の船底付近の混雑した、しばしば不衛生な環境で旅をし、大西洋の荒れた横断中、船酔いで寝台で2週間も過ごすこともしばしばあった。蒸気船が港(通常はマンハッタン西海岸沿い)に停泊した後、操舵席の乗客はエリス島行きのフェリーに乗り込み、詳細な検査を受けた。書類に不備がなく、健康状態に問題がなければ、エリス島の検査は3時間から5時間で終了する。検査はレジストリ・ルーム(大広間)で行われ、そこで医師は各人に明らかな身体の不調がないか簡単にスキャンした。エリス島の医師たちは、この「6秒健康診断」の実施に非常に熟達するようになった。1916年までには、医師は人をちらっと見るだけで、貧血からトラコーマまで、数多くの病状を見分けることができると言われていた。船の出港地で最初に記入された船舶積荷目録には、移民の名前と29の質問に対する答えが記載されていた。この書類は、エリス島の法務検査官が法務検査中に反対尋問をするために使用された。

free meal
Immigrants being served a free meal at Ellis Island, 1902.

一般に信じられているのとは逆に、エリス島ではすべての主要言語の通訳が雇われ、手続きを効率化し、記録の正確さを保証していた。所謂「涙の島」という評判にもかかわらず、大多数の移民は礼儀正しく丁重に扱われ、エリス島でのわずか数時間の滞在で、アメリカでの新しい生活を自由に始めることができた。到着した移民のうち、入国を拒否されたのはわずか2パーセントだった。入国を拒否された主な理由は、医師が移民に公衆衛生を脅かす伝染病があると診断した場合と、移民が公共料金や違法な契約労働者になる可能性が高いと法務検査官が懸念した場合の2つであった。1924年以降、エリス島に運び込まれたのは、書類上の問題を抱えた乗客と、戦争難民や援助を必要とする避難民だけだった。エリス島はさらに30年間、第二次世界大戦中の敵国商船員の収容所など、さまざまな目的で使われた。1954年11月、エリス島に残っていた最後の被拘禁者、アルネ・ペーターセンという名のノルウェー人商船員が釈放され、エリス島はアメリカ政府によって正式に閉鎖された。

The Library of Congress  Ellis Island | Immigration and Relocation in United States History | Library of Congress

2024年2月21日

ラジオの魅力

DJ
Disc jockey Radio personality
豊作ラジオ   loupe

幣ブログで紹介した「豊作ラジオ」で地元京都 α-STATION(アルファステーション)の番組「ラジオが流行っている」を聴いた。出演は立命館大学坂田謙司教授と、そのゼミの学生たちだった。学生たちはテレビよりむしろラジオに関わる仕事につきたいと話していた。若い世代がテレビを見るとすれば、せいぜいスポーツ中継か音楽番組だろうと思れるが、まさか情報バラエティ番組に没頭するとは考え難い。NTTドコモモバイル社会研究所の調べによると、日常的にニュースを得ているメディアは、10~20がソーシャルメディア、30~70代はテレビがトップだという。テレビがつまらないという風潮が若い世代に広がりつつあるようだ。情報バラエティ番組の目玉が議員の裏金問題と、ドジャースの大谷翔平だけだったりすると確かに飽きてしまう。しかも自公政権のスポークスマンである田崎某を各局が重用している現実には呆れるばかりだ。そう言えば政治家から弁護士に戻り、テレビのコメンテーターに転じた橋下某の発言も酷い。これでは若い世代ばかりではなく、中高年層にもやがてテレビ不信が生まれるだろう。それから葬儀場や死亡保険、高齢者をターゲットにしたサプリなどの執拗な広告は決して気分が良いものではない。目にすると広告がない NHK にチャンネルを切替えてしまうことが多々ある。動画共有サイト YouTube はプレミアム会員になれば広告が消える。NHK の受信料は問題が多いが、同じような課金システムだと割り切っている。ラジオにはテレビとは異なる魅力がある。

