2023年2月25日

アメリカ西部開拓を正当化する役割を担ったカウボーイ

Frederic Remington

カウボーイの起源はメキシコだが、アメリカのカウボーイは独自のスタイルを作り上げた。しかし荒く、孤独で、時には過酷な労働は、気の弱い人には向いていなかった。1519年、スペイン人がアメリカ大陸に到着して間もなく、彼らは牛などの家畜を飼育するための牧場を建設し始めた。スペインからは馬が輸入され、牧場で働かされていた。メキシコの先住民のカウボーイは、スペイン語の vaca(牛)に由来する vaquero(ヴァケロ)と呼ばれていた。ヴァケロは牧場主に雇われて家畜の世話をし、優れたロープワーク、乗馬、牧畜の技術で知られていた。1700年代初頭には、牧場は現在のテキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、そして遠く南はアルゼンチンまで進出した。1769年にカトリック教会によるカリフォルニアの伝道活動が始まると、西部ではより多くの地域に家畜の飼育が導入されるようになった。1800年代初頭、西部に移住した英語圏の入植者たちは、服装や牛追いなど、ヴァケロ文化の一端を取り入れた。 カウボーイはアフリカ系アメリカ人、アメリカ先住民、メキシコ先住民、アメリカ東部やヨーロッパからの入植者など、さまざまなバックグラウンドを持っていた。

Cattle Drive
Cowboy surrounded by cows during cattle drive

1800年代半ば、アメリカでは鉄道が敷かれ、さらに西へと伸びていった。西方拡大によりフロンティアがどんどん広がっていく中、カウボーイは西部開拓を正当化する標語 Manifest Destiny(明白なる使命)の中心的な役割を担った。カウボーイは家畜を飼い、集めては鉄道で各地に運んで売った。どの牛がどの牧場のものかを区別するために、カウボーイは牛の皮に特別なマークを焼き付けた。キャトルドライブでは3,000頭の牛を移動させるのに、8人から12人のカウボーイが必要だった。1865年に南北戦争が終結する頃には、北軍の牛肉はほぼ使い果たされ、牛肉の需要が高まった。また、食肉加工業の拡大も牛肉の消費を促した。1866年には、何百万頭ものロングホーン・キャトルが集められ、鉄道駅に向かって走らされるようになった。牛は北部の市場に一頭あたり40ドルもの高値で売られた。牧場経営は1800年代後半まで広く行われた。白人入植者は、購入した牛を飼育するために、大平原の公有地を放牧地であると主張することを許可された。しかし1890年代になると、土地の所有権をめぐる確執が解消され、有刺鉄線の普及もあって、ほとんどの土地が民営化されるようになった。

High Noon
Gary Cooper 'High Noon' 1952

1886年から1887年にかけての冬、西部の一部では気温が氷点下まで下がり、何千頭もの牛が死んだ。多くの学者は、この壊滅的な冬がカウボーイ時代の終わりの始まりだったと考えている。牛追いは1900年代半ばまで続けられたが、その規模は小さくなった。ほとんどのカウボーイはオープントレイルでの生活をやめ、西部の個人牧場主に雇われるようにった。1920年代にカウボーイの役割が減少し始めたにもかかわらず、ハリウッドは1920年代から1940年代にかけて、西部劇でカウボーイのライフスタイルを普及させた。これらの映画にはジョン・ウェイン、ゲイリー・クーパー、ジーン・オートリーなどのスターが出演していた。観客は「真昼の決闘」のウィル・ケインの架空の冒険をスクリーンで見るために映画館に押し寄せたのである。カウボーイは時に無法者という悪評が立ち、所によっては出入り禁止になることもあった。日差しを防ぐためにつばの広い大きな帽子をかぶり、馬に乗るためにブーツを履き、砂埃から身を守るためにバンダナを巻いていた。時代は変わっても、アメリカのカウボーイは今でもアメリカ西部の生活の一部であることに変わりはない。

Cowboy Brown American Cowboy | The History of the Vaquero by Phil Livingston | Equine Network

2023年2月19日

女性の乳首に自由を

Civilian Defense
Edward Weston (1886–1958) Civilian Defense, Carmel, 1942

ソーシャルメディア Facebook にヌード写真をポストしたところ即削除されたことがある。ごくありふれた写真だったので驚いたのだが、おそらく閲覧者の報告によりシステムが対処したのだろう。利用規約に反しているという指摘があったように記憶している。以下に Facebook の「ヌードや性的行為: パブリッシャー・クリエイター向けガイドライン」の一部を引用しよう。

Facebook では乳首が見える女性の乳房の画像も制限されますが、医療目的や健康上の目的でシェアされる画像は除きます。授乳をしている女性や乳房切除術後の瘢痕を表す写真も許可されます。また、ヌードを描写する絵画や彫刻などの芸術作品の写真も許可されます。

上掲の写真はエドワード・ウェストン(1886–1958)の「民間防衛」と題した作品だが、おそらくこれをポストすれば削除されるだろう。医療目的や健康上の目的ではないし、授乳をしている女性の写真ではないからだ。写真術は近代に生まれたが、今や絵画や彫刻と相並ぶ芸術様式である。なぜ Facebook、あえて名指せば CEO(最高経営責任者)のマーク・ザッカーバーグが写真芸術を排斥するのか理解できない。乳首が写ったヌード写真は猥褻だと短絡解釈しているのだろう。さらに同上ガイドラインを引用しよう。

性的行為の表示に対する制限は、イラストコンテンツやデジタル処理で作成されたコンテンツにも適用されます。ただし、教育目的、ユーモアや風刺の目的で投稿されたコンテンツの場合は除きます。性行為の露骨な画像は禁止されています。

性行為の画像は禁止という言質は性行為を猥褻であると解釈しているわけだが、性行為すなわちセックスなしには子どもは生まれない。卑近な例、アニマルセックスの写真がおおっぴらに公表されているが、ヒトのセックスの写真はご法度になっている。江戸時代の「枕絵」は親が娘に持たせる嫁入り道具であったが、幕府の取り締まりを受けた。うがった見方をすれば性行為の画像の取締りは昔から為政者の権力の象徴と言えそうである。ポルノ画像が性犯罪の呼び水になっているかは疑問である。

Free The Nipple

女性の乳首に関しては「カイリー・ジェンナーの Free the Nipple に続け! フリー・ザ・ニップルをリードするセレブ11名」という記事を思い出す。Free The Nipple(乳首を自由に。以下 FTN)とは男性のトップレスは許されているのに、女性はそうではないことに対する抗議活動である。もともとは俳優で監督のリナ・エスコが2012年に同名のインディーズ系コメディ映画を作ってこのダブルスタンダードを指摘、ジェンダー差別の撲滅を訴えたことから始まった。彼女の主張を支持したマイリー・サイラスやレナ・ダナムがこのハッシュタグをつけて SNS にトップレスをアップしたが、インスタグラムや Facebook は「女性のトップレスはNG」というルールがあるとして削除。女性セレブたちがこれに抗議し、FTN は一気に拡大した。今もダブルスタンダードはなくならず、バストトップを何らかの形で隠さなくてはインスタグラムにトップレス画像をアップできないことから FTN は根強く続いている。 下記リンク先のガーディアン紙の記事によると Facebook と Instagram の親会社 META は、まもなく女性の胸の写真を解放する可能性があるという。同社の監視委員会は、女性のヌード写真を禁止する規則を見直すよう求めたという。マーク・ザッカーバーグに早急な決断が求められている。

guardian Free the nipple: Facebook and Instagram told to overhaul ban on bare breasts | Guardian

2023年2月16日

ラ・プラタの博物学者ウィリアム・H・ハドソン

ラ・プラタの博物学者

中国ファーウェイの7型タブレット MediaPad T3 7 を持っている。実画面は文庫本よりひと回り小さいが、これまでアイザック・ウォルトン(1593–1683)の『釣魚大全』やの『海上の道』などの電子書籍を読んできた。電子書籍の最大の特長は、文字の大きさや書体を変えることができることである。劣化した視力には有難い。ただ読書専用機ではないので、やはりアマゾンの電子リーダー Kindle Paperwhite が欲しくなる。とてつもなく膨大な、星の数ほどの書籍が電子化されているが、何故か好きな作家ウィリアム・H・ハドソン(1841–1922)の邦訳本がリリースされていない。従って今のところ Kindle の導入に至っておらず、紙の本をバッグに忍ばせて持ち歩いている。おおよそこの10年間、唯一の例外はフィドルの教則本で、文庫本あるいは新書しか購入していない。だから友人が写真集を出したにも関わらず不義理をした。おっと、長い前書きになってしまった。

はるかな国とおい昔

ハドソンといえばまず頭に浮かぶのが『はるかな国とおい昔』で、 生まれ育ったアルゼンチンの幼少時代を書いた自伝文学である。寿岳しづの名訳が岩波文庫から1998年に出版された。

William H. Hudson

どこまでも続く大草原、広い空にひびく羊たちの鳴き声.アルゼンチンのパンパに育った作家ハドソンが、自然とともに生き、その不思議な美に魅せられた幼年時代の思い出を美しく綴った自伝文学の傑作。博物学と文学の美しい交錯とうたわれるこの作品は、現代人の心にも自然への深い愛着を呼びさます。(岩波書店のHPより)

