2023年8月18日

超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド

>Revenge of the Goldfish
Revenge of the Goldfish, 1981
Sandy Skoglund

インスタレーション・アーティストで写真家のサンディ・スコグランドは1946年9月11日、マサチューセッツ州ウェイマス生まれた。幼少期はメイン州、コネチカット州、カリフォルニア州など各地で過ごした。スタジオ・アート、歴史、ファイン・アートを学んだマサチューセッツ州のスミス・カレッジを1968年に卒業した。1967年、大学の留学プログラムを通じてソルボンヌ大学とフランスのパリのエコール・デュ・ルーブル美術館で美術史を学ぶ。1969 年に卒業した後、アイオワ大学の大学院で印刷、マルチメディア、映画制作を学んだ。1971年に芸術修士号、1972年に美術修士号を取得。以後、コンセプチュアル・アーティストとしてニューヨークで活動を始める。しかし、すぐに写真が好きになり、1978年に最初の仕事として食品を撮影した。スコグランドは、カラフルな模様の背景に食品を配した作品を制作した。それは、間違いなく誰もが食べるという普遍的な言語を開発するための手段だった。食品を題材にする意図は、彼女の作品を見る人々とのつながりを生み出すことだった。例えば、野菜や果物の見た目を刺激するために人工着色料を使用する。広告では、写真は何かの見た目を引き立たせるための道具として使われる。

>Radioactive Cat
Radioactive Cats, 1980

例えば食品の表面に光沢を与えるための油性コーティングや、冷やしたグラスの汗を再現するためのジメチコンの使用などである。このように、スコグランドは、何かを再現するための豊富なオプションがあることから、食品を研究し扱うことが好きだった。スコグランドは、複雑なタブローを構築することでシュルレアリスム写真を制作している。彼女はセットに色を塗り、実物大のオブジェや被写体を配置する。一つの作品を仕上げるのに数ヶ月かかる。目的のシーンの演出が終わると、それを写真に収める。スコグランドは写真で芸術的な努力を果たし、それを記録することができる。

Fox Games
Fox Games, 1989

彼女の有名な作品のひとつに、緑色に塗られた粘土でできた猫たちが灰色のキッチンで暴れまわる "Radioactive Cats"(放射能猫)がある。そこでは、老人がカメラの反対側を向いた丸テーブルの椅子のひとつに座り、女性が冷蔵庫の中を見ている。写真は1970年代後半のテーブル クロスに飾られた皿から、1980年代と 1990 年代のより素晴らしい作品まで多岐にわたった。展覧会を批評した批評家、リチャード・レイディエは、スコグランドの批評には、フェミニスト、社会学、精神分析などあらゆる種類の解釈が散りばめられているとコメントした。

Cats in Paris
Cats in Paris, 1993

しかし、スコグランドはこうした読み方には気づいていないと主張し「私の仕事の意味とは何だろう?私にとって、それは本当に仕事をすることにあるのだ」と語った。2004年、彼女は1986年にスタートしたシリーズ "True Fiction Two"(真の作り話2)を完成させた。これほど時間がかかったのは、作品に使い始めた素材が手に入らないという問題に直面したからだ。それゆえ、彼女は実現可能で管理可能なものに合わせて作品を作らなければならなかった。

Breathing Glass
Breathing Glass, 2000

スコグランドは、現実とイマジネーションを対立させる能力に長けている。彼女は人工物と自然物を混ぜ合わせ、それが彼女の興味の原点となっている。彼女は人工的なものに惹かれ、それらに生活を依存している。例えば、肌に塗る香りの良いクリーム、カラフルで面白い布地などである。サンディ・スコグランドにとって、人工的な増幅のない世界は考えられない。彼女は、このようなことを毎日しているのは自分だけではないと信じている。作品はサンフランシスコ近代美術館、デイトン・アート・インスティテュート、コロンビア現代写真美術館などで展示されている。

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2023年8月16日

原発新設が必要になるリニア新幹線計画の陥穽

リニア新幹線L0系改良型試験車
リニア新幹線L0系改良型試験車

リニア新幹線はJR東海が2014年に着工した東京と大阪を結ぶ新路線。超電導磁石を使って浮上して走行し、最高時速は約500km従来の東海道新幹線の2倍近い。東京の品川から名古屋までの所要時間は現在の約1時間30分から40分に短縮されるという。静岡県の知事が着工を認めていないことからJR東海は、目標とする2027年開業は困難としている。主な反対理由は以下のとおりである。

  1. 水資源の枯渇:リニア新幹線のトンネル工事により大井川の水量が減少する恐れがある。
  2. 自然環境への影響:トンネル工事により南アルプスの自然環境に悪影響を与える恐れがある。
  3. 財政負担:静岡県はリニア新幹線の建設費を負担する義務はない。

