2023年12月15日

同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット

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Three Girls Playing Dress Up, New York City, ca. 1940

Helen Levitt

ヘレン・レヴィットは1913年8月31日、ブルックリンのベンソンハーストで、メイとサム・レヴィットの娘として生まれた。 彼女の父親と母方の祖父母はロシア系ユダヤ人移民であった。ニュー・ユトレヒト高校に通ったが、1931年に中退した。ブロンクスの肖像写真家ジェイ・フローリアン・ミッチェル肖像写真スタジオで働き、暗室での現像方法を学び、写真家としてのキャリアをスタートさせた。フランスの写真家アンリ=カルティエ・ブレッソンの作品を見て触発され、35ミリのライカを購入した。1937年、ニューヨークのフェデラル・アート・プロジェクトで子どもたちにアートクラスを教えていたとき、レヴィットは、当時のニューヨークの子どもたちのストリートカルチャーの一部であった、路上に描かれたチョーク画に興味を抱くようになる。1938年頃、彼女は写真家ウォーカー・エヴァンスのスタジオにポートフォリオを持って行き、そこでエヴァンスと共同で "Let Us Now Praise Famous Men"(有名人を讃えよう)を執筆した小説家・映画評論家のジェームズ・エイジとも出会う。彼女はこの2人と親交を深め、時々「エヴァンスの撮影に同行した。この時期、レヴィットはしばしば子どもたち、特に恵まれない子どもたちを被写体に選んだ。

children with masks
The three children with masks, 1939

路上で遊ぶ子供たちを映し出し、ストリート写真を探求する彼女の選択は、当時起こっていたことに抗うものだった。当時のニューヨークでは、労働者階級の多くが公共スペースに出入りすることを制限する法律が制定されていた。これらのコミュニティを統制しようと、直接的にターゲットにした法律が可決されたのだ。騒音に関する新たな禁止事項は、労働者階級やマイノリティのコミュニティをターゲットにしたものであった。その代わりに、安全な新しいエリアが奨励され、それは通常、上流階級や中流階級のエリアに多く建設された。ヘレン・レヴィットはその代わりに、写真の被写体に力を与える方法として、これらの地域に住み、これらの通りで遊んでいる人々の物語を探った。

Untitled
Untitled, New York City, 1940s

1943年にニューヨーク近代美術館で開催された初の個展 "Photographs of Children"(子どもたちの写真)では、レヴィットの作品の多くに見られる人間性が紹介された。この展覧会には、1941年にメキシコ・シティを訪れ、街の生活を撮影した写真も含まれている。エイジは "A Way of Seeing"(見る方法)と題されたレヴィットの写真集の序文を執筆した。その中でエイジはレヴィットの写真を「"私が知っているどんな叙情的な作品よりも美しく、鋭敏で、満足感があり、不朽の作品である」と称賛している。

Boys in the stret
Boys in the street, New York City, ca. 1940

1940年代半ば、レヴィットはエイジ、映画監督のシドニー・マイヤーズ、画家のジャニス・ローブと共同で、アフリカ系アメリカ人の少年を描いたドキュメンタリー "The Quiet One"(静かなるもの)を制作し、賞を受賞した。また、エイジとローブとは、イースト・ハーレムの日常生活を捉えた映画 "In the Street"(街角で)を制作。その後10年間は映画編集と監督業に専念。1959年と1960年にはグッゲンハイム・フェローシップを受け、カラー写真の技術を研究。このプロジェクトから生まれたスライドは、1963年にニューヨーク近代美術館で展示されたが、複製される前に彼女のアパートから盗まれた。

Dog and Girl
Dog and Girl, New York City, 1970

レヴィットは1960年代の残りはフィルム作品に専念し、1970年代に写真を再開、1974年にはニューヨーク近代美術館で大規模な個展を開催した。坐骨神経痛のため、1990年代には自身のプリント制作を断念せざるを得なくなり、ライカを立って持ち歩くことも困難になったため、小型の自動コンタックスに乗り換えた。また、1950年代に肺炎で瀕死の重傷を負ったこともある。インタビューにはめったに応じず、非常に内向的だった。2009年3月29日、ニューヨークで眠るように他界、95歳だった。