ハドソンの作品で私が特にお気に入りなのは『ラ・プラタの博物学者』で、岩波文庫:改定版(1975/8/18)と講談社学術文庫(1998/12/10)の両方を所持、翻訳の違いなどを読み比べたりしている。

「パンパ」とよばれる大草原が広がる南米のラ・プラタ地域は、ハドソンンが青少年期を過ごした土地である。その地をこよなく愛し、自然や野生生物の観察に明け暮れた彼の熱情は、やがて当地の大自然を美しく歌い上げた本書となって結実し、博物学者としてのハドスンの名声を不動のものとした。原典にちりばめられた博物画家スミットによる味わい深い挿画を完全収録し、待望の新訳で贈る博物誌の名品。(「BOOK」データベースより)

博物学に造詣が深かったハドソンは鳥類学者でもあった。黒田晶子訳『鳥たちをめぐる冒険』(1977/4/24)および小林歳雄訳『鳥と人間』(1978/10/16)を講談社が出版した。いずれもハードカバーだったが、前者は1992年に同社学術文庫に収められた。

鳥たちをめぐる冒険
鳥がいつまでもそこにいたがったのは、手あつい介抱のためではなく、ひとからならぬ恋のためらしかった。当然、彼の相手は彼を助け餌をやった少年だろうと思われるところだが、実はなんと隣家に住む小さな男の子だったのだ! 誤解の余地はなかった。そうしたければいつでも飛び去れるはずのこの鳥は、自分の選んだ、小さな友だちの家の近辺にようになった。いつでも少年のそばにいたがり、学校に行くときもついていって教室に入り、一つ所にとまって授業が終わるのを待った。だが彼の忍耐心にとって、学校の授業の教程は長すぎた。コクマルガラスはしばしば大声で不服を訴え、子供たちはクスクス笑った。結局彼は外へ出され、ぴしゃりとドアをしめられた。すると今度は屋根の上にとまって放課後を待ち、時間になるとおりてきて少年の肩にのり、一緒に家に帰った。(黒田晶子訳)

イングランド南部ウィルトシャー典礼カウンティの小さな村でのエピソードだ。英国に渡り、極貧生活に耐えながら、アルゼンチンや英国の鳥類などに関する優れた著作を残した。幼少時、コウカンチョウを手にするが、それは籠に入れて飼った最初の鳥であり、籠に入れて飼った最後の鳥でもあった。ガラスケースの中の鳥、すなわち剥製による研究を戒めた、鳥類保護の先駆者だった。1894年、RSPB(英国王立鳥類保護協会)の評議会委員長に選ばれている。

britannica  William H. Hudson (1841-1922) | British author, naturalist, and ornithologist | Britannica

2023年2月14日

アメリカ先住民ポーニー族の文化と歴史を探求した女性人類学者

Folkways Records – FE 4334
Gene Weltfish

このLPアルバム「マーク・エヴァーツが歌うポーニー族の音楽」は女性人類学者のジーン・ウェルフィッシュ(1902-1980)が1936年に録音、1965年にフォークウェイズ・レコードからリリースされた。彼女は1928年から1953年までコロンビア大学に勤務したアメリカの人類学者・歴史家である。フランツ・ボワズに学び、中西部平原地帯のポーニー族の文化・歴史を専門とした。1965年に出版された民族誌 "The Lost Universe: Pawnee Life and Culture"(失われた宇宙ポーニーの生活と文化は、今日までポーニー文化に関する権威ある著作とみなされている。ウェルトフィッシュはニューヨークのドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれ育った。祖父が雇ったドイツ人の家庭教師に教えられ、ドイツ語を母国語として育った。13歳の時、父親が遺言なしに亡くなったため、その遺産は国が管理し、信託財産として保管した。家計を助けるため、4歳で学校の事務員として働き始め、夜間は高校に通った。1919年にワドレー高等女学校 を卒業し、ハンター・カレッジに入学し、ジャーナリズムを専攻する。コロンビア大学のバーナード・カレッジに編入し、ジョン・デューイ(1859–1952)に師事して哲学を副専攻した。1925年にバーナードを卒業し、コロンビア大学大学院の人類学課程に入学した。4年生のときにフランツ・ボアズ(1858–1942)の講義を受けた彼女は、その後も彼を指導教官として研究を続けた。ニューヨークでアメリカ先住民ポーニー族のヘンリー・モーゼスと出会ったウェルトフィッシュは、彼の部族を学位論文のテーマとして研究することを決意した。オクラホマ州の保留地では、部族のほとんどがポーニー語を話していた。彼女は美学と職人技の研究に重点を置き、ポーニー族の女性だけが行っていたバスケット作りの技術を学んだ。コロンビア大学での博士論文のタイトルは "The Interrelation of Technique and Design in North American Basketry"(北米の籠細工における技法とデザインの相互関係)だった。

