2020年7月21日

イスラームのモスクになるアヤソフィア

コンスタンティノープルに入るメフメトⅡ世(1453年)ファウスト・ゾナロ画

トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領がイスタンブルのアヤソフィアを「イスラームのモスクに戻す」と発表した。報道を受け、隣国のギリシアやキリスト教界は強い反発を示している。元を辿ればキリスト教の大聖堂として建設された建物だからだ。サウジアラビアの日刊紙アラブニュース電子版によると、欧州共同体司教会議委員会(COMECE)のマヌエル・バリオス・プリエト事務局長は「アヤソフィアをモスクにすることはトルコを欧州から遠ざけることであり、それは正教会にとっても宗教間の対話にとっても打撃です」と語ったという。最初のアヤソフィアは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに建てられた、木造屋根の大聖堂だった。最初の名前は「大教会」を意味する「メガリ・エクリシア」だった。その屋根が404年に焼失、414年の2回目の火災で壊滅状態になったが、テオドシウスⅡ世(401–450)によってに再建が行われ、415年に献堂されたのである。この聖堂も532年の首都市民の反乱における放火で、皇帝宮殿の一部やアギア・イリニ聖堂とともに再び焼失してしまう。しかし同じ年に再建が始まり、5年で完成した。

アヤソフィア前に集って夕刻の祈りを捧げるムスリムたち(7月10日)

537年にユスティニアヌス帝(483-565)によって奉献された大聖堂は地震に耐えることができず、アーチとメインドームの両方が557年に崩壊してしまう。ドームは4年で再建され、563年、再奉献された。アヤソフィアは、コンスタンティノープル総主教庁の所在地として正教会第一の格式を誇り、また東ローマ帝国の諸皇帝の霊廟として用いられた。1453年、オスマン帝国の第7代皇帝メフメトⅡ世(1432–1481)はコンスタンティノープルをイスラームの勢力下に収めるため包囲、5月29日、陥落した。メフメトⅡ世は、イエニチェリ軍団の精鋭に守られ、白馬に跨って、カリシウス門から入場、アヤソフィアの前で馬を降りた。大聖堂の中に入ると、大臣たちにただちにモスクに改造するように命じたという。木製のミナレットを建設、ドームの大きな十字架と塔の鐘は取り除かれた。かくしてビザンチン帝国はこの世から消滅したのである。しかしそのオスマン帝国も第一次世界大戦で敗戦国となって滅び、ムスタファ・ケマル・アタテュルク元大統領(1881–1938)によって世俗化され、博物館になった。エルドアン大統領は今月19日、アヤソフィアを訪れ、24日に予定される初めての集団金曜礼拝に向けた準備状況を確認、トルコがアヤソフィアを博物館にしたのは間違いだったと発言した。オスマン帝国の栄光を取り戻すという亡霊に取り憑かれている。

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