MoMA  Helen Levitt (1913–2009) | Works | Exhibitions | Publications| The Museum of Modern Art

2023年12月13日

孤高の詩人エミリー・ディキンソンの難解な作品

Emily_Dickinson

海外文学ではアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)が最も好きで、邦訳されている全作品を読破している。ジャーナリストの文章なので、表現が簡潔、翻訳でもそれが伝わってくる。小説を除けば、自然観察の書籍を愛読、ウィリアム・ハドソン(1841–1922)の『ラ・プラタの博物学者』『鳥と人間』などは繰り返し読んだ。ギルバート・ホワイト(1720–1793)の『セルボーンの博物誌』も好きだが、観察記録ゆえか記述が詳細過ぎる余り、冗長の感は否めない。最たる著書がジャン・アンリ・ファーブル(1823–1915)の『昆虫記』だろう。岩波文庫の10冊セットを購入したが、読み切れず途中下車、結局手放してしまった。その点では詩歌は短いので、何となく読破できそうな気がしないでもない。しかし短いゆえに、その深遠に触れることがかえって難しいと言えそうだ。私はウィリアム・ワーズワース(1770–1850)ウォルト・ホイットマン(1819–1892)ラングストン・ヒューズ(1901–1967)などの詩集を持っている。

I'm Nobody! Who are you?

I'm Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there's a pair of us?
Don't tell! they'd advertise — you know!

How dreary — to be — Somebody!
How public — like a Frog —
To tell one's name — the livelong June —
To an admiring Bog!
岩波文庫(1998年)loupe
わたしは誰でもないひと! あなたは誰?

わたしは誰でもないひと! あなたは誰?
あなたも — わたしと同じ — 誰でもないひと?
だったら わたしたちふたりでひと組ね?
口には出さないで! みんなに知られてしまう — いいわね!

退屈なものね — [ひとかどの]誰かである — っていうのは!
よくご存じの — カエルみたいに —
六月のあいだはずっと — 自分の名前を告げている —
うっとりしている沼地にむかって!

これはアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830–1886)の作品で、亀井俊介(1932-2023)編集の岩波文庫からの引用である。亀井は日本の比較文学者、アメリカ文学者で、研究者ゆえか、ディキンソンについての解説が本書に詳しい。時代とジャンルも違うが、ニューヨークを写した15万点以上の作品を遺しながら素性を明かさず、生前に1点も公表することがなかった女性写真家、ヴィヴィアン・マイヤー(1926–2009)を私は思い出す。ディキンソンはマサチューセッツ州アマーストの上流家庭に生まれ育ったが、無名の詩人として人生を終えた。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、死後にクローゼットに眠る数千の詩が妹によって発見され、編集出版されて広く読まれるようになった。ディキンソンの詩はダッシュを多用、一目で他の詩人作品と異なっていることが分かる。いずれも短いので、一日一編ぐらいのペースで拾い読みしてきた。ただその内容はかなり難解であるし、中国や西洋文学の特長である、韻を踏んでいることが邦訳では伝わってこない。だから完全に理解したとは言い難い。

Blogger  詩人エミリー・ディキンソンの新発見肖像写真の真偽(写真少年漂流:2013年2月8日)

