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ユージン&アイリーン・スミス(1974年) |
ジョニー・デップ主演の映画「水俣(邦題未定 原題:Minamata)」の撮影が始まり、ユージン・スミス(1918–1978)および水俣病への関心が高まっているようだ。京都国立近代美術館で写真展「没後30年W・ユージン・スミスの写真」が開催されたのは2008年だった。これだけ揃ったスミスのオリジナルプリントを鑑賞するのは初めてだった。実はプリント以前のプリントを私は見ている。1972年か翌73年だったと思うが、働いていた仕事場に彼が現れたのである。暗室を貸して欲しいという。カールした何枚かのプリントを取り出し、赤血塩でレタッチを始めたのだが、その水洗を私は手伝った。プリントの暗部を漂白、潰れたトーンを起こす作業をしたのである。まだ多諧調印画紙がなかった時代である。つまり彼はひとつの印画紙の中で、違うトーンのエリアを作ることをしていたのである。今ならフォトショップを使えば簡単だが、決して容易なものではなかった。私は手伝いながら、なんでこんな面倒なことをするのだろうと怪訝に思ったものである。その秘密が解けたような気がする。美術館に並んだスミスの写真は見事ファインプリントだった。かつて観た「ロバート・キャパ展」に通ずるものがある。プリントは弟のコーネルの手になるものだ。戦争写真というジャンルに関わらず、それがファインプリントであった違和感を私は感じたが、それはコーネルの意志だったに違いない。しかしスミスのプリントは明らかに自身の意思、いや遺志だと私は想像する。そう感ずるのは、赤血塩でプリントの暗部を漂白する彼の姿が目に焼き付いて忘れられないことに起因する。会場に展示されたグラフ誌『ライフ』のグラビア印刷は、そのトーンを掬い取っていない。
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三一書房〔新装版〕版 (1991年) |
美術印刷でも無理なのである。彼はフォトジャーナリストであった。しかし同時に彼は写真芸術家であったのである。多くのフォトジャーナリストにとって、プリントは印刷原稿に過ぎない。だからあのセバスチャン・サルガドにしても、現像、プリントは他人任せなのである。スミスに同行していたのが、助手であり伴侶であったアイリーン・美緒子・スミスだった。すでに話題になっていた「入浴する智子と母」の撮影について、彼女が私に饒舌に語ってくれたことを思い出す。何度も風呂場を下見、光線状態がベストになる時間帯を調べたという。撮影の際にはスミスの横で彼女がストロボを持ち、天井にバウンスさせたという。この写真は水俣病闘争のシンボル的な存在になり、多大な影響を与えたことはご存知の通りである。しかし写真は現在封印されて見ることができない。収録されている原著 "MINAMATA" はおそらく入手困難だろう。水俣病の悲惨さの象徴であったこの写真は、智子さんの死を機会に、母親の上村良子さんから、もう世に出さないで欲しいという強い嘆願が寄せられた。この願いを著作権所有者のアイリーンは受け入れたのだが、その間の事情を、清里フォトアートミュージアム館長の細江英公氏によるインタービューで次のように答えている。曰く「私が両親の願いを押しのけてこの作品を出し続けることは、作品に対する冒涜であり、否定でもあるんです。あの写真の言う命、愛情を大切にということを裏切ることになります。じゃあ、発表をやめることで小学生がこの写真を知る機会を失うという点はどうするか。私は写真のパワーについて今でも子供達に話しに行くんですよ。この写真自身は完成品じゃないんだと」云々。
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