ながら聴きができる
テレビは視覚も必要なので、他の作業をしながら視聴することは難しい。しかしラジオは音声のみなので、料理や掃除、洗濯などの家事や、通勤・通学などの移動中も気軽に聴くことができる。
パーソナリティとの親近感
テレビよりも限られた情報量で伝わるラジオではパーソナリティの言葉や声色がより強く印象に残る。また番組によってはリスナーからのメッセージを紹介したり、電話で生電話をつなげたりするなど、パーソナリティとリスナーの距離が近いのもラジオの魅力である。
想像力を働かせる
映像がない分声や音楽から情景を想像する楽しみがある。これはリスナー自身の経験や感性によって、それぞれ異なる世界を思い描くことができるという点で、非常に奥深い体験と言える。
災害時にも役立つ
停電時でも電池式ラジオであれば情報収集が可能なので、災害時にも役立つ。近年ではインターネット経由でラジオを聴けるサービスも登場しているので、災害時の情報収集手段としてますます重要になっている。
番組の多様性
テレビに比べて番組数の多いラジオでは、ニュースや音楽、トークなど、自分の興味に合った番組を見つけやすいというメリットがある。また、深夜帯には個性的な番組も多く、テレビでは味わえない独特な世界観を楽しむこともできる。
手軽に始められる
ラジオを聴くには、ラジオ本体さえあれば始められる。最近はスマートフォンアプリでラジオを聴くこともできるので、初期費用を抑えたい方にもおすすめである。

ところで番組では radiko(ラジコ)が話題になった。ラジオ放送をインターネットで同時にサイマル配信(ライブストリーミング)するインターネットラジオである。雑音源増加による受信環境悪化を回避、快適な受信ができる。居住区以外の日本全国の番組が聴けるようにするには、有料のレミアム会員に登録する必要がある。日本国内限定としている事から、日本国外ではプレミアム会員でも聴取出来ず、公式サイトの会員設定ページにもアクセス出来ない仕組みとなっているようだ。インターネットラジオといえば無料サービスの TuneIn Radio を愛用している。カリフォルニア州パロアルトに本社をおき、アメリカ、欧州各国、日本など世界各国のラジオ放送やインターネットラジオ約8万局、ポッドキャスト約200万件を配信している。日本語化されていて、曲、アーティスト、放送局を検索することができる。なお Facebook で友人から「いつの間にやら広告がバカスカ入るようになって、遠のきました」というコメントをいただいた。以下リンク先でお試しを。

broadcaster  TuneIn Radio: Music & Sports | Stream Radio from Stream Japan | Free Internet Radio

2024年2月19日

明治時代に一世風靡したグラフォスコープ

グラフォスコープで写真を拡大して見る芸妓(1900~1905年ごろ)
江戸時代に流行った覗き眼鏡
ロウセルのグラフォスコープ

江戸時代に流行った覗き眼鏡は、浮世絵師が極端な遠近法で描いた絵を、レンズを通して覗く装置で、立体的に像が見えるというものだ。いわばカラクリの一種だが、実際にはそれほどの立体感はなく、いわば覗くという行為がその感覚を助長したのだろう。この装置が発展したのがグラフォスコープである。上掲の写真はラブ・オーシュリ氏の膨大なコレクションの1枚で、芸妓がグラフォスコープを使って写真を拡大、覗いているいるシーンである。写真共有サイト Flickr にアップロードされているが、非営利のブログなどへの転載可という但し書きがついてるので、ここに掲載することにした。オーシュリ氏は1970年代初頭、ベトナム戦争で来日、沖縄に滞在してそのまま住みついた人である。明治時代、貴重なステレオ写真を残した写真師、江南信國(1859–1929)の作品コレクターとして名高い。グラフォスコープは英国のチャールズ・ジョン・ロウセル(1802-1882)が1864年に特許をとった、折りたたみ式の拡大鏡である。特許取得後も改良が加えられ、これは長さ約58センチ。クルミ材を使い、透かし彫りの装飾があるのが特長である。レンズは直径15センチで、絵葉書などを拡大して覗く。その下にステレオ写真用の眼鏡がついている。約10センチ四方2枚一対の写真をついたてに置き、立体写真を楽しんだ。

江南信國「松の下の芸妓」(京都・嵐山で撮影したステレオ写真)

