国境を超えたメキシコのボーダーラジオ局 XERA で演奏した数回の冬と、ノースカロライナ州シャーロットのラジオ局 WBT で演奏した戦時中の1年を経て、オリジナル・カーター・ファミリーは16年間に渡る活動のあと、1943年に解散した。サラは新しい夫と一緒にカリフォルニアに移住、A.P. はヴァージニア州メイセススプリングに食料品店を開いた。メイベルと娘たち、ヘレン、アニタ、ジュ―ンは、父親のエズラの励ましとツアーサポートを受けながら自分たちのカントリー音楽活動を確立していった。メイベルとカーター・シスターズのレパートリーは、カーター・ファミリーの人気曲だけでなく、当時のポピュラー・サウンドにも及んでいた。メイベルのアイコンであるFホールの L-5 ギブソンギターは、グループのリード楽器のひとつだった。またメイベルは本来ラップトップであるオートハープを腕に抱え、親指と人挿し指でメロディーと伴奏を演奏する方法を考案した。ヘレンは当時のカントリーミュージックで頻繁に使われていたアコーディオンを演奏していた。1949年にはテネシー州のチェット・アトキンスが、フィドルとフィンガースタイルのエレキギターで、グループの最初の家族以外のメンバーとなった。ジューンはエネルギッシュなコメディーを加え、母と姉妹はキラキラとした笑顔で甘いトリオハーモニーを歌った。ヴァージニア州リッチモンドの小さなラジオ局 WRNLで3年間活動した後、リッチモンドでは5万ワットの WRVA のオールド・ドミニオン・バーンダンス、ノックスビルでは WNOX のミッドデイ・メリーゴーランドなど、活動の場を広げていった。1950年にはナッシュビル WSM 局のグランド・オール・オプリーへと大きなステップを踏み、その後すぐにビクターとコロンビアのナショナル・レーベルと契約した。メイベルは、ヴァージニア州で勤勉さを身につけて育ち、旅の戦士として活躍した。グループのツアーカーを長時間運転し、衣装や音楽的な問題を管理した。
ビジネス上の決定はエズラが行い、3人が結婚するまで娘たちのソロ活動を見守っていた。60年代に入ると、メイベルは自分のスタイルを見失い、娘たちも他の音楽活動や家族の活動に夢中になっていた。週末にオプリーに出演しながら、パートタイムの准看護師として高齢者の世話をしていた。そして新しい世代に「フォークリバイバル」運動が起きた。彼らはカーター・ファミリーの歴史的な録音とクラシックなスタイルに注目、そして第2期のカーター・ファミリーの人気が再燃するきっかけとなった。ニューポート・フォーク・フェスティバルや初期のブルーグラス・フェスティバルなどで、ギターやオートハープの演奏を披露し、全国的な出版物のインタビューを受けていた。引退していたサラは、メイベルと一緒にアルバムを制作したり、何度か共演したりするように説得された。しかし最大のチャンスは、メイベルのカントリーやフォークでの名声と、ジョニー・キャッシュが娘のジューンに興味を持ち始めたことが重なり、マザー・メイベルとカーター・シスターズが、自己完結型のジョニー・キャッシュのツアーパッケージ、そして最終的には彼のネットワークテレビ番組に出演するという長期契約を結んだことだった。60年代半ばから70年代前半にかけて、彼女たちはジョニーのバックで歌い、自分たちのセットを披露した。しかし指の関節炎の痛みを感じたメイベルは、リードギターを娘のヘレンに譲り、オートハープを中心に演奏するよになった。エズラが亡くなる少し前の1975年に、メイベルは娘たちやジョニー・キャッシュ、チェット・アトキンスらの反対を押し切って、音楽活動からの引退を決意した。彼女はフロリダのセカンドハウスで過ごす時間を増やし、友人たちとビンゴやトランプ、賭け金の少ないギャンブルなど、活発な社交生活を楽しんだ。1978年、彼女の容態が深刻な状態になり、その年の10月23日に静かに眠りについた。彼女の死は全米で注目されたが、物腰が柔らかく勤勉で、愛されていたメイベル・カーターは、自分が世界の音楽遺産に与えた影響の大きさを十分に理解していなかったのかもしれない。
A Lifetime Of Labor: Maybelle Carter At Work by Jessica Wilkerson | National Public Radio
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