2019年8月3日

北方領土問題の種を撒いたルーズベルト大統領


ルーズベルト大統領(1933年)
ふたりの男が掲げたプラカードには「ルーズベルトに投票するな」と書いてある。日本の東條英機(1884–1948)とドイツのアドルフ・ヒトラー(1889–1945)で、枢軸国首脳の象徴的存在だった。米国の風刺画家、アーサー・シック(1894–1951)が1944年に描いたイラストで、この時、フランクリン・ルーズベルト(1882–1945)は4期目、最後の大統領選キャンペーン中だった。その落選をふたりが願ってるだろうという皮肉が籠っている。第二次世界大戦はドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、英国、ソビエト連邦、フランス、米国、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争だった。東條、ヒトラー、そしてイタリアのベニート・ムッソリーニ(1883–1945)はファシストであり、三国同盟の中心人物だった。ルーズベルトは「戦争はしない」という公約を掲げていたが、1941年2月8日に真珠湾攻撃受け、日本への宣戦布告を議会に求め承認された。これに対し、米国の参戦を望んでいた英国首相のウィンストン・チャーチル(1874–1965)は欣喜雀躍したという。翌年の1942年2月19日、大統領令 9066 号に署名、最終的には12万人に達した日系米国人の強制収容を開始した。前エントリー「日系米国人の強制収容を記録したドロシア・ラング」で触れたが、その背景に日本人に対する人種差別的感情があった。日本に対する宣戦布告は、直接的には真珠湾攻撃だったかも知れないが、通奏低音としてレイシズムが流れていたのである。ところで社会主義国家のソ連が連合国であったことを不思議に思ったことがある。調べてみると、1939年に大戦が始まった時点では米国は参戦しておらず、またソ連もドイツと不可侵条約を結んでいたので、連合国として共同歩調はとられていなかった。

ヤルタ会談に臨んだチャーチル、ルーズベルト、スターリン
1941年6月に独ソ戦開始が開始され、8月にルーズベルトとチャーチルが首脳会談を行って大西洋憲章を発表しファシズムとの戦争という大義を明らかにし、提携が強まったのだった。ルーズベルトが容共主義者であったという点も見逃せない。戦争がが中盤に入った1945年2月、ヨシフ・スターリン(1878-1953)はクリミア半島のヤルタに、ルーズベルトとチャーチルを招き、所謂ヤルタ会談が開かれた。8日間に渡る会談だったが、ここで極東密約が結ばれた。ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないため、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を求め、千島列島をソ連領とすると提言した。ドイツと日本の降伏という勝利を見ずに、1945年4月12日に他界、従って原爆投下という歴史的汚点は刻まれなかった。1951年、サンフランシスコ平和条約を批准、日本は千島列島の放棄を約束してしまった。米国代表は「千島列島には歯舞群島は含まないというのが合衆国の見解」と発言したが、ソ連代表のアンドレイ・グロムイコ(1909–1989)第一外務次官は「千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地がない」と主張した。吉田茂(1878–1967)首相は条約受諾演説で「千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日、一方的にソ連領に収容されたのであります」「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も、終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります」と述べている。これが「終戦間際のどさくさに紛れて不法占拠された」という対ロシア北方領土交渉のスタンスになった。ただ元はと言えば、ルーズベルトのソ連への対日参戦要求が発端であったことを忘れてはならない。しかも反ファシズムの旗の下での提議であったことも。

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花田智之「ソ連の対日参戦における国家防衛委員会の役割」の表示とダウンロード(PDFファイル 605KB)

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