グラフォスコープは幕末から日本に輸入され、明治に入ってステレオ写真が一世風靡した。写真そのものが小型で比較的安価だったこと、そして何より国内および異国の風景を鑑賞出来たことが爆発的ブームになった理由であったと想像される。この型番はベストセラーになったようで、海外のオークションサイトに出品されているのをよく見かける。私は京都市中京区河原町通の三条を上がった古書店「キクオ書店」の店頭ショーウィンドウに飾られているのを拝見したことがある。アンティークカメラの図鑑などにも掲載されているが、このグラフォスコープを実際に使っている上掲、芸妓の写真は、歴史的にも貴重な資料といえるだろう。

university_bk  Stereo-graphoscope | Graphic Arts Collections, Firestone Libraly, Princeton University

2024年2月18日

改訂版「酒よさらば」俺の服切り裂いた あいつに胸裂かれ

American Moonshine and Prohibition
Benjamin Rush

このレコードは NLCR(ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズ)が1962年にリリースしたLPアルバムで、禁酒法時代の歌を集めている。Moonshine はそのまま訳せば月光となるが、密造酒のことである。アパラチア山系はバーボンウィスキーの産地であり、この地域では18世紀から密造酒が作られていた。英語には bootlegger という単語があるが、密造酒をブーツに忍ばせて酒を運んだことに由来する。月明かりの下でコソコソ作ったという実感は Moonshiner という言葉のほうに籠っている。Prohibition は酒類醸造販売禁止のことだが、1784年、アメリカ合衆国建国の父、ベンジャミン・ラッシュ博士(1746-1813)が1812年、体と精神への酒の影響について『心の病に関する医学的問診と観察』を出版した。これがアメリカにおける禁酒運動の始まりだといわれている。紆余曲折のうえ1919年に法律が成立した。その後の歴史についての詳細は避けるが、暗黒街のアル・カポネ(1899–1947)に代表されるマフィアたちの資金源になったことはご存じの通りである。麻薬もそうであるが、禁ずることによって闇市場が生まれ、良からぬ組織、近頃日本で話題の「反社会的勢力」に利益をもたらしてしまうというのが道理なようだ。余談ながら密造酒は粗悪になりがちで、だから味を誤魔化すために雄鶏の尻尾を意味する様々なカクテルが考案されたという。

Oh, goodbye booze for evermoreグッバイブーズ これからずっとだよ
My boozing days will soon be o'erあのバカな俺の日々 もうじきおしまいさ
Oh, I had a good time, and we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと


She's tore my clothes, she's swelled my head俺の服切り裂いた あいつに胸裂かれ
So goodbye booze, I'm going to bedグッバイブーズ 俺はひと眠り
Oh, I had a good time, and we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと


She swelled my head, she broke my heartあいつに胸裂かれ 頭はゴチャゴチャで
So goodbye booze, we now shall partグッバイブーズ 俺たち引き裂かれ
Oh, I had a good time, but we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと


She whispered low, how sweet it sounds!あいつのささやき 低く甘く
Please take another ride on the merry-go-round どう?乗り換えたら 回転木馬に
Oh, I had a good time, and we couldn't agreeいい時もあったね 俺はへべれけで
You see what booze has done for meわかるだろこの俺に 酒がさせたこと
County Records COUNTY 516

この歌はチャーリー・プール(1892-1931)の "Goodbye Booze"(酒よさらば)で、NLCR も上掲のアルバムに収録している名曲だ。"If the River Was Whiskey"(もし川がウィスキーならば)といった歌も作っているのだが、最初に手にしたバンジョーは、密造酒を売って得たお金で購入したと言われている。映画のバックグラウンドミュージックを演奏するため、ハリウッドに招待されて切符代を受け取ったのだが、ロサンジェルスへ行かなかった。お金を6週間にわたる飲酒パーティに費やしてしまったのである。自ら作った歌のように『酒よさらば』できず、酒に溺れ、それが災いして、アルコール中毒で1931年に心臓発作に見舞われ、39歳の若さで他界してしまった。私はアメリカンルーツ音楽が好きだが、日本人がそのまま歌うことに抵抗がある。学生時代、ブルーグラス音楽のバンドを作ったりしていたが、ずいぶん後になって、それを恥ずかしく感ずるようになった。ただブルーグラス音楽のメロディは覚えやすいので、それに自作の歌詞を添えるという試みは何度かしている。一番難しいと思ったのは、訳詞である。単に訳するだけなら簡単だが、歌えるように日本語化するのが結構面倒なのである。もし日本語で歌ってみたいという場合、若干の手直しが必要かもしれない。下記 YouTube のリンクボタンをクリックすると、オリジナル録音を聴くことができる。私は煙草はとっくの昔にやめたけど、老朽化した肝臓をいたわるため、酒はおさらばしようと決意、実行に移して一週間が過ぎた。

