2023年10月6日

ロシアにおけるデザインと構成主義の共同創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ

Dynamo Sports Club
Parade of the Dynamo Sports Club, Moscow, 1928
Alexander Rodchenko

アレクサンドル・ロドチェンコは彫刻家、グラフィックデザイナー、芸術家、写真家で、ロシアにおけるデザインと構成主義の共同創設者だった。ロシア革命後、彼は多才な生産主義、構成主義の芸術家として頭角を現した。写真やフォトモンタージュを始める前は、グラフィックデザイナーや画家として活動していた。ロドチェンコは1891年12月5日、サンクトペテルブルクの労働者階級の家庭に生まれた。芸術の世界での経験はなかったが、ロドチェンコは芸術家になることを決意した。幼い頃に手にした美術雑誌が彼のインスピレーションとなった。1910年、カザン美術学校でゲオルギー・メドヴェージェフとニコライ・フェシンに師事。5年後もモスクワのストロガノフ・インスティテュートで美術の訓練を受けた。この頃、抽象的なスケッチを描き始める。彼の絵はカジミール・マレーヴィチのシュプレマティズムの影響を受けている。1916年、ロドチェンコの作品はウラジーミル・タトリンの博覧会に出品された。彼の作品は未来派やキュビスムなどの芸術運動からも影響を受けた。ロドチェンコはロシアを代表する前衛芸術家の一人となった。 画家であると同時に彫刻家でもあり、工場や企業、映画館のポスターデザインも手がけた。

Railway bridge,
Railway bridge, 1925

1922年からの2年間、フォトモンタージュにめり込む。モンタージュには、すでにある素材やイメージを使った。ウラジーミル・マヤコフスキーの詩集『プロ・エト』のモンタージュで有名である。しかし1924年、既存の写真では関連するものがまったく見つからなかったため、自分で撮影した写真を使うしかなかった。こうして彼は写真が最良のアプローチであることに気づいた。彼の考えでは写真はどんな位置、視点、角度からでも撮ることができる。それゆえ写真は人間のダイナミックな眼とよく対応していると考えた。1928年までロドチェンコはマヤコフスキーのポートレートを撮影したり、マヤコフスキーと共同制作をしたりするだけでなく『ノヴィ・レフ』や『レフ』のような構成主義美術雑誌のために、この手法でレイアウトやデザインを行った。

Pro eto
Image of Illustration for the poem 'Pro eto', 1923

ロドチェンコの写真は、これらの印刷雑誌の表紙に使われたり、誌面に掲載されたりした。ロドチェンコの写真は簡素で、余計なディテール描写がない。彼の写真撮影のアプローチは、当時の他の人々の撮影方法とは大きく異なっていた。写真の実践を従来の基準から解放するために、一風変わった大胆な視点を用いた。1928年、彼は宣言的な形式で『現代写真の方法』を著した。1927年、ロドチェンコは写真の分野に完全に没頭するため、絵を描くことをやめた。1年後ライカを購入したが、このカメラはさまざまな視点や奇妙な位置から対象物を見ることを容易にした。また予期せぬ細部の景色を捉えることもできるようになった。

Pine trees
Pine trees, Pushkino, Russia, 1927

そして階段、格子、ワイヤーなど、いくつかの要素を写真の構図に取り入れた。それらは彼の構図を構成主義的で抽象的な線の構造に変えた。そのような作品の最も有名な例は階段、格子、ワイヤーなど、いくつかの要素を写真の構図に取り入れた。そのような作品の最も有名な例は『階段(1930年)『ライカを持つ少女』(1934年)などである。1930年代には、スポーツ・ビート、パレード、振り付けされたアクションや動きの写真撮影に力を入れた。1931年、十月芸術家協会を追放される。そしてロドチェンコは絵画の制作に戻り、1942年には写真家としての活動を停止した。1956年12月3日、モスクワで死去、64歳だった。

MoMA  Alexander Rodchenko (1891–1956) Biograhy Art Works Exhibitions Audio Media Licensing

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