The Last Univers

彼女は1929年に論文を完成させたが、正式に博士号を取得したのは1950年になってからである。この間、同じ大学院生だったアレクサンダー・レッサー(1902–1982)と結婚した。彼もボアスに師事し、スー族を研究する人類学者となった。二人は15年間結婚生活を送った。1931年に娘のアンが生まれる。二人はオクラホマでスー族の親族制度について最初のフィールドワークを行う。オクラホマ州の保留地では、部族のほとんどがポーニー語を話していた。それまでその言語を勉強したことはなかったが、何年か勉強しているうちに習得した。彼女は美学と職人技の研究に重点を置き、ポーニー族の女性だけが行っていたバスケット作りの技術を研究した。1935年、ボアズの招きでコロンビア大学で教鞭をとることになった。コロンビア大学では、長年にわたる女性差別の慣習からか、ウェルトフィッシュに終身在職権が与えられることはなかった。博士論文のタイトルは "The Interrelation of Technique and Design in North American Basketry"(北米の籠細工における技法とデザインの相互関係)である。彼女は1929年に論文を完成させたが、正式に博士号を取得したのは1950年になってからである。1961年にニュージャージー州のフェアリー・ディキンソン大学に就職し、定年退職の70歳を迎える1972年まで勤めた。大学を退職した後も、ニューヨーク市のニュースクール社会調査部とマンハッタン音楽院で非常勤講師として、またニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学で客員教授として教壇に立った。ラトガース大学では、老年学の新しいプログラムに参加した。1980年8月7日、ニューヨークのルーズヴェルト病院で、78歳の誕生日を5日後に控えて死去した。下記リンク先の YouTube でウェルフィッシュが録音した、マーク・エヴァーツが歌うポーニー族の音楽を聴くことができる。貴重なレア音源である。

Native American Music of the Pawnee sung by Mark Evarts and recorded by Gene Weltfish 1936 | YouTube

2023年2月12日

オーディオマニアになれないオーディオ愛好家

Audio Technica Banana Plug AT6302 and AT6301
いろんな形状があるバナナプラグとスピーカーケーブル

オーディオマニアはオーディオマニアであることを自称するという。オーディオに凝ると「電線病」を患らう可能性があるという。より高音質を求めてケーブルを取っ替え引っ替えする性癖である。病気ではなく、これまたこれを自称するマニアが多いようだ。スピーカーのケーブルを交換したことがあるが、音質が向上したか、私の聴覚ではわからなかった。変化しないという前に、変化に気付く人がいるということを忘れては駄目である、とマニアは警告する。おそらく私の場合は加齢による聴覚の劣化なにだろう。それはともかく音の違いが顕著に変化するのはスピーカーであることは言うまでもない。レコードプレーヤーのカートリッジも音質を左右する。CDプレーヤーの場合はD/Aコンバータかもしれないが、デッキを交換した際、私にはこれまた分からなかった。

Main Audio Syatem
My Main Audio Device
BOSE 201V

オーディオ愛好家がもうひとつ強調するのが電源である。オーディオ売り場には図太いケーブルが付いた電源タップが置いてあり目を丸くする。オーディオ用の壁コンセントまで売っている。発電所から家庭に届くまでに電気はノイズで汚れるという。さらに冷蔵庫や洗濯機、電子レンジ、照明器具などの電気製品が汚れを加速するそうである。その汚れを浄化すればオーディオ装置の音質が向上するというのである。加齢と共に聴覚が劣化した私には無理である。私はどうやら電線病に感染しないようだ。音質向上のためには出費をいとわないマニアは、1万円札が千円札程度にしか感じていない人たちかもしれない。某通販サイトで「オーディオ製品ってぼったくり過ぎてやしないかい?」というカスタマーレビューがあり思わず笑ってしまったことがある。常にコストパフォーマンスを念頭に置くし、いたずらに高価なものを欲しいとは思わない。第一その資金力がない。オーディオマニアというとお金をつぎ込むハイエンド製品ユーザーを連想しがちだが、私は低価格ローエンダーなのである。私は2系統のオーディオ装置を持っているが、上掲の写真はそのメインシステムである。左側上からDNP-730RE(ネットワークオーディオプレーヤー)DCD-755RE PMA-39(CDプレーヤー)PMA-39RE(プリメインアンプ)、そして右側にあるのがDP-300F(ターンテーブル)で、すべて DENON製の廉価なエントリ―モデル。これに BOSE のスピーカー 201V を繋いで聴いているが、これで十分である。というわけで私はオーディオ愛好家ないし音楽愛好家を自称するが、オーディオマニアを自称できないようだ。