YouTube  Goodbye Booze: Charlie Poole and the North Carolina Ramblers (Recorded Sep 17, 1926)

2024年2月16日

ラシュモア山国立記念碑の秘密の部屋

Mount Rushmore National Monument
Mount Rushmore National Memorial in South Dakota

サウスダコダ州ブラックヒルズの岩山、ラシュモア山に巨大な4人の大統領の顔が刻まれている。左からジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーンである。ジョージ・ワシントンの顔、顎から頭までの高さは18メートル30センチ、ジェファーソンの鼻の長さは6メートル、ルーズベルトの口髭の幅は6メートルもあり、おどろくほど大きなものだ。この巨大な彫刻は、アメリカ人彫刻家ガットスン・ボーグラム(1867–1941)が400人の作業員とともに彫ったものである。ラシュモア山の岩盤は非常に硬質なので、ダイナマイトで砕きながら作業を進め、1927年から1941年にかけて、14年間の歳月をかけて彫られた。広く知られるようになったラシュモア山は、年間約300万人以上の観光客が訪れるようになったが、深い歴史と、どんなに読書家の歴史ファンでも驚くような、あまり知られていない七不思議がある。

  1. 当初の計画では別の人物像が描かれていた
  2. カルヴィン・クーリッジ大統領が政府から資金を要求される
  3. セオドア・ルーズベルトは眼鏡をかけていない
  4. リンカーンの頭の後ろに秘密の部屋がある
  5. 第5の顔を追加する試みもなされてきた
  6. プレジデント・トレイルからが最高の眺望
  7. 抗議デモの会場となったこともある

注目すべきは4番目の隠された部屋である。あまり知られていないが、重要な要素のひとつが未完成のまま残され、リンカーンの力強い眉の後ろに隠されたままになっているのである。大統領の真後ろを流れる小さな渓谷の花崗岩の壁には、エジプトのファラオの墓の入り口のような高さ18フィートの扉口が刻まれている。敷居をまたぐと、長さ約75フィート、高さ35フィートの天井の空っぽの部屋が広がっている。壁には発破用のダイナマイトを入れるためにジャッキで打たれた穴があり、蜂の巣のような効果をもたらしている。おそらくボーグラム自身が描いたと思われる赤い数字が、岩の撤去の指示を示しているようだ。

Abraham Lincoln
Gutzon Borglum hanging below the eye of Abraham Lincoln, 1935
Gutzon Borglum (1867–1941)

ボーグラムは、この未完成の部屋を、要するに、現在の世代に向けてではなく、未来の文明、さらには何千年も先の惑星間訪問者に向けて、自分の彫刻の意味を説明する芸術家のステートメントにするつもりだった。彫刻家は「住所も署名もない手紙を世界中の郵便局に投函するのと同じように、彫られた山を身分証明書なしで歴史に送り出すのと同じことだ」と書いている。ラシュモア山に彫られた4つの顔は、今日では小学生でも誰であるかすぐにわかるが、いつかストーンヘンジ(環状列石)のように神秘的な存在になるかもしれないとボーグラムは考えていた。彼は「後を継ぐ文明は、その前身を忘れてしまう」と嘆いた。「文明とはグール(屍食鬼)である」と。吹き抜けの天井には北極星を指し示す十字架が取り付けられ、壁には "西の世界を発見し占領した人類の冒険" を描いたフリーズ(帯状の装飾)が飾られる予定だった。1938年7月、作業員たちは大統領の顔に隠された小さな峡谷の北壁の岩を切り開き「記録の殿堂」の建設し始めた。しかし建設が始まって1年が経った頃、記念碑の建設費をほぼ全額負担していた連邦政府が締め付けを強め、ボーグラムに「記録の殿堂」の工事を中止し、大統領の横顔の完成に全力を注ぐよう命じたのである。1941年3月に73歳の彫刻家が亡くなってから7ヵ月後、ボーグラムの息子リンカーンが中心となって、4人の大統領の彫刻を完成させた。ラシュモア山国立記念碑は完成したとみなされたが、ボーグラムの最終的な計画と「記録の殿堂」は未完成のままだった。1998年8月9日、16枚の磁器エナメルパネルが追加されたとき、彼の家族4世代が未完成の部屋に集まった。パネルには独立宣言などの文書の言葉、彫刻家と彼の大統領候補の経歴、記念館建設とアメリカの歴史が刻まれていた。それらはチーク材の箱とチタン製の保管庫に入れられ、地中に下ろされた。そして1930年にワシントンの彫刻を奉納した際にボーグラムが述べた言葉が刻まれた1,200ポンドの黒御影石のキャップストーンで覆われた。ボーグラムの娘メアリー・エリスは「父が見たラシュモア山の創造はこれで終わりです」と語った。安全および防犯上の懸念から、観光客が山に登って「記録の殿堂」を見ることは禁止されている。アメリカ先住民の神聖な土地に、白人至上主義の秘密結社 KKK(クー・クラックス・クラン)とつながりがあったボーグラムによって彫刻されたラシュモア山国立記念碑は、完成する前から論争を巻き起こしていた。先住民による闘争の歴史を下記リンク先のナショナルジオグラフィック誌が深堀りしている。

