2023年8月12日

イーロン・マスクとマーク・ザッカーバーグの格闘技のゴングは鳴るのだろうか?

Musk vs Zuckerber

ソーシャルメディアの巨人であるイーロン・マスクとマーク・ザッカーバーグは、6月以来、総合格闘技のケージマッチの可能性をめぐってコメントを交わしてきた。米ニューヨークタイムズ紙によると、ザッカーバーグはマスクとの8月26日の決戦に「期待していない」と語ったという。ザッカーバーグは、マスクと戦う準備は「できている」と語り、8月26日を両者のケージマッチの日として提案したが、マスクは確認していないという。日曜日の夜遅くにマスクが投稿した記事によると、彼は「手術が必要かもしれない」とし、試合日を中止する可能性があり、首と背中の上部の MRI 検査を受ける予定だという。マスクの別の投稿によると、この試合は「Xでライブ配信」され、収益は退役軍人のためのチャリティーに充てられるとのことだが、ザッカーバーグは「チャリティーのために実際に資金を集めることができる、もっと信頼できるプラットフォームを使うべきだ」と反撃した。Facebook と Instagramには募金機能が組み込まれているが、X / Twitter にはないからだ。ザッカーバーグはマスクに対する別のからかいの中で、X / Twitter で配信されるという試合は、相互に合意されたものなのかという Threads の質問に答えている。

>Zuckerberg training with UFC champions
Zuckerberg training with UFC champions Israel Adesanya and Alexander Volkanovski

すなわちテスラを非公開にするというマスクのツイートが事実でないとして投資家から訴えられたことを指して「どちらかというと、"資金を確保した "という感じだ」と答えた。メタの CEO はスポーツを愛してるから「ここで何が起ころうとも、トレーニングに励む人々と競技を続けるだろう」と語ったそうだ。6月にマスクの挑戦を受けていたザッカーバーグは、7月末にメタの従業員に対し、試合が実現するかどうかはわからないと述べていた。マスクは今週末、X のオフィスでミーティング中にウェイトリフティングをしている動画を共有した後、再び試合について投稿し始めた。「もし試合が短ければ、おそらく私が勝つだろう。長ければ、彼が持久力で勝つかもしれない」と。メタ社の広報担当者は、ザッカーバーグの投稿以外のコメントは避けた。X / Twitter にはプレス部門がない。また、ザッカーバーグとマスクの戦いを調整している UFC(アメリカ合衆国の総合格闘技団体)のダナ・ホワイト代表にも連絡を取ったようだ。果たしてゴングが鳴るのか、8月26日が楽しみだ。

New York Times  With No Date Set, Musk and Zuckerberg Trade Barbs on 'Cage Match’ | New York Times

2023年8月10日

アフリカの貴公子デニス・フィンチ=ハットン

Denys Finch-Hatton (1887-1931) Somewhere around 1910 or 1920
Karen Blixen & Denys Finch-Hatton

デンマークの作家カレン・ブリクセン(1885-1962)の名著『アフリカの日々』(河出文庫)を読まなければ、アングロアイルランドの貴族、デニス・フィンチ=ハットン(1887–1931)の名を脳裡に刻むことはなかったと思う。1937年出版の『アフリカの日々』の著者名は、イギリスとデンマークでは本名だが、翌年のアメリカ版ではイサク・ディネセンとなっているという。カレンは1914年から1931年まで18年間、アフリカでコーヒー農園の経営にした。ところが買い入れたナイロビ郊外の土地はコーヒーの栽培に不向きで、経営に失敗する。アフリカを離れることになり、失意の日々が訪れる。そしてデニスの死という不幸が重なる。アフリカを去って6年後、次のような追悼の言葉を綴っている。