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2023年2月9日

伝説のアメリカ西部カウガール列伝

Chrisman Susters
Harriet, Elizabeth, Lucie, and Ruth Chrisman at their sod house in Custer County, Nebraska, 1886

カウガールという言葉を耳にする以前から、西部へ旅立った女性たちがいた。その多くは、1840年代から家族とともに幌馬車で移動していた。彼女たちは混雑した東部の都市から、カンザス、ネブラスカ、コロラド、ワイオミング、モンタナ、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタといった西部の州に移り住んた。さらに遠く、カリフォルニア、オレゴン、アイダホ、ワシントンにまで足を伸ばしたものもあった。南北戦争の後、多くの人々が西部での新しい生活を求めた。1840年代から1860年代後半までの約30年間、アメリカ史上最大の移住が行われたのだった。1860年に制定されたホームステッド法では、21歳で未婚であれば、女性だけでなく男性も西部に160エーカーの土地を要求することができるようになった。こうした女性ホームステーダーの中には、乗馬、牛やその他の動物の綱渡り、必要に応じて銃を撃つ技術を習得した人もいた。モンタナに入植した開拓者のひとり、ナニー・アルダーソンは「新しい国は、古い国よりも個人の自由を与えてくれる」と信じていたのである。開拓時代の生活から生まれた女性の新しい自由のひとつは、衣装の変化である。当時、女性はズボンを履くことはほとんどなく、馬に乗るときも横座りだった。スカートをはいたままでは、男のように馬に乗ることはできないし、そもそも馬に乗ること自体が「淑女」ではなかった。

Calamity Jane
Calamity Jane at the Pan-American Exposition in Buffalo, New York, ca. 1901

新開拓地の開拓という仕事のために、多くの女性が窮屈な伝統的な服装を(少なくとも一部の時間では)捨てるようになったのである。フォトジャーナリストのイヴリン・キャメロンは「20年ほど前から、西部の牧場にはカウボーイの女性版ともいうべきカウガールがいて、同じようなサドルに乗り、同じような馬に乗り、同じような仕事をし、実際、効率的にこなしている」と1880年代のモンタナとワイオミングでのバカルー生活への移行について書いている。1840年、開拓者のサリー・スカルはテキサスで初めて自分の牧場「サークルS」を持った女性の一人で、メキシコから国境を越えて連れてきた野生の馬と牛を放牧していた。彼女のニックネームは「マスタング・ジャン」そして馬の名前は「レッドバック」だった。南北戦争中、彼女は男装してテキサスからメキシコまで貨車を走らせた。彼女の記念碑には「彼女は鞍に乗せたライフルや腰に巻いた2丁の拳銃で確実に撃ちまくった」と記されている。カウボーイのように生活するために男性のふりをした女性開拓者も何人かいた。1867年にジョー・モナハンはニューヨークのバッファローから単身で西に向かった。

True Gir
'True Girl of the West', Del Rio, Texas, 1906.

目的地に無事到着するために、彼女はズボンとベストと帽子を身につけ、男性になりすましたのである。選挙権など男性の特権を享受するためと、正体がバレるのを恐れて、彼女は変装を続けた。1904年にジョーが亡くなって初めて、彼女が男性のふりをしていたことが発覚した。独立した女性は、隣人から疑われたり、厳しい判断を下されたりすることがよくあった。ワイオミング州スウィートウォーター・バレーに住むエレン・ワトソンもそのような運命にあった。キャトルケイトと呼ばれた彼女は、1889年に家畜泥棒の罪に問われ、裁判で弁護する間もなく、土地を強奪した地元の牛飼いたちに殺されてしまった。シャイアン・デイリー・リーダー紙は「彼女は鞍の上で向こう見ずで、6連射銃を使いこなし、ラリアットと焼印を巧みに操った...彼女はまたいで乗り、馬にはいつも凶暴なブロンコがいて、放牧地を飛び回るのに飽きないようだった」とこの運命の女性を表現している。1世紀後、歴史家たちは、キャトル・ケイトが誤認逮捕され、無実であったことを突き止めた。カウボーイの伝統の起源は中世スペインのハシエンダ制度に始まる。この牧畜スタイルはイベリア半島全域に広がった。