川勝知事は、これらの問題が解決されない限り、リニア新幹線の着工を認めないとしている。静岡工区は、JR東海と静岡県をはじめ周辺自治体との間で工事の同意に至っていない。トンネル工事によって、これまで大井川に流入していた大量の地下水が他の流域へと流出し、大井川の流量が大幅に減少することで大井川流域の生活・産業面への影響が懸念されているが、JR東海は周辺自治体に対して懸念を払拭する説明ができていない。しかし知事は特定のメディア、出版社、ライターから猛烈なバッシングを受けている。例えばNHK。2021年12月8日付けの政治マガジンは「静岡“コメ騒動”」と題した記事を掲げ、リニア中央新幹線の工事に待ったをかけ、政権与党から警戒されてきたが、何に失敗したのか、静岡放送局の記者二人が懸命に解説している。その他、川勝知事を批判した記事は、検索すれば山ほど出てくる。

ルート

確かに知事の過去の発言に問題点がないわけではないが、この機会にリニア新幹線の是非を再検討すべきだろう。品川と名古屋が40分で移動できるようになるとされるが、どれだけの意味があるのだろうか。現状で品川-名古屋は87分で移動できる。リニア新幹線は行程の大半がトンネルの中。短時間、大都心の道路下を地下鉄が通行するのは合理的だが、長距離路線には重大な難点がある。最大の問題は二つ、安全性と費用だ。以下「リニア中央新幹線の問題点(武蔵野大学工学部阿部修治教授)」(環境と文明2019年7月号)より抜粋。

日本列島を分断する巨大な活断層が存在する。断層にずれが生じれば想像を絶する重大事故が発生する可能性が高い。さらに加えれば、電力の問題がある。時速500kmという高速で走行するリニア新幹線は、通常の4倍くらいの電力が必要だと推定されている。リニア新幹線は高速走行により速度の時速の2乗に比例する大きな空気抵抗を受けるため、時速500kmを維持するだけでも大きなエネルギーが必要である。リニアモーターを動かす電力は地上コイルに供給され、そこに流れる電流の負荷として電力が消費されることになる。東京から名古屋まで敷き詰められる地上コイルに供給される多くの電力必要となる。走行する列車本数が少なければ、必要な電力は現在の電力供給量の範囲内だろうが、リニアを大阪まで延長し、東海道新幹線並みの列車本数になると、極めて多量の電力あが必要となり、それを賄うためには原発の新設が必要になる。

新設が間に合わないなら、老朽原発の再稼働を促すだろう。つまり単に高速移動手段の建設以上の、深刻な問題を包含している。電力供給に関しては下記リンク先のJR東海のサイトには記述がない。なお日本のリニア技術を売り込むイベントが2月、ニューヨークで初めて行われた。リニア新幹線の建設はいわば国策であり、ゆえに川勝知事の言動は邪魔なのである。次善の策として迂回ルートを探ることも考えられるが、更なる工事費の上昇が懸念され現実的ではない。この機会に計画中止を含め、リニア新幹線の是非を再検討すべきである。

JR logo  JR東海リニア新幹線は年600億円の赤字!?「葛西案件」の泥沼収支を独自試算 | ダイヤモンド編集部

2023年8月15日

玉音放送:日本が戦争に負け無条件降伏した日

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パリの赤十字クラブ「レインボー・コーナー」の前に集まった米軍兵士と女性たち(1945年8月15日)

1945年7月、ポツダム会談の合意を受け、アメリカ・イギリス・中国の三国首脳名で日本に無条件降伏を勧告した。日本政府は8月14日にその受諾を決定し15日に国民に発表した。この決定は、1945年8月6日にアメリカが広島に原子爆弾を投下した後、そして3日後の8月9日には長崎にも原子爆弾が投下されたことを受けて、日本政府が戦況の絶望的な状況を理解し、降伏を受け入れる決断をした。そして、8月15日には、日本の天皇裕仁(当時)が、ラジオを通じて大東亜戦争終結に関する詔書(玉音放送)」として知られる、戦争の終結に伴う無条件降伏を発表した。これにより、第二次世界大戦の太平洋戦争が終わりを迎えたのである。

玉音放送を聞き皇居前広場でひざまずく人たち(1945年8月15日)

パリでは日本軍の降伏を祝うため、アメリカ軍人と女性たち赤十字クラブ「レインボー・コーナー」の前に集まった。 ニューヨークではタイムズスクエアに200万人の人々が押し寄せ、戦勝祝賀会が数日間続いた。紙吹雪が彼らの頭上に降り注ぎ、コンガの隊列が蛇行し、人々は目に入る者に次々とキスをした。シカゴでは男たちがはしごを登って、3か月かけて作った高さ18フィートの固形ワックスの勝利のろうそくに火を灯した。ダウンタウンでは、50万人の人々がループに押し寄せ、目抜き通りで歌い、踊ったという。東京では、天皇の玉音放送が流れて以降、人々が皇居前広場につめかけ、ひざまずいた。そして8月23日、広場で13人が自決した。

library  大東亜戦争終結ニ関スル詔書・御署名原本・昭和二十年八月十四日 国立公文書館デジタルアーカイブ

2023年8月14日

ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績

Inside the Cone of Fire
Inside the Cone of Fire, Con Thien, Vietnam, 1967
David Douglas Duncan

