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ボブ・ディラン 1978年2月25日(松下電器体育館) |
昨5月24日はボブ・ディランの72回目の誕生日だった。フェイスブックのページ
「アメリカンルーツ音楽」に載せるため写真を探してみた。1974年1月、ディランは8年間の沈黙を破ってシカゴを振り出しに、ロビー・ロバートソン率いるザ・バンドと全米ツアーを開始した。このニュースを知った私は、予約販売のチケットを持たずにアメリカに飛んだ。2月11日、カリフォルニア州オークランドのコンサート会場になった体育館なんとか潜り込んだ私は、憧れのディランの写真を至近距離から撮る幸いに恵まれた。そして1978年2月24、25日、来日した彼を大阪の松下電器体育館で再び撮影したのである。前者はプリントのみだったが、後者はカラースライドが見つかった。早速スキャンして投稿したのは言うまでもない。ところで同じ箱から出てきたのが高田渡さんとの共演写真のネガだった。袋に1977年1月13日と記してあった。なぜ彼と共演に至ったか、簡単に説明するとこうだ。確か1971年夏だったと記憶している。京北町で開催されたフォークキャンプに、中山ラビさんらと参加した私は、バイオリンに弾き語りによる添田唖蝉坊の演歌を歌った。これをきっかけに大阪で開かれた渡さんのコンサートに飛び入り出演することになった。
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高田渡夫人、私の娘、高田漣君、佐久間順平さん(JR中央線) |
ご存知、彼は唖蝉坊の歌をアメリカ古謡の旋律に乗せて歌っていたからである。これが縁で、翌年、東京に移住した私と彼との付き合いが始まったのである。私は新宿、彼は吉祥寺、同じ中央線住まいだったので、一緒に飲み歩くことがしばしばだった。特に吉祥寺の「ぐぁらん堂」にはよくでかけたが、シバ君や友部正人君ともよく顔を合わせたことを憶えている。よみうりホールでのコンサートには高田一家と一緒に中央線の電車に乗ったが、楽屋で撮った幼い漣君の写真が、後に彼のファーストアルバムの表紙になるとは夢にも想像できなかった。ところで上の写真の撮影者の名が記憶にない。特殊なネガ袋なので、現像したのは私であることは間違いないが、旧友、伊藤敬一君が撮った可能性がある。しかし昨年他界してしまったので、もう確かめようがない。平成元年に京都へ舞い戻ってからは渡さんとは疎遠となったが、彼のいわば「主治医」だった藤村直樹君と懇意にしていたため、その消息は絶えず耳にしていた。渡さんが他界したとき悔しがっていた藤村君も、今はこの世にいない。藤村君はドクター&フォークシンガーだったが、彼を偲ぶコンサート
「君こそは友」の第4回コンサートが、京都のライブハウス
「拾得」で4月に開催された。
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