Bonnie McCarroll
Bonnie McCarroll thrown from "Silver", Pendleton, Oregon, 1915

後にアメリカ大陸にも輸入されたが、両地域とも乾燥した気候で、草もまばらなため、牛の大群は十分な飼料を得るために広大な土地を必要とした。また、徒歩では移動できない距離を移動するために、馬に乗ったヴァケロが発達した。1880年代に発明された有刺鉄線は、過放牧を防ぐために牛を特定の場所に閉じ込めることができるようになった。テキサスとその周辺では、人口の増加により、牧場主は個々の土地に柵を設置する必要があった。特に1886年から1887年にかけての厳冬期には、北西部で数十万頭の牛が死亡し、牧畜産業が崩壊する事態となった。1890年代になると、北部の平原では有刺鉄線のフェンスが標準となり、鉄道は全米に広がり、食肉加工工場は主要な牧場地域の近くに建設され、テキサスからカンザスの鉄道ヘッドまでの長い牛の移動は不要となった。放牧の時代は終わり、大規模なキャトルドライブは終わったのである。1900年代初頭に大草原は閉鎖されたが、カウガールやカウボーイの伝統的な技を競うロデオにそのレガシーが継承されている。

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2023年2月6日

アキハバラ少年とスカートの下の劇場

アンプの実体配線図(誠文堂新光社『MJ無線と実験』2014年9月号より)

アキハバラ少年だった。2008年夏に路上無差別殺傷事件が起きたが、あの現場を「アキバのホコ天」というそうだ。秋葉原の歩行者天国という意味だが、いつからアキバと呼ぶようになったのだろうか。そういえば子どものころアキバハラなのかアキハバラなのか、ちょっとした論争を友人としたように記憶している。前者のほうが読みとしては正しいと思う。しかし、駅の名前も後者だし、この読み方が正しいと聞かされたが、駅名は間違えてつけたという説もある。秋葉原駅は千代田区外神田なのだが、ややこしいことに、約500メートル北に「台東区秋葉原」という地名があり、これもアキハバラと読む。たぶん現代っ子にはアキバがピンとくるだろうけど、どうしても馴染めない。だから秋葉原は断固アキハバラと呼ぶことにしている。だいぶ様変わりしたと思うが、今でもガード下の電子部品屋街は健在だろうか。中学生のころ私は総武線の沿線に住んでいたが、電車に乗って50分余り、この街に行くのが何よりの楽しみだった。しかしどうして秋葉原に通うようになったか記憶が曖昧である。当時の少年たちが誰でも経験しただろう鉱石ラジオ作りがきっかけだったかもしれない。家には5球スーパーと呼ばれたスーパーヘテロダイン式受信機があったが、オーディオ装置、いわゆるデンチク(電気蓄音機)はなかった。雑誌に掲載されていた配線図を眺めては夢を膨らませていたが、もっぱら興味はパワーアンプに向いていた。今でも健在で驚く雑誌『MJ無線と実験』は、アマチュア無線機器よりもすでにアンプの回路図がウリだったように記憶している。世はまさにオーディオブームの魁(さきがけ)に突入していたと言える。

河出文庫(1992年)

その当時、出力用トランスのメーカーであったラックスマン(Luxman)がちょうどアンプを作り始めたころだった。製品としては、はっきり脳裡に残ってるのは米国のマッキントッシュ (McIntosh) で、これは文字通り高根の花だった。アップル社のマッキントッシュ(Macintosh)のことではない、念のため。だから自作が一番の早道で安上がりだったし、それに作る楽しみがあった。ところで突然、上野千鶴子著『スカートの下の劇場』(河出文庫)という本を思い出した。下着の歴史を通じてセクシュアリティの本質を解明しようと試みた、日本におけるフェミニズムの端緒を開いた本である。下着にこだわること、見えざるものへのお洒落は、アンプの配線に通ずる。シャーシの裏側、すなわちスカートの中は、普通は本人しか知らない。にも拘わらずそこに凝る。回路にはそれぞれの役割がある。その役割ごとに配線の被覆ビニールの色を変え視覚化する。あるいは、配線を美しく見せるためにシャーシの裏を塗料で変身させるとか。子どもながら私が目指したアンプ作りがそうだった。福音電機(Pioneer)のスピーカーを単体で買ってきて、自作したボックスに入れたり、レコードプレーヤーも部品を入手して組み立てた。これらはみな「世界で1台」のものだった。それから、もうひとつの遊びが写真だった。夜な夜な押入れ暗室で自家プリントをしたものだ。と、ここまで書いてフト思うこと、どうやらネクラな少年だったかもしれない。タイムスリップして現代に生きていれば私は「アキバ系」になっていたかなと。

technology.png 秋葉原 | 東京ラジオデパート | 創業から約70年 日本で最初の電子部品・電子機器パーツの専門店

2023年2月3日

英国の植民地主義者との橋渡しをしたポウハタン族のポカホンタス王女

Pocahontas
Pocahontas wearing traditional attire at the time of marriage to John Rolfe, 1614.