2023年12月11日

幼いヘミングウェイに刻まれた死の実感

Young Hemingway
ミシガン州ワルーン湖近くのホートンズ・クリークで釣りをする若きアーネスト・ヘミングウェイ

写真はボストンのジョン・F・ケネディ図書館&博物館蔵で、1904年7月撮影という説明がついている。アーネスト・ヘミングウェイ(1899年7月21日-1961年7月2日)が5歳の時の貴重写真で、撮影は父親のクラレンス。場所はミシガン州のウォルーン湖近く、ホートン・クリークとある。ヘミングウェイは釣りを題材にした優れた作品を残しているので、この時代について書かれたものがあるか探してみた。まず短編集『ニック・アダムズ物語』の原書を紐解いてみた。ニック・アダムズはヘミングウェイの分身で、物語はいわば伝記的小説集といえる。年代順に作品が並べられていて、ヘミングウェイの成長記録にもなっている。このタイトルでの邦訳本はないようだが、秋山嘉/谷阿訳『ヘミングウェイ釣り文学集(上巻)鱒』(朔風社1982年)や高見浩訳『われらの時代・男だけの世界』(新潮文庫1995年)に収録されている。最初期の「三発の銃弾」では、初めて死に魅入られたときのことと、初めて釣り旅行の記憶が重ね、綾織られて語られている。傑作という評判が高い二番目の作品「インディアンの村」を久しぶりに手に取ってみた。

ニック・アダムズ物語

「死ぬときって、苦しいの、パパ?」「いや、どうってこともないとも、ニック。まあ場合によるがね」。ふたりはボートに乗っていた。ニックが艫(とも)にすわり、父親が櫂を漕いでいた。山の端に日が昇りかけている。バスが一匹跳ねあがって、湖面に波紋を描いた。ニックは片手で水を切った。肌を刺すような朝の寒気に包まれていると、湖水はぬるく感じられた。これは最後の部分である。医師である父親に同行したニックはインディアンの女の帝王切開に立ち会う。父親は無事赤子を取り上げたが、ショッキングな結末をむかえる。生まれたばかりのこの子供の父親が首を切って自殺していることがわかったからだ。父親ははあわてて、一緒に来ている叔父にニックを連れ出すよう頼むが、台所からニックははっきり見てしまったのだ。「ぼくは絶対に死なないさ」という言葉でこの小説は終わる。この作品に内在するのは「死の実感」であるが、それを体験する行為を、少年期の通過儀礼として捉えるという見方もあるようだ。風景描写にニックの心理が隠されているが、幼いヘミングウェイの写真にそれが窺えると思うのは私だけだろうか。いずれにしても幼年期の体験によって、死というテーマがヘミングウェイにとっていかに関りが深くなったかが分かる。1961年、ショットガンで自らの命を絶った。

Hemingway  Ernest Hemingway Media Galleries on John F. Kennedy Presidential Library and Museum

2023年12月10日

デジタル合成されたコスティカ・アクシンテのガラス乾板写真

Dancing with Costică
Jane Long: Dancing with Costică
Fetiță by Costică Acsinte

写真共有サイト Flickr に風変わりなカラー写真が掲載されている。ジェーン・ロングの "Dancing with Costică" というシリーズの1枚で、デジタル技術を駆使した合成写真だ。ロングの画像処理の品位の高さもさることながら、その素材がルーマニアのコスティカ・アクシンテ(1897-1984)のガラス乾板写真であることに特長がある。右の写真がオリジナルである。実は Flickr には Commons という歴史的に貴重な古写真をアーカイブするプロジェクトがあり、私はアクシンテのガラス乾板写真群に注目、見惚れていた。ネット検索したところ、日本語解説ページはヒットせず、ウィキペディアも英語、ルーマニア語、イタリア語版しかない。というわけで、日本ではまだ知られていないと言ってよいだろう。公式サイト "Costică Acsinte Archive" によると、ブカレストの操縦士学校を卒業したアクシンテは、第一次世界大戦が勃発するとボランティアの戦争写真家となる。復員後、写真スタジオを開設、ガラス乾板による撮影を1950年まで続け、その後はフィルムに切り替えたという。注目に値するのはガラス乾板で、なんと5,000枚残っているという。その数に驚かされるが、技術的に優れていて、魅力ある作品群である。デジタル化のプロジェクトが立ちあがったせいか、徐々に世界中の評価を受けるようになったようだ。ロングの合成写真がその役割を果たしたかもしれない。

flickr  Costică Acsinte (1897—1984) Flickr | Photostream | Albumes | Faves | Galleries | Groups