土地の人たちにとって、デニスの死は近親を失ったもおなじことだった。デニスはアフリカ高地のありとあらゆる道に精通していた。ここの土の性質、季節の移り変わり、植物、野生動物、また風や匂いのことを、白人のなかではデニスほどに把握していた人はいなかった。彼はこの高地の天候の変化を観察し、そこに住む人々や雲に目をそそぎ、夜には星々を眺めてきた。同じこの丘陵で、なにもかぶらないまま頭を午後の日ざしにさらして低地一帯を見わたし、そこにあるものひとつひとつをはっきり見ようと双眼鏡を使っていたデニスの姿は、つい数日まえここにあった。彼はこの高地を吸収し、この土地はデニスの個性の刻印をうけて、彼自身の心象のなかでかたちを変え、デニスの一部となった。いまアフリカはデニスを受けいれ、彼を変え、アフリカそのものの一部とするであろう。(横山貞子訳)
Gypsy Moth: de Havilland DH.60 Moth

デニス・フィンチ=ハットンは伯爵の息子で、イートン校では人気のある学生だった。身長が高く、ハンサムで優雅、歌や絵画からクリケットやゴルフまで、あらゆるものに才能があった。ただオックスフォード大学では学業の才能を発揮できなかったようで、東アフリカに赴き、遺産で暮らすようになった。デニスは1918年、カレンと彼女の夫、プロア・プリクセン男爵と知り合った。このふたりが離婚した1925年、カレンの家に移住、サファリで裕福なビジターを護衛する狩猟家として新たなキャリアを開始する。クライアントのひとりがウェールズ王子、後のエドワード8世だった。1928年から1930年にかけてのサファリでは、狩猟の代わりに野生動物の写真撮影にシフト、タンザニア北部のセレンゲッティ国立公園の創設に関わったのである。1931年5月14日早朝、デニスが操縦するジプシー・モス(デ・ハビランド DH.60 モス)が、カレンの農園に向かうため、ケニア南部のヴォイ空港を離陸した。しかしエンジンが不調だったのか、200フィートの低空で翼を翻して空港に戻ろうとした。そして突然機体が揺れ、きりもみ状態になり、墜落炎上してしまった。44歳だった。遺体はカレンの手によってンゴング丘陵の麓に葬られたが、しばらくすると墓にライオンが現れるようになったという。なお『アフリカの日々』は映画化され、1985年に公開された。監督はシドニー・ポラック、主演はメリル・ストリープ、ロバート・レッドフォードで、第58回アカデミー賞、第43回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞を受賞。下記リンク先の YouTube で二人が乗った複葉機ジプシー・モスの美しい飛行シーンを鑑賞できる。

YouTube  Out of Africa | Robert Redford and Meryl Streep Soar Over Kenya | Universal Pictures

2023年8月9日

一番好きなブルーグラス音楽アルバム

Smithsonian Folkways Recordings - SFW 40238

ブルーグラス音楽を本格的に聴き始めたのは1960年代に遡るから、なんと半世紀以上もこの音楽に浸かってきたことになる。ふと思いついてグーグルの人工知能チャットボット Bard に最も好まれているアルバムは何かと英語で訊いてみた。すると以下のようなリストがジャケット写真付きで返ってきた。

  1. Will the Circle Be Unbroken by the Nitty Gritty Dirt Band (1972)
  2. Foggy Mountain Jamboree by Flatt & Scruggs (1961)
  3. Home by Billy Strings (2020)
  4. Ricky Skaggs & Tony Rice (1980)
  5. So Long So Wrong by Alison Krauss & Union Station (2000)

トップのニッティー・グリッティー・ダート・バンドの「永遠の絆」は、ドク・ワトソン、アール・スクラッグス、メイベル・カーター、アリソン・クラウスなど、ブルーグラス界の大物がゲスト参加した。批評的にも商業的にも成功し、グラミー賞5部門を受賞した作品である。2番目のアルバムにはブルーグラス・アルバムの決定版のひとつとされ "Foggy Mountain Breakdown " や "The Cuckoo Waltz "といったフラット&スクラッグスの代表曲が収録されている。番目のアルバムはビリー・ストリングスにとってブレイクのきっかけとなった作品で、彼の特徴である伝統的なブルーグラスとプログレッシブなブルーグラスのブレンドが特長だ。4番目のアルバムは史上最高のブルーグラス奏者コラボレーションであり、彼らの最も象徴的なデュエットが収録されている。5番目のアルバムはアルバム・オブ・ザ・イヤーを含むグラミー賞5部門を受賞した。クラウスの見事なヴォーカルとユニオン・ステーションのタイトな音楽性をフィーチャーし、美しく感動的なブルーグラス・ミュージックを創り出す彼らの能力を披露している。これを見てちょっと驚いてしまった。人工知能 Bard は、インターネットに蓄積されたビッグデータをを元にしたチャットボットだが、私が予想にかなり近いものだったからだ。

