2019年6月2日

夏河を越すうれしさよ手に草履/与謝蕪村

愛宕念仏寺(京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町)

清滝隧道の手前「愛宕寺(おたぎでら)前」で京都バスを降りると、すぐ目の前が仁王門だった。門をくぐると夥しい数の羅漢が迎えてくれた。坂を上って本堂前に出ると、その数はさらに増し、山あいの斜面にまでびっしり並んでいる。五百羅漢という言葉は、釈迦の涅槃時に立ち会った弟子たちの数に由来するが、境内にはなんと1,200体の像が奉納されているそうだ。つまり千二百羅漢というわけだ。当初は500体だったが、後に700体が追加されたという。羅漢たちは、まさに1,200の顔を、1,200の心を持っている。怒りの表情はごく僅かで、みな和やかにほほ笑んでいる。1980年、仁王門の解体修理を機に、仏像彫刻家だった前住職の西村公朝氏が呼びかけ、一般の人々が彫ったものだそうだ。この石像群のことを教えてくれたのは、仕事仲間だった穴吹史士君だった。羅漢を奉納するために寄進、自ら彫るつもりだったが仕事に忙しく、どうやら友人に託したようだ。しかし迂闊にもどの石像か訊かず終いになってしまった。訊かず終いになったと過去形で書いた。すべてを追憶の過去に戻さねばならないが、1980年代初頭のことを明瞭に憶えているわけではない。

アンボセリ国立公園のサファリバス(1981年)
だから残った印刷物から組み立てるしかない。週刊朝日のグラビアページ編集を担当していた穴吹君と一緒に仕事をしたのは、1981年、東アフリカのケニア取材旅行だった。企画は彼の友人だった共同通信の岡崎記者から持ち込まれたもので、JTBのツアーに同行するものだった。アバーディア国立公園の樹上ホテル「ツリートップス」に泊まることができたのが印象的だった。一行と別れた私は、山崎豊子の小説『沈まぬ太陽』のモデルといわれた小倉寛太郎氏率いるサバンナクラブとタンザニアで合流した。その中にライオンなどの哺乳類に背を向け、ひたすら双眼鏡で鳥を観察し続ける人がいた。当時NHK文化センターに勤めていた松平康氏だった。母方の叔父が鳥類学の先駆者、蜂須賀正氏博士で、松平氏自身も大の鳥好きだったのである。この旅行の縁が、週刊朝日の新しいアウトドア企画に繋がったのである。「BE-PALも売れてるし、一般誌でもネイチャーを取り上げないと」というのが言い分だった。良いものは堂々と真似をしようという実利主義である。
朝日新聞社刊『名画日本史』より(クリックで拡大)

無論その場合、オリジナルにない工夫を怠らなかったのは言うまでもない。同じ年の秋に新潮社から写真週刊誌 FOCUS が刊行されたが、これが売れた後に、彼は週刊朝日に「アクショングラビア」を創設する。例によってやはり「真似しない手はない」という哲学であった。私も参画したが、彼の方法論を密かに「浪花のアナキズム」と呼んだことを思い出す。洒脱な彼は、実は典型的な大阪人だったのである。昭和天皇が崩御した1989年1月、私は京都に舞い戻り、穴吹君とは仕事場を分かつことになってしまった。西暦2000年のミレニアム、朝日新聞日曜版で『名画日本史』の連載が開始された。その取材キャップが穴吹君だった。再び彼と仕事を共にする機会が巡ってきた。一緒に雑誌の取材をした仲だったが、今度は新聞が舞台だった。ただ日曜版なので、文字通り週刊誌的な仕事、このシリーズの写真撮影が楽しみになったのはいうまでもない。その年の夏、私と穴吹君は筆者の森本哲郎氏と共に丹後への取材旅行に出た。与謝蕪村の足跡を辿る旅だった。蕪村がしばしば訪れたという与謝郡加悦町の施薬寺前の小川に立った私は、草むした小さな橋を撮った。もしかしたら「夏河を越すうれしさよ手に草履」と詠まれた小川かもしれないかと思ったからだ。天橋立の旅館に辿りついた私たちは、お酒をしこたま呑んだ。美酒に酔いながら「大腸ガンの手術をしてね」と穴吹君は笑った。そして時が流れ、2010年、風の便りに彼が他界したことを知った。ガンが転移したのだろう。あれから40年、愛宕念仏寺の羅漢たちは揃って苔を纏い、落ち葉を背にしている。どの石像か分かれば今度は花を手向けようと思う。

asahi こだわりの AIC 才人・穴吹史士が残した遺産(朝日新聞デジタル20周年特集)

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