千葉大学C&W研究会編「Blue Grass」(1963年11月発行)
以下の文章は千葉大学C&W研究会のOB会員による「WEST CLUB」会報6号に寄稿したものです。なお、在学当時私が編纂した小冊子「Blue Grass」を同会事務局にPDF化していただいたので、閲覧可能にしました。
千葉大学に入学したのは1962年でした。軽音楽部を覗くと、1年先輩の井上博雄さんと加藤英夫さんがカントリーやブルーグラス音楽の曲を練習していました。私もギターを買って井上さんに教えて貰ったのですが、なかなか上達しませんでした。というよりブルーグラス音楽は高校時代にFEN(米軍極東放送)で知り、もっぱら聴くのが趣味で、まさか自分で演奏しようとは考えていませんでした。当時の軽音楽部はベンチャーズのコピーバンドが主流でした。練習するならやはり独自の部室があったほうが良いと考え、確か翌年の4月、学生自治会に申請をしました。単なる愛好会では部室を確保できず、予算も降りないので、正式のクラブとして申請したわけです。千葉大学C&W研究会編「Blue Grass」1963年(PDFファイル 1.13MB)
顧問はたまたま一般教養課程で英語を担当していただいた先生がアメリカ文学が専門だったので、無理やり頼んだことを覚えています。学生自治会の新設検討会議でまず質問されたのは「軽音楽部があるのに何故作るのか」というものでした。「いえ、演奏だけが目的ではありません。音楽を通してアメリカ文化を研究するクラブです」と答えた記憶があります。C&W研究会という、一般には分かり難い名称にしたのも、一種のカモフラージュ作戦でした。創設時の部員は折山敏夫、関川靖、黒岩公洋、安間洋一、高田昌一君と私の6人で、安間君を除いて身近な同じクラス、工学部写真工学科の級友でした。高田君は喫茶店厨房でのバイト経験があったので、秋の文化祭でライブ喫茶を作るために誘ったといういきさつがあります。私以外はブルーグラス音楽を聴いたこともない人たちでしたが、バンド名をストーニー・リバー・ボーイズと決め、練習に励んだ結果、夏には千葉市内のビヤガーデンでバイト演奏するまでなりました。賞は取れなかったものの、学生バンド大会のラジオ番組にも出演しました。
部室を確保できたので、井上さんらに声をかけたところ、初代スモーキーマ・マウンテニアーズもC&W研究会に合流、秋の学園祭では軽音楽部のバンドと共にライブ喫茶に出演して貰いました。当時、私は個人的に他大学の学生バンドと接触、青山学院大学のブルー・マウンテン・ボーイズや、明治大学のブルーリッジ・マウンテン・ボーイズなどと知り合いになりました。早稲田大学の白井良幸、津川実、高木啓子さんらが中心になって作ったCBS(カントリー、ブルーグラス&セイクレッド)ファミリーのレコード鑑賞会(当時フォークウェイズなどのレコードは高価だった)に毎月参加、同会主催の「CBSファミリー・ジャンボリー」で、立命館大学のサニー・マウンテン・ボーイズを率いていた野崎謙二さんと知り合ったのも忘れられない思い出です。暮れの11月に小冊子「Blue Grass」を発行したのですが、今のネット時代と違って資料が少なかったため、各大学のバンドの間でかなり評判を呼んだようです。
1966年に私は卒業、朝日新聞社に入社、大阪に赴任しました。70年に神戸支局に転勤、野崎さんが店主だった「ロスト・シティ」に入り浸るようになり、神戸大学のジョッシュ大塚君が率いていた「ブルーグラス45」などと知り合いになりました。彼らのファーストアルバムの写真は私が撮影したものです。その年の夏、六甲山でブルーグラス・フェスが開催されることになり、野崎さんの依頼で5代目スモーキー・マウンテニアーズを呼ぶことになったわけですが、すでにこのころ「千葉の田舎のバンド」が全国のブルーグラス愛好家に知れ渡っていました。リーダーは故篠塚誠治君でした。なお私個人は1976年にケンタッキー州を中心にアメリカ東南部を音学旅行、フィドラーズ・コンベンションに出場と恥さらしをしたのも懐かしい思い出です。
0 件のコメント:
コメントを投稿