デイヴィッド・ダグラス・ダンカンは戦争の峻烈な写真で高く評価され、パブロ・ピカソの最も有名な写真も撮影したアメリカの写真家である。ミズーリ州カンザスシティで1916年1月23日に生まれた。幼少期からアウトドアに興味を持ち、比較的若くしてボーイスカウトのイーグルスカウトの称号を得た。カンザスシティにあるダンカンの小学校で、大物ハンターであり医師でもあったリチャード・ライトバーン・サットンがランタン・スライドを使ったプレゼンテーションを行ったことがきっかけで、写真と世界旅行に早くから興味を持つようになった。アリゾナ大学に短期在籍し考古学を学んだ。ツーソン滞在中、彼はホテルに入ろうとする銀行強盗のジョン・デリンジャーをうっかり撮影してしまった。結局、ダンカンはマイアミ大学で教育を受け続け、動物学とスペイン語を専攻して1938年に卒業した。マイアミで本格的にフォトジャーナリズムに興味を持ち始めた。大学新聞の写真編集者兼カメラマンとして働いた。1996年にアーカイブを寄贈されたテキサス大学オースティン校によれば、ダンカンは1930年代からフリーランスとして仕事を始め、北米や南米を旅していたという。海兵隊員として第二次世界大戦に従軍した後、ライフ誌の撮影に携わりながら、朝鮮戦争中の任務を皮切りに、兵士を作品の中心に据えた。この経験は、その後の彼のキャリアに大きな影響を与えることになる。

Turkish General Kara Avni Mizvak
Turkish General Kara Avni Mizvak, Russian border, 1948

ダンカンは1951年の作品集 "This is War"(これが戦争だ)の序文に 「彼らの物語を知るためには、小説の文章を1ページ読むのと同じように、写真の各ページを注意深く読まなければならない」と 書いている。ダンカンがニッコールレンズと出会ったのは1950年6月のことである。当時、日本美術の撮影に勤しんでいたダンカンは契約カメラマンとして、タイム・ライフ誌の東京支社にいた。のちに彼のアシスタントになる写真家三木淳は、日本人唯一の同誌カメラマンとして同じく東京・京橋にある同社の東京支社内にいた。三木が現像した肖像写真を見たダンカンの表情が急変した。自身の肖像写真がシャープに描かれていたのである。

Nightmare Alley
Marines of 1st Division marching down canyon known as Nightmare Alley, 1950

ダンカンはルーペを持ち出してその写真をチェックし「日本製ゾナーレンズ」のもつ描写のシャープさを見抜いた。そして「このレンズを作っている工場に行きたい」と三木に伝えたという。その直後、朝鮮戦争が勃発。2台のライカに Nikkor SC 5.0cm F1.5 と Nikkor Q 13.5cm F4 をつけたダンカンは朝鮮戦線で、一貫してニッコールレンズを使用し、多くの写真を撮影した。これをきっかけとしてニッコールレンズおよびニコンSなどの日本製カメラがアメリカの写真家たちを席巻したのである。ダンカンはパブロ・ピカソとも親しくなり、彼の自宅やアトリエでリラックスしたポーズや遊び心のあるポーズをとっているスペイン人画家を撮影した。

Marine Captain Francis Fenton in despair
Marine Captain Francis Fenton in despair by North Korean counter-attack, 1950

彼は1956年にピカソと出会い、1973年にピカソが亡くなるまで、そして未亡人のジャクリーヌや娘のカトリーヌとも親交があった」とアンドラルは語っている。しかし、彼を一躍有名にしたのは戦争写真であり、その生々しいポートレートは韓国とベトナムの兵士たちの過酷な運命を捉えていた。「夜明けだった。とても寒く、マイナス30度くらいで、お腹が空いていて、もう話すこともできなかった」「こんな風に泣いてごめんなさい」と2008年にフランス南部、オクシタニー地域圏ピレネー=オリアンタル県のペルピニャンで開催された "Visa Pour L'Image"(イメージのためのビザ)フェスティバルでの作品展で語った。

Jacqueline and Picasso
Jacqueline and Picasso on 3rd floor of La Californie, Cannes, 1959

ペルピニャンでは若いジャーナリストたちに「あなたたちにはカメラがある。 政治的な武器なんだから、使わなければならない」とこうアドバイスした。その後、ダンカンは特にジョージ・W・ブッシュ大統領時代には率直な反戦論者となった。2018年6月7日、ダンカンは102歳の生涯を閉じた。1960年代からフレンチ・リビエラに住んでいたダンカンは、カンヌ近郊のカステラスに家を構えていた。フランス南部の地中海沿いの都市、アンティーブにあるピカソ美術館のジャン=ルイ・アンドラル館長は「肺炎の合併症の後、親しい人々に囲まれて」南部の町グラースの病院で亡くなったと語った。

university_bk  David Douglas Duncan (1916–2018) Papers and Photography | The Harry Ransom Center