National Geographic  The heartbreaking, controversial history of Mount Rushmore National Monument, 2020

2024年2月15日

改定版:災害時にワイド FM も聴ける豊作ラジオ

豊作ラジオ

チューナーの入力端子がついたプリメインアンプがある。未だに FM チューナーの製造販売しているメーカーがあるからだろう。パソコンのデジタル音質にすっかり飽きてしまい FM 放送を聴いている人が結構いるらしいのだ。オーディオブーム時代に FM チューナーを購入、エアチェックしてカセットテープに録音したのが懐かしい。ところで2018年の台風21号による停電の教訓から、携帯ラジオが必要と痛感した。条件は「ワイド FM」放送も聴けることだった。余りに耳にしない用語で、私も最近知ったのだが、正式には「FM 補完放送」という名称がついている。ネット百科事典ウィキペディアによると FM 補完中継局は「中波放送を行う基幹放送局の放送区域において、災害対策等のため、補完的に超短波放送用周波数を用いて放送を行う中継局」と定義されているそうだ。つまり FM 電波で、AM 放送が聴ける放送のことである。ワイド FM ならビルやマンション、山間部でも雑音が少ないクリアな音で聴ける。ただし山の影では電波が回り込みにくいので受信できない。私が住む京都では、比叡山の中腹に KBS 京都が送信機器を設置、2018年から放送を開始している。

周波数
周波数 90.1MHz~94.9MHz に対応した FM ラジオが必要

このワイド FM を受信するには、従来の FM 放送用の周波数(76.1MHz~89.9MHz)に加え、新たに FM 放送用として使用可能とした周波数(90.1MHz~94.9MHz)に対応したラジオが必要である。そこで選んだのが砂埃や雨を気にせず屋外で使える、オーム電機の AudioComm「豊作ラジオ」 PLUS|RAD-H390N 03-5632 だった。丸みを帯びた濃緑色の筐体デザインが気に入った。名称は田圃や畑での農作業中でも使えることに由来するらしい。完全防水ではないが、IPX4 防飛沫仕様なので、水しぶきに強く、災害時にも役立ちそうだ。受信可能な周波数は AM 530KHz~1605kHz / FM 76MHz~99MHz で、ワイド FM に十二分に対応している。水滴の侵入を防ぐためか、イヤフォンの出力端子がない。従って避難所で使えないのが残念である。搭載スピーカーは口径100mmで重低音は流石に無理だが、音質はそれなりにバランスがとれている。オートチューニングではないので選局し辛いのが難点である。電源が大容量の単1形乾電池4個で、持続時間は AM 受信時は約290時間、FM 受信時は約216時間となっている。一週間鳴らしっぱなしでも電池交換しなくても良いというのは災害時の情報源として優れた値である。災害時の情報取集、野良仕事のアシストなど、野外でラジオを利用する手軽なツールである。風呂場に持ち込んでいる猛者もいるらしい。ごく最近、地元の α-Station(エフエム京都)の放送をこのラジオで聴くようになった。遥か大昔の受験生に戻った気分、懐かしくも、楽しいひと時になっている。

broadcaster  ワイド FM に対応した全国民間放送局(FM 局/FM 補完中継局)一覧とその周波数(総務省)