Liberty Records LLP-9027C
Liberty Records LLP-9027C

ところで標題の「一番好きなブルグラス音楽アルバム」だが、グーグルの人工知能チャットボット Bard が教えてくれたアルバムはいずれも好きである。やや地味ながらスミソニアン・フォークウェイズが2021年にリリースした CD アルバム "Industrial Strength Bluegrass: Southwestern Ohio's Musical Legacy" がベストチョイスである。地味と評したのは、シェラ・フルやヴィンス・ギルなどのテイクがありながら、そのスター性を制御している編纂に感じられるからだ。私はダン・ティミンスキーが歌う "20/20 Vision" が特にお気に入りで、何度聴いても飽きないのである。スミソニアン・フォークウェイズの解説を引用しよう。

20世紀中頃の数十年間、オハイオ州南西部の工場は、無数のミュージシャンを含む何十万人ものアパラチアからの移住者を引き寄せていた。"Industrial Strength Bluegrass"(工業的強度のブルーグラス)は、こうした移民たちが作り、愛した音楽を称え、ブルーグラスとカントリーミュージック全体の歴史における極めて重要な瞬間を探求している。最愛のパフォーマーでありラジオ・パーソナリティのジョー・マリンズがプロデュースしたこのコレクションには、ロンダ・ヴィンセント、ボビー・オズボーン、マリンズ自身など、ブルーグラスの重鎮たちが豪華な顔ぶれで、何十年もの間オハイオ中に響き渡ってきた曲に挑んでいる。今日のブルーグラス界の大物たちによるこのグループは、工場や倉庫に囲まれた生活の陽気な高揚と孤独な低落に敬意を表し、この地域の豊かな文化とたくましい人々を反映している。

ブルーグラス音楽は1940年代に米国のアパラチアで発展したルーツ音楽である。人々は工業地帯(ラストベルト)に移住してもこの音楽を手放すことができなかったのである。このアルバムの魅力はプロデューサーで最初の曲 "Readin', Rightin', Route 23" のヴォーカルとバンジョーを担当している、ジョー・マリンズの編集手腕に負うところが何と言っても大きい。オハイオ州南西部で生まれ育ったバンジョー・ピッカーだが、彼の父ポール・ムーン・マリンズは、クラシック・カントリー・ラジオのブルーグラス番組の放送者として40年以上に渡って活躍したフィドラーだった。まさにこのアルバムはそのレガシーである。なお全曲を下記リンク先のスミソニアン・フォークウェイズの YouTube チャンネルで視聴することができる。

Smithsonian Folkways Recording  Industrial Strength Bluegrass: Southwestern Ohio's Musical Legacy | Smithsonian FW

2023年8月8日

ファッションモデルから戦場フォトジャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯

Self Portrait
Lee Miller (1907-1977) Self Portrait, New York Studio, New York, 1932
Lee Miller

