海外文学ではアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)が最も好きで、邦訳されている全作品を読破している。ジャーナリストの文章なので、表現が簡潔、翻訳でもそれが伝わってくる。小説を除けば、自然観察の書籍を愛読、ウィリアム・ハドソン(1841–1922)の『ラ・プラタの博物学者』『鳥と人間』などは繰り返し読んだ。ギルバート・ホワイト(1720–1793)の『セルボーンの博物誌』も好きだが、観察記録ゆえか記述が詳細過ぎる余り、冗長の感は否めない。最たる著書がジャン・アンリ・ファーブル(1823–1915)の『昆虫記』だろう。岩波文庫の10冊セットを購入したが、読み切れず途中下車、結局手放してしまった。その点では詩歌は短いので、何となく読破できそうな気がしないでもない。しかし短いゆえに、その深遠に触れることがかえって難しいと言えそうだ。私はウィリアム・ワーズワース(1770–1850)ウォルト・ホイットマン(1819–1892)ラングストン・ヒューズ(1901–1967)などの詩集を持っている。
I'm Nobody! Who are you?
I'm Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there's a pair of us?
Don't tell! they'd advertise — you know!
How dreary — to be — Somebody!
How public — like a Frog —
To tell one's name — the livelong June —
To an admiring Bog!
わたしは誰でもないひと! あなたは誰?
岩波文庫(1998年)
わたしは誰でもないひと! あなたは誰?
あなたも — わたしと同じ — 誰でもないひと?
だったら わたしたちふたりでひと組ね?
口には出さないで! みんなに知られてしまう — いいわね!
退屈なものね — [ひとかどの]誰かである — っていうのは!
よくご存じの — カエルみたいに —
六月のあいだはずっと — 自分の名前を告げている —
うっとりしている沼地にむかって!
これはアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830–1886)の作品で、亀井俊介(1932-2023)編集の岩波文庫からの引用である。亀井は日本の比較文学者、アメリカ文学者で、研究者ゆえか、ディキンソンについての解説が本書に詳しい。時代とジャンルも違うが、ニューヨークを写した15万点以上の作品を遺しながら素性を明かさず、生前に1点も公表することがなかった女性写真家、ヴィヴィアン・マイヤー(1926–2009)を私は思い出す。ディキンソンはマサチューセッツ州アマーストの上流家庭に生まれ育ったが、無名の詩人として人生を終えた。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、死後にクローゼットに眠る数千の詩が妹によって発見され、編集出版されて広く読まれるようになった。ディキンソンの詩はダッシュを多用、一目で他の詩人作品と異なっていることが分かる。いずれも短いので、一日一編ぐらいのペースで拾い読みしてきた。ただその内容はかなり難解であるし、中国や西洋文学の特長である、韻を踏んでいることが邦訳では伝わってこない。だから完全に理解したとは言い難い。
詩人エミリー・ディキンソンの新発見肖像写真の真偽(写真少年漂流:2013年2月8日)
0 件のコメント:
コメントを投稿