2024年2月14日

ソーシャルメディア Facebook はなぜ英語を主体にしているのか

Important linguistic diversity
多様性は言語が持つ最も重要な要素

ソーシャルメディア Facebook で「面識のない方からの友達申請はお断りしてます」という投稿を目にすることがある。実際に出会った人しか友達にならない点はよく理解できる。何しろ世の中には問題がある人が少なからずいるし、フィッシング詐欺などのネット犯罪に巻き込まれる可能性がなきにしもあるからだ。かくいう私は現在 1,500 人強の友達がいる。そのうち面識があるのはおそらく 100 人に満たないかもしれない。というか数えるのは困難だが、友達の過半数が外国人で、少なくとも英文の「面識のない方…」というメッセージは出会ったことがない。ただ「素晴らしい情報を発信している人と繋がりたい」と思い、見知らぬ人に友達申請を積極的したことがあるが、当然のことながら無視されたことも多々ある。

逆に面識のない人から友達申請を受けたときは、一応どんな人かチェックするが、おおむね承認している。ただしプロフィール写真が若い女性で、なぜ私に興味を持ったのが不可解の場合、カバー写真が怪しげな場合は要注意だが。友達追加、友達確認、送信済みリクエストのキャンセル、受信リクエストの削除、友達解除、友達の削除ができるウェブブラウザ Chrome 用拡張機能 AutoFriends があるが、英語版のみで、日本語化されていないようだ。ところで私は X(旧Twitter) や Instagram でも日本語を使っていない。海外の人々と交流できるのがインターネット、その恩恵を享受したいと思ったからだ。

  • 2004年にアメリカのハーバード大学に通っていたマーク・ザッカーバーグによって設立された。当初はハーバード大学の学生向けのソーシャルネットワークサービスとして立ち上げられたため、英語が主要言語として設定された。
  • 現在 Facebook は世界で29億人以上のユーザーを抱えている。そのうち英語を話すユーザーは約13億人と、全体の約45%を占めている。これは他のどの言語よりも多くのユーザー数である。
  • 広告収入によって収益を得ている。広告主はできるだけ多くの人々に広告を届けたいと考えている。英語は世界で最も多くの人が話す言語であるため、広告主にとって最も魅力的な言語と言える。英語は世界で最も多くの人が話す言語であるため、広告主にとって最も魅力的な言語と言える。
  • Facebook は機械翻訳などの技術を使って、コンテンツを異なる言語に翻訳している。しかし機械翻訳は完璧ではなく、誤訳が発生する可能性がある。英語は他の言語よりも機械翻訳の精度が高いと言われている。

以上がなぜ非英語圏を含め Facebook は英語を主体にしているのか、その理由だと私は推測している。とはいえ現在 Facebookは、英語以外にも多くの言語に対応している。ユーザーは、自分の好みに合わせて言語設定を変更することができる。そして機械翻訳の精度向上に力を入れている。人工知能による機械翻訳の向上は目覚ましく、ごく近い将来、英語以外の言語でも、より自然な翻訳ができるようになると思われる。アラビア語やハングルなどのみしか使用していないユーザーからの友達申請に怯むことなく承認し、言語設定選択で、母国語への自動翻訳が流れる日は近いだろう。下記リンク先は言語に関する雑学サイト Words Trivia の「なぜ私たちはソーシャルメディア上で、母国語ではなく英語でコミュニケーションを取るのか」という記事である。

Social Media Why do we communicat on social media in English rather than in our Primary Language ?

2024年2月12日

ファーブルの帽子に憧れる

新潮社(2008年)

子どものころからジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915)の名前はよく知っていた。これはよくあることで知識という名の奸計である。彼の『昆虫記』は余りにも有名だが、有名の割に読まれているのだろうか。そのことを痛感、20年ほど前、岩波文庫の10冊セットを購入した。しかし一冊目の半ばでストップしたままである。これを全部読了した人には大いなる尊敬の念を送りたいが、翻訳者にも賛辞を贈りたい。その代わりというのも変だが新潮社『ファーブルの写真集:昆虫』はすんなり読み通すことができた。写真は息子のポールが撮影したもので、撮影機材が今日ほど発達していなかった時代にも関わらず、技術的にも素晴らしい。というわけでファーブルと接点はいささか乏しいのだが、私は『昆虫記』もさることながら、別の憧憬がある。彼が愛用していた帽子である。黒いつば広フェルト帽だが、これはフランスの中央高地ルエルグ地方の人であることの証であるという。流行なのだろうか、これに似た黒いフェルトのつば広帽子を数年前あたりから街中で見かけるようになり、遅れ馳せながら最近購入した。私はカウボーイハットを持っているが、逆立ちしてもカウボーイになれないと悟り、かぶるのをやめてしまった。おそらくファーブルの帽子もどきも同じ運命を辿るような予感が今からする。恰好だけで、ファーブル的な隠遁生活を送れない自分を恥じるばかり、いささか慚愧の念に堪えない。せめて急がずにゆっくり『昆虫記』に目を通そうかなと思っている。なおファーブルが、1915年に92歳で亡くなるまでの36年間を過ごした家が、アヴィニヨンから約30キロのセリニャン・デュ・コンタという小さな村にある。あの有名な『昆虫記』が執筆された家と、様々な観察と実験のために作った庭がある。彼はここをプロヴァンス語で荒地を意味する "Harmas"(アルマス)と呼び、生きた昆虫の行動学研究所とした。現在はフランス国立博物館になっているが、下記リンク先がその公式サイトである。

museum  Harmas Jean-Henri Fabre | Sérignan-du-Comtat, Vaucluse, Provence-Alpes-Côte d'Azur

2024年2月10日

米山隆一に論破された三浦瑠麗

三浦瑠麗 山猫総合研究所 公式サイトより

久しぶりに三浦瑠麗の名を目にした。自称国際政治学者三浦瑠麗と衆議院議員の米山隆一のX(旧ツイッター)でのやりとりを引用したデイリースポーツ紙の記事だった。2月8日に三浦瑠麗が「政治家はSNSじゃなくてリアルで仕事した方がいい」とつづったが、これに対し翌日、米山隆一が「自意識過剰的に仮想対象の一人かなと言う事でコメントすると、それはSNSの影響を見誤っていると思います」と真っ向から否定したのである。

米山隆一は医師で弁護士でもある立憲民主党の論客だ。積極的にSNS を利用しているし、米国のドナルド・トランプ前大統領が旧ツイッターの強い影響力を知らしめたのも事実である。余談ながら彼のツイートが極右の過激派を駆り立て、米連邦議会襲撃事件につながったのである。これによってアカウントが剥奪されたが、イーロン・マスクはこれを復活させている。ところで弊ブログは三浦瑠璃を過去2回取り上げている。「三浦瑠麗『大喪の礼』誤読奇譚」(2022年8月3日)「三浦瑠璃を重用してきたテレビ番組の功罪」(2023年2月1日)である。私はフォローしていないのでよく分からないが、彼女はX(旧ツイッター)を頻繁に利用しているらしい。政治家が使うのが駄目なら、学者も論文制作などの仕事に没頭したらどうかということになる。いっそのこと岸田文雄や河野太郎に対し、名指しで使うなと提案したらいかがと、余計な一言をつぶやきたくなる。下記リンク先は山猫総合研究所の公式サイトである。テレビの世界から引導を渡されて表舞台から姿を消したが、捨てる神あれば拾う神あり、文藝春秋電子版が配信している「炎上上等対談」の司会を担当するなど、それなりに活動の場を与えられていることがアクセスして分かった。

WWW_BK YAMANEKO RESEARCH INSTITUTE | PROFILE | BOOKS | REPORTS | NEWS | CONTACT

2024年2月5日

ブラックフェイス(黒塗りメイク)は人種差別である

いささか旧聞に属するが、2017年の大晦日、NHKの紅白歌合戦の裏番組、日本テレビ系「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の「絶対に笑ってはいけない24時」は17.3%という高視聴率だったそうだ。テーマは「アメリカンポリス」だった。ダウンタウンの浜田雅功が、肌を黒くメイクして登場した。テロップではエディ・マーフィ主演の映画「ビバリーヒルズ・コップ」の説明が流れたそうだ。これに対し憂慮を示した日本在住の黒人作家、バイエ・マクニールさんのことをソーシャルメディア X_Twitter で知った。「日本は好きだ。13年住んだし、日本に良いことが起きるように祈ってる。2020年オリンピックで、黒人アスリートのためにブラックフェイスのドゥーワップをやらかすんじゃないかって、真剣に不安だ。いますぐやめろ」とツイートしたのである。

