ジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ』全三巻
バスのつり革に掴まっている、私の前に立った若い女性を見上げたら、どうやら読んでいるのは洋書らしい。目を凝らすと、それがジェイムズ・ジョイスの『ダブリン市民』ということが分かった。ふーん、凄い、と感心する。私は邦訳の文庫本を10年以上前に購入したが、未だに読み終えていない。短編集だが、少し読んでは置いてしまう、そんな本である。ピンホール写真仲間の女性は「原書で読んだほうがいいわよ」と私に勧める。彼女は英語教師だからスラスラ読めるだろうが、私にはトンでもない話である。なにしろ日本語でも読破していないのだから。そのジョイスといえば、分厚いハードカバー3分冊(文庫版は4分冊)の高松雄一・丸谷才一 ・永川玲二(共訳)『ユリシーズ』(集英社1997年)も持っている。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と並んで、20世紀における2大小説と呼ばれているものだが、まだ1ページも読んでいない。なぜ購入したか記憶が曖昧である。アイルランド旅行をし、ダブリン訪問の余韻が残っていたときに衝動買いしたものかもしれない。くだんの英語教師の彼女は「これも原書がいいわよ」という。『ダブリン市民』も読みかけなのに、無理、無理である。そういえば昔、学生時代に米文学を専攻していた女性に「アーネスト・ヘミングウェイは原文で読むべきね、彼はジャーナリストだから簡潔で分かりやすい英語だし…」といわれたことがある。その気になった私は "The Nick Adams Stories"(ニック・アダムズ物語) という短編集を入手したものである。主人公ニックはヘミングウェイの分身で、スペイン戦争から帰還した青年、ロストジェネレーションの物語である。晩年の彼はその代表作『老人と海』が暗示しているように、大魚を狙った海釣りをする。しかしここには川釣りで鱒を追って戦争の傷を癒す若きヘミングウェイの姿が投射されている。と、もっともらしい解説をしかけたが、これは後に読んだ邦訳版『ヘミングウェイ釣文学全集(上巻)鱒』(朔風社)で仕入れたものだ。オンライン版の原書を翻訳ソフトを使いながら、何とか拾い読みすることができた。翻訳本でも十分楽しめる、と強がりを言ってみるものの、どこかに引け目を感じてしまう。やはり原書を読めるに越したことはないのだ。手元にノーベル文学賞作家、トルコのオルハン・パムクの『イスタンブール』がある。嗚呼、原書を読めたらいいのに。嗚呼、もっと語学の勉強しておけば良かった。
ニック・アダムズ物語 |
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