ファッションモデルから写真家になったリー・ミラーは1907年4月23日、ニューヨーク州ポキプシーに生まれた。第二次世界大戦中、彼女はヴォーグ誌の戦争ジャーナリストとして高く評価された。彼女はパリの解放、ロンドンの大空襲、ブッヘンヴァルトとダッハウの強制収容所を取材した。父親のセオドア・ミラーは、幼い頃に彼女に写真の手ほどきをした。彼女は父親のモデルとして、立体写真のためにヌードのポーズをとった。それとともに、彼は彼女に芸術の技術的なことも教えた。19歳のとき、ヴォーグ誌の創始者であるコンデ・ナストと出会った。そして1927年3月に同誌の表紙を飾った。その後、彼女はニューヨークで2年間、アーノルド・ゲンテ、ニコラス・マーレイ、エドワード・スタイケンらによって撮影され「最重要指名手配」モデルとなった。生理用ナプキンの会社コーテックスは、スタイケンが撮影したリーの写真を広告に使用した。しかし、これがスキャンダルとなり、彼女のモデルとしてのキャリアは終わった。1929年にパリに渡り、マン・レイのモデル兼撮影アシスタントとなった。パリ滞在中、彼女は自分のスタジオを作り、マン・レイが絵画に集中できるよう、頻繁に彼の写真の仕事を引き受けた。レイと共同でソラリゼーションという写真技法を発見した。

Searchlight Operators
Auxiliary Territorial Service Searchlight Operators, London, 1943

機知に富んだイメージでシュルレアリスム運動に積極的に参加。フランスの芸術家、劇作家、デザイナー、劇作家、小説家、詩人のジャン・コクトー、シュルレアリスム運動の創始者の一人で詩人ポール・エロール、スペインの陶芸家、版画家、画家、彫刻家、舞台美術家のパブロ・ピカソなどと親交を持った。1932年、マン・レイのもとを去り、ニューヨークに戻り、兄のエリックとともに商業写真と肖像写真のスタジオを設立した。同年、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで開催されたモダン・ヨーロピアン写真展に出品した。

An exhausted nurse
An exhausted nurse at the 44th evacuation hospital, Normandy, 1944

その1年後、リー・ミラーはレヴィのもとで唯一の個展を開くチャンスを得る。彼女の肖像写真のクライアントには、ヴァージル・トムソンとガートルード・スタインのオペラ『三幕の四聖人』のアフリカ系アメリカ人キャスト、女優のガートルード・ローレンスとリリアン・ハーヴェイ、シュールレアリストのジョセフ・コムウェルなどがいた。1934年、アトリエを捨てたリーは、エジプトの実業家アジズ・エルイ・ベイと結婚。エジプトで暮らしながら、最も印象的とされるシュルレアリスムの写真を撮影。

>Dughter of the Deputy Mayor of Leipzig
Dughter of the Deputy Mayor of Leipzig after the family committed suicide, 1945

2年後、カイロに住みたくなくなった彼女はパリに戻り、イギリスの彫刻家でありシュルレアリスムの画家でもあったローラン・ペンローズと出会う。その後、1939年に第二次世界大戦が勃発し、リーはローランド・ペンローズとともにロンドンで暮らした。この間、彼女はフォトジャーナリズムという新たなキャリアに取り掛かった。1942年12月、コンデナスト出版の戦時特派員としてアメリカ陸軍に入隊。戦後もヴォーグ誌で2年間、セレブリティの写真を撮り続けた。その後、彼女は英国に戻り、臨床うつ病で重病を患っていることに気づいた。

Freed prisoners scavenging
Freed prisoners scavenging in the rubbish dump, Dachau, Germany, 1945

ローランの子を身籠ったことを知り、気分を高揚させようと考えたのだうか、彼と結婚した。1947年に息子のアントニー・ペンローズが生まれ、1949年にはイースト・サセックスにファーリー・ファーム・ハウスを購入した。しかし、その後、戦争や強制収容所の映像が彼女を悩ませ続けた。また、夫のローランドがダイアン・デリアスと不倫関係にあったことも、彼女のうつ病を加速させた。ずっと後の1955年、彼女はニューヨーク近代美術館で開催された写真展 "The Family of Man"(人間家族)に出品した。しかし1977年7月21日、リー・ミラーはイースト・サセックスの農家でガンのため亡くなった。70歳だった。

britannica  Lee Miller (1907–1977) | Biography | Photography | Facts | The Encyclopaedia Britannica