顔を黒く塗ったダウンタウンの浜田雅功

番組を制作したテレビ局は無論のこと、出演者、そして「絶対に笑ってはいけない」にも関わらず笑いこげただろう視聴者は、このクレームは想定外に違いない。ネット上の一部で話題になっているが、日本の大手メディアは取り上げていない。従って多くの日本人はこの問題に気付いていない可能性が強い。英国BBC放送1月4日付け電子版が「日本のテレビショーの黒い顔の役者が怒りを買っている」というという記事を掲載、国際的に広がる可能性が出てきた。伊藤詩織さんレイプ事件と同様、海外メディアによる日本叩きの恰好材料と化しているのである。日本のテレビメディアの劣化に怒りを禁じえない、情ない現実である。私はこのいわば「事件」に触れ、19世紀から20世紀初頭までアメリカ合衆国で流行ったミンストレル・ショーのことを思い出した。ミンストレル・ショーに関してはインターネット百科事典の日英版ウィキペディアに詳しいが、顔を黒く塗った白人芸人によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えた、アメリカのエンターテインメントのことである。根底にあるのは黒人に対する蔑視、紛れもない人種差別であった。ただミンストレル・ショーは、アメリカにおける音楽を含めた大衆芸能のルーツであることも歴史的事実である。日本人にはいささか分かり難いかもしれないが、差別するという意識がなくとも、黒塗りメイクをしただけで人種差別と解釈される。というのがアメリカの常識であり、世界の共通認識になっているので、知らなかったでは済まされない問題なのである。この際ぜひ「ミンストレル・ショー」をキーワードにネット検索して欲しい。

The Library of Congress  Minstrel Show Songs | Playlist: Five recordings from the Library of Congress collections

2024年2月3日

画像ビューア IrfanView で Photo CD のファイルを開く

IrfanView
セネガルのカヤール(IrfanView で開いた Photo CD のファイル)

アフリカやインドなど、かつて撮影した写真の Photo CD を数枚持っている。Photo CD とは、'90年代にコダック社がフィリップ社と開発した、ネガ、ポジなどの写真フィルムを、安価にデジタル化し CD にしてくれるサービスで、富士フイルムでも提供していた。当時は、まだデジタルカメラが普及しておらず、かつフィルムのスキャンをラボなどに依頼すると高額だった。35mmフィルムのみの対応で、品質も素晴らしいとは言えないながら、写真のデジタル化を安価に容易に可能にしてくれた便利なサービスだった。最近、その Photo CD から画像を取り出す必要に迫られた。しかし CD に保存された PCD ファイルは、画像処理ソフトの定番ソフト、アドビ社の Photoshop では開かない。現在対応している画像ビューアは次の通りである。

  • Macintosh:ToyViewer
  • Windows:XnView or IrfanView

かつて IrfanView(イルファンビュー)を使ったことがあるので援用できるか調べてみた。IrfanView は、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身でオーストリア在住の Irfan Skiljan(イルファン・スキリャン)が開発した Windows 用の画像ビューアである。初版が1996年と古いので、Windows 11 に対応しているか気がかりだったが、最新版 Ver 4.66 が2023年12月20日にリリースしたばかりと分かった。そこで早速 Windows 用のオンラインソフトウェアを紹介するウェブサイト「窓の杜」で64bit版をダウンロードした。

窓の杜

ここで注意しなかればならないのは「16Base」の2048×3072ピクセルのファイルをブラウズして開くには、別途 IrfanView PlugIns のインストールが必要であることだ。そうでなければ「Base」の512×768ピクセルにしか変換できない。必要なら日本語化モジュールもダウンロードしたら良いが、例えば最新バージョンで導入さたダークモードやテキスト回転機能など新機能追加するには、英語モードに戻す必要がある。この点も留意すべきだろう。なお Photo CD 丸ごと1枚、100コマの写真の一括処理はできず、1コマずつ変換する。やや面倒なようだが、サムネイルを頼りに写真を選択した。それにしても捨てる神あれば拾う神あり、諦めずに挑戦してよかった。アフリカの旅の写真が蘇り、懐かしくも楽しい作業だった。

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