ポカホンタス(ca.1596-1617)は、アメリカ先住民ポウハタン族のワフンセナカウ酋長の娘だった。1595年頃、ヴァージニアのタイドウォーター地方で生まれ、マトアカと呼ばれた。しかし、幼い頃から遊び好きで陽気な性格から「リトルワントン」を意味するポカホンタスというニックネームを持ち「アメリカ先住民のヒロイン」と呼ばれた。ポカホンタスが初めて白人を見たのは、おそらく1607年5月、英国人がヴァージニアのジェームズタウンに上陸したときであろう。ヴァージニア植民地の指導者であったジョン・スミス船長だった。その後、12月にスミスはヴァージニアとチェサピーク湾の川沿いの探検を指揮していたが、パウハタン族に捕虜にされた。スミスはこのロマンティックな物語を語り継ぐことになり、伝説となった。この物語は何年も経ってから、その真偽を問う歴史家たちによって、精査されることになる。しかしスミスが語るように、彼は捕らえられてから数日後、ジェームズタウンから12マイル離れたウェロウォコモコにあるパウハタン族の公邸に連れて行かれたのである。大酋長ワフンスナカウは彼を歓迎しご馳走をふるまった。この「処刑と救済」の模擬儀式はアメリカ先住民の伝統的なもので、スミスの話が本当なら、ポカホンタスの行動は儀式の一端を担ったものと思われる。その後1年間、先住民との関係はおおむね友好的に推移し、ジェームズタウンを頻繁に訪れた。

Pocahontas saving John Smith
Pocahontas saving John Smith, New England Chromo Co, 1870.

彼女は父親からのメッセージを届け、他の部族を伴って食料や毛皮を取引し、訪問先ではジョン・スミスを訪ねて時間を過ごした。しかし、パウハタン族とジェームズタウン入植者の関係は悪化した。必要な交易は続けられたが、敵対関係はより顕著になった。1609年10月、火薬の爆発でジョン・スミスは重傷を負い、英国に帰国せざるを得なくなった。ポカホンタスはスミスが死んだと告げられた。1610年、ポカホンタスはパタウォメック族と共に暮らし、コクームという男と婚約または短期間結婚してポトマックに住んだ。しかし彼女と英国人との関係は終わっていなかった。ジェームズタウン入植地の機知に富んだメンバーであるサミュエル・アーガル船長は、彼女の居場所を知ると、彼女を誘拐して身代金として拘束する計画を練った。パタウォメック族の下位の首長であるジャパゾーズの助けを借りて、アーガルはポカホンタスを自分の船に誘い込んだ。アーガルはパウハタンに、パウハタンが捕らえた英国人の捕虜、インディアンが盗んだ武器と通行料、そしてトウモロコシと引き換えに、愛する娘を返すと言葉を送った。

wedding
Pocahontas marries John Rolfe, by Joseph Hoover, 1867.

しばらくしてから、パウハタンは身代金の一部を送り、娘を大切に扱ってくれるように頼んだ。アーガルは1613年4月にポカホンタスを連れてジェームズタウンに戻った。ポカホンタスは結局、トーマス・デール卿の指導の下、新しい入植地であるヘンリコに移された。ここで彼女はキリスト教を学び始め、1613年7月にジョン・ロルフというタバコ栽培の成功者と出会った。ポカホンタスは入植地内で比較的自由を許され、植民地とその民衆の関係において自分の役割を楽しむようになった。ほぼ1年間の捕虜生活の後、デールは150人の武装した男たちとポカホンタスを連れてパウハタンの領土に入り、彼女の身代金全額を手に入れようとした。攻撃を受けた英国人たちは、多くの家を焼き、村を破壊し、何人もの先住民を殺した。ポカホンタスは2人の兄弟と再会し、良い待遇を受けていること、恋をしていること、英国人ジョン・ロルフとの結婚を望んでいることを告げた。パウハタン酋長はこれを承諾した。ジョン・ロルフは非常に信心深い人物で、先住民の女性と結婚することを何週間も悩んだが、彼女が完全にキリスト教に改宗するとわかり、ついに決断した。

King James
Pocahontas at the court of King James, by Richard Rummels, 1907.

