2020年4月25日

ピクトリアリスムとピンホール写真の接点

Dancing Girls at Okazaki Park Kyoto with Harman TiTAN 4x5 Pinhole Camera and Fujifilm 160NS

Alfred Stieglitz: Hand of Man (1902)
香港のゼロイメージ社と英国ハーマン・テクノロジー社の4x5インチピンホールカメラを持っているが、鮮明ですね、とよく言われた。その理由のひとつとして、フィルムの面積が関係していると思う。ピンホール写真は光の直進性を利用するので、針孔の口径とフィルムのフォーマットが画素数に影響する。針孔の口径が小さければ画素数は増える理屈になるが、余り小さくすると光の回折現象によって画質が劣化する。適正針孔口径の計算式があるのだが、その通りに正確に作るにはレーザードリルが力を発揮する。だからホルガやゼロイメージなどの既製カメラの画像は鮮明なんだと推測している。私はレンズなしのカメラでどこまで写るかという興味を持ち、8x10インチのボディを特注したり、超精巧針孔基板を取り寄せてテストしてみた。ピンホール写真は鮮明さを追求するものではないが、まあ、好奇心である。しかし周囲の人たちの多くの作品の鮮明度が上がるにつれ、なんだかオカシイな、と感ずるようになったのである。だから三脚を使わず、わざとブラした不鮮明な写真を作るようになった。写真術の出現は長い人類の歴史から俯瞰すれば、つい昨日のことと言える。その黎明以降、人々は精巧なレンズを開発、より鮮明な映像を定着しようと努力してきたと信じてる人が多いかもしれない。ダゲレオタイプは1839年にフランス学士院で発表されたが、驚くほど短期間の間に肖像画に取って替わってしまった。写真が持つ明解性が絵画を凌駕したからだ。ところ19世紀末になると、カーボンやゴム、オイル、ブロモイルを使った印画法が流行る。絵画における印象派の影響を受け、ソフトフォーカスによって芸術性を高めようという動きが起こるのである。いわゆるピクトリアリスム、絵画主義写真だが、皮肉なことに写真が持つ明解性を写真家自ら排除してしまったと言える。

George Davison: Onion Field (1890)
その背景にはディテールへの嫌悪感だったと言えそうだ。つまり見えなくとも良いものまで見えてしまうことへの恐れだった。ピクトリアリスムの旗手はアメリカではアルフレッド・スティーグリッツ(1864-1946)、日本では野島康三(1889-1964)らであった。ところが1910年代半ば、忽然としてピクトリアリスムは頓挫、この二人も含め写真界はストレート写真へ回帰してしまう。精密な描写力こそ写真の特質であるというのが主張だった。以上は余りにも駆け足過ぎる歴史記述だが、ピクトリアリスムとピンホール写真の間に何らかの関係はないだろうか、ということを調べたことがある。1890年にジョージ・デイヴィソン(1854-1930)が撮ったネギ畑のピンホール作品が、ロンドン写真協会の年度最高賞を受賞し話題になった。そして2年後には Photonimbuses(フォトニムバス)というピンホールカメラがロンドンで4000台も売れたそうだ。ソフトフォーカスの流行がピンホール写真を受け入れたと解釈できないことはない。しかし調べた限りでは、その後のピクトリアリスムの歴史にはどうもピンホール写真は登場しないようだ。つまり両者には大きな接点を見つけることはできない。別の方向で歩んで来たと言えそうだ。不鮮明な画像を得ようとするなら、ソフトフォーカス効果が得られるフィルターやレンズを使えば良い。わざわざピンホールカメラを使う必要はない。また逆に、冒頭に触れたように、ピンホール写真は鮮明さを得ることが目的ではない。不鮮明でも構わないのではないかと居直ったとき、その先に展開するものは何だろうか。困るのは、コンテンポラリー・ピクトリアリスムを目指していると勘違いされることである。

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