2019年4月28日

盲森夜々伴吟身被底鴛鴦私語新

一休宗純禅師木像坐像 伝:墨済禅師作(酬恩庵一休寺蔵)

洛西の地蔵院は竹の寺として知られている。その名の通り、竹の道が山門から本堂まで続いている。開け放たれた入口から薄暗い内陣奥に目を凝らすと、本尊の地蔵菩薩像をかろうじて窺うことができた。堂の横の苔むした庭にも20体近い石仏が並んでいる。 境内の左手奥に進むと大きな自然石がふたつ見えた。それぞれに一対の竹筒があり、花が活けられている。何も刻まれていない。裏に回ってみたが、やはり何も書いていない。墓所の駒札に「細川頼之、宗鏡禅師」とあり、やっとこれが「細川石」と呼ばれる墓石であることがわかった。室町幕府の基礎を築いた政治家と、そして禅の師の墓だが、その簡素ぶりは見事という他はない。

中央公論社(1978年)
ここは一休宗純禅師が幼少のころ修養された寺でもある。後小松天皇の皇子として1394(応永元)年にこの近くの民家で生まれたといわれている。拝観の栞によると、一休の弟子、済岳紹派が筆記した『祖先詩偈』には「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御産也」とあるそうだから、本当なのだろう。水上勉さんとは何度かお会いしている。といっても京都の花街上七軒のレストラン「萬春」であったり、木屋町の居酒屋であったりだった。私は西陣に住んでいたので、地理的にも彼のいくつかの小説に親近感を覚えたものである。例えば『五番町夕霧楼』や『西陣の女』などだが、意外かもしれないが『金閣炎上』も同列である。2014年に閉店した「萬春」は水上さんにとって、いわばホームグランドのようなところだったようだが、お茶屋にも出没、小説を書くための取材をしたようだ。幼いころ若狭を離れ、相国寺瑞春院で修業した。その後同寺を脱走、等持院に移った。花園中学校を卒業した後、等持院を出て還俗したという経歴を持つ。少年水上にとって、花街は憧憬の的であった。作家として自立し、上七軒に通った裏には、幼年期の辛い修行へのリアクションであったのだろう。その彼が『一休』(中公文庫)を著したのは、おそらく自身の禅僧修行とオーバーラップさせたかったに違いない。若い禅僧の生活は綺麗事では済まされないものがある。性の葛藤である。僧院生活における男色の世界を赤裸々に綴っているが、その真意は一休の性を捉えようとしたものであろう。

酬恩庵一休寺(京田辺市薪里ノ内)
1470(文明二)年、一休77歳、住吉薬師堂で盲目の美しい旅芸人、森女(しんじょ)と出会い、艶歌に聴き惚れる。森女はたぶん瞽女(ごぜ)の身分だったのだろう。翌1471(文明三)年、再会をはたし、以後同棲することになった。生憎の小雨模様だったが、一休が晩年を過ごした京田辺市の酬恩庵一休寺を再訪した。参道の新緑が見事で壮絶な秋の紅葉を予感させる。方丈の縁側に立つと、ちらほら咲き始めたサツキが見えた。この寺を参詣する人の割合は「7:2:1」だということを、約20年前に訪問したときに住職に伺った。7割は「とんちの一休さん」のイメージ、2割が禅宗の高僧、そして1割が若い盲目の女性と同棲したことに関心がある訪問客だというのだ。水上さんが書いた伝記は、その2と1であるが、どうやら私は最後の1だけなのかもしれない。一休の『狂雲集』に「盲森夜々伴吟身被底鴛鴦私語新」という漢詩がある。これは愛の交歓をあからさまに詠ったもので「盲目の森伴者は毎夜詩を吟ずる私に寄り添い、夜具の中でオシドリのごとく、睦まじく囁き合う」という意味である。一休宗純は88歳の天寿を全うし、この世を去った。臨終の床の周囲には、見守る弟子たちに加えて、森女の姿があったという。日本人に刷りこまれた「一休さん」のイメージは、江戸時代の『一休咄』などに遡るそうだが、決定的になったのはテレビ朝日系で放映されたアニメだろう。方丈の一室に木像が安置されていたが、頬がこけた老人の像で、アニメとはほど遠い。しかし木像に人間臭さを感ずるのは私だけだろうか。

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