ポカホンタスは洗礼を受け、レベッカと命名され、1614年4月5日にロルフと結婚した。この結婚により、英国人と先住民との間に平和と親善の精神が生まれた。トーマス・デール卿は、1616年の春、ロンドンに向けて重要な航海を行った。彼の目的はヴァージニア社へのさらなる財政支援を求めることであった。彼はポカホンタスとその夫、そして幼い息子トマスを含む12人のアルゴンキン族を連れてきた。ロンドンに到着したことは、大々的に報道された。彼女はジェームズ1世、王室、その他のロンドン社交界の名士に紹介された。その時ロンドンには、彼女が8年間会っておらず、死んだと信じていた旧友ジョン・スミス船長もいた。スミスは、この会合で彼女は最初、感情が高ぶって話すことができなかったと語っている。気を取り直したポカホンタスは昔話に花を咲かせた。7ヵ月後、ロルフは家族をヴァージニアに帰ることを決意した。しかしポカホンタスが帰りの船で生き延びられないことがすぐにわかった。彼女は肺炎か結核で死にそうな状態だった。1617年3月21日、彼女は22歳前後で亡くなり、英国のグレイヴゼンドにある教会に埋葬された。アメリカ先住民は文字を持たなかったのでポカホンタスの「物語」は文献歴史学上の問題点がある。鵜呑みせずにその点を勘案する必要がある。

Native American Girl  The oldest church in America where Pocahontas married to John Rolfe | MailOnline

2023年2月1日

三浦瑠璃を重用してきたテレビ番組の功罪

三浦瑠璃
三浦瑠璃 ©2023 京都フォト通信

朝日新聞デジタル版によると、太陽光発電事業への出資をめぐって詐欺容疑で告訴された投資会社トライベイキャピタル(東京都千代田区)について、東京地検特捜部が19日に家宅捜索したことが関係者への取材でわかったという。同社は山猫総合研究所の三浦瑠麗の夫である三浦清志が代表を務めている。自身のシンクタンクのホームページで「今般、私の夫である三浦清志の会社が東京地方検察庁による捜索を受けたという一部報道は事実です。私としてはまったく夫の会社経営には関与しておらず、一切知り得ないことではございますが、捜査に全面的に協力する所存です。また、家族としましては、夫を支えながら推移を見守りたいと思います」とコメントした。東京大学同学部、同大学大学院出身の「国際政治学者」いう看板が、テレビのコメンテータとして重用された理由だろう。家宅捜査を受け、レギュラー番組だったフジテレビ系「めざまし8」およびテレビ朝日系「朝まで生テレビ!」の出演を取りやめた。トライベイキャピタルの株を半分所有していること、菅内閣の有識者会議である成長戦略会議の委員になり太陽光発電のライバルである洋上風力を攻撃したり、夫の会社トライベイキャピタルに対する援謹射撃的な発言や資料提出を行ったことなどが背景にあるからだろう。東京地方検察庁による捜索を受けたわけだが、さらに逮捕に至れば傷口が広がりダメージが大きくなるだろう。

TV

自粛というより、炎上や不祥事を避けたがる傾向が強いテレビ局のプロデューサーが、おそらく彼女に引導を渡したのだろう。舛添要一は「思いつきで奇をてらって発言しても、すぐにメッキがはげてしまう。彼女がその典型例だ」、ひろゆき(西村博之)は「学者を名乗っている人が言っている言葉は重い。学者が嘘ついたら不味いじゃん」と外野席からヤジが飛んでいる。三浦瑠璃といえば2022年7月、フジテレビ系「ワイドナショー」に出演した際、天皇と上皇の葬儀「大喪の礼」を「たいものれい」と言い間違えたため、ネットで集中砲火を浴びたことが記憶に残っている。皇室典範第25条に「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」とあるが、確かに「大喪」は「たいも」とも読む。しかし条文はいわば固有名詞で「たいそうのれい」と読めない三浦瑠麗は基本的な教養に欠け、政治学者として恥ずかしいの一言につきる。気になるのは彼女の主張は「天皇陛下の国葬は行われるのに、安倍元総理の国葬はいけないというのはおかしい」という点である。つまり安倍晋三の「国葬」と天皇の「大喪の礼」との比較は、安倍晋三の「国葬」で彼を天皇と並ぶ権威化したいという意図が見え隠れしたことである。ところでテレビの情報バラエティー番組が時事問題を「娯楽として」取り上げているが、酷いコメンテータが多い。床屋の政治談議と喝破すれば、目くじらを立てるまでもないかもしれないが。

YouTube  三浦瑠麗 | 天皇陛下と同じように安倍元総理は国葬すべきである | ワイドナショー | フジテレビ