2019年10月31日

首里城の中庭でカドリールを踊る女学校の学生たち

首里城の中庭で開催された沖縄県立高等女学校の運動会(1907年頃)

きょう31日未明、沖縄県那覇市の世界遺産の首里城跡上に復元された正殿などが焼失、全国に衝撃が広がった。1453年・1660年・1709年・1945年の焼失に次いで、歴史上5度目の焼失となった。首里城の創建年代は明らかではないが、13世紀末から14世紀のグスク(御城)造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられるそうである。1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、5月27日に焼失、1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに、円覚寺門など周辺の建築から再建が始まった。上掲の写真は、沖縄在住の元米軍海兵隊員、古写真蒐集家ロブ・オーシュリ氏によると、1907(明治40)年に撮影されたという。オリジナルの写真は不明だが、近くにあった写真館が撮影したと思われる。

首里城時代の県立高等女学校の学生たち(那覇市歴史博物館蔵)1908年

1879(明治12)年、明治政府は500名弱の部隊で首里城に乗り込み、一方的に強権をもって沖縄県の設置を断行し、琉球王国を滅ぼした。首里城の御庭(うなー)すなわち中庭で女学生たちがカドリール(quadrille)を踊っている。カドリールは4組の男女のカップルがスクエアになって踊る、歴史的ダンスだが、女学校ゆえに女子学生ばかりである。運動会の一コマで、万国旗が写っている。首里城には複数の学校が間借りしていた時代があり、沖縄県立高等女学校もそのひとつだった。髪型、そして小袖(こそで)に女袴といった制服に違和感を覚える。明治政府が琉球の生活風習を剥奪し、大和風のそれを押し付けたことがよく分かる。蛇足ながら県立高等女学校は1922(大正11)年に、全校生徒自治会で「女学生の制服として、和服と洋服と何れが可なりや」との議題が提案。賛否激しい議論になったが、1926(大正15)年 、セーラー服に正式決定された。1928(昭和3)年に県立第一高等女学校に改称、1945(昭和20)年に沖縄戦で壊滅、廃校になった。

0 件のコメント: