2020年7月12日

ピート・シーガーを支えたトシ夫人

Toshi and Pete Seeger ©1992 Steve J. Sherman

ピート・シーガー(1919–2014)は日本でも有名なフォークシンガーだが、トシ夫人(1922–2013)は案外知られていなかもしれない。今月9日が命日だったので、追悼の気持ちを込めてその生涯を追ってみた。祖父がマルクスの著書を翻訳したため、その代わりにトシの父親、タカシ・オオタが四国から亡命を与儀なくされたようだ。旅行中にワシントンDC出身のバージニア・ハーパー・ベリーと知り合い、結婚してミュンヘンに住んだ。トシが生後6か月のときに一家は米国に移住、ニューヨークのグリニッジビレッジとウッドストックで育った。1939年にスクエア・ダンス・パーティーで未来の夫、ピートと出会うが、まだ高校生だった。

出廷した夫妻(1961年)
ふたりは1943年に結婚、1949年に水道も電気もない丸太小屋をハドソン川沿いに建てた。これはハドソン川を浄化するための環境プロジェクト「クリアウォーター・フェスティバル」設立の基盤となった。1960年代初頭、ニューポート・フォーク・フェスティバル設立を手伝ったが、カントリー・ブルーズ・シンガー、ミシシッピ・ジョン・ハート(1893–1966)の「発見者」としても知られている。1965年3月7日、公民権運動中にアラバマ州の都市セルマで「血の日曜日事件」が起きたが、トシはピーターと共にデモに参加した。彼女は映画製作者およびプロデューサーとして頭角を現したが、しばしばフォークミュージックに焦点を当てるようになった。テキサス刑務所で撮影したアフリカ系米国人の囚人の労働歌の記録など、その作品の多くが米国議会図書館に保存されている。ピートのテレビ番組「レインボークエスト」の実質的プロデューサーはトシであった。番組の最後に流れた "Chief Cook and Bottle Washer" (コック長で瓶洗い、転じて何でも屋)というクレジットが象徴的である。自らが前面に出るより、裏方、すなわち「内助の功」によってピートを支えたと言える。ピートは1961年3月に、法廷侮辱罪の陪審裁判で有罪となり、懲役10年の刑を課せられたが、控訴審は1962年5月に原判決を覆した。バンジョーを肩にニューヨーク連邦裁判所に出廷するピートに寄り添うトシの写真が残っている。結婚70周年の9日前の2013年7月9日、ビーコンにある彼女の自宅で91歳で亡くなったが、翌年1月27日、ピートも追うようにして他界した。

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Pete Seeger Remembers His Late Wife Toshi, Sings Civil Rights Anthem "We Shall Overcome"

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