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John Gabriel Stedman |
ヨーロッパに飛び火した Black Lives Matter 抗議運動によって、次々に奴隷商人の像が撤去されている。黒人奴隷といえば米国南部の農園を連想しがちだが、南米や西インド諸島も奴隷貿易の輸出先だった。18世紀後半、南米北東部のスリナムでマルーン人奴隷の反乱が起こり、スイス人のルイ・アンリ・フルグード大佐(1708-1779)が率いる800人の傭兵が送られた。マルーンは栗色を意味するが、西インド諸島や南北アメリカの逃亡奴隷のことである。オランダ生まれのスコットランド旅団兵士、ジョン・ガブリエル・ステッドマン(1744-1797)は、1772年12月24日に故国を去り、志願兵としてこの部隊に加わった。1773年から1777年の間、様々な作戦に参加した。ステッドマンはスコットランド旅団の将校とオランダ人の母親の息子として、現在のベルギーのデンデルモンデに生まれた。11歳の時、教育のためにイギリスの叔父のもとに送られるが、ルソー信奉者の叔父の厳しい教育に耐えられず、12歳の時にはオランダに戻った。スリナムに兵士として渡ったのは、飲酒癖と借金から逃れるためだったという。克明な日記をつけ、これは後に『スリナムの反乱奴隷に対する5年間の冒険の物語』と題した書籍として成就する。
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Stedman's wife Joanna |
植物相、動物相、および、先住民族の自由、奴隷のアフリカ人の社会的習慣、そしてヨーロッパ人の植民地支配に細心の注意を払いながら記述しているようだ。スリナムでのステッドマンの生活で特筆すべきは、やはり奴隷のジョアンナを娶ったことだろう。ふたりの間にはジョニーという息子がいた。息子は最終的には奴隷から解放されたが、ジョアンナは解放されなかった。1777年6月にステッドマンはオランダに戻ったが、ジョアンナと息子はスリナムに留まったのである。若きジョアンナとの関係は、ステッドマンにとって植民地での性的搾取の一形態とも考えられるが、その感情は不明である。本の至る所で表現された、苦しむ奴隷に対する彼の同情は、制度としての奴隷制についての見解は難読化されているようだ。同情しながらも、奴隷制度廃止論者ではなかった。挿画をウィリアム・ブレーク(1757–1827)が1796年に描き『スリナムの反乱黒人に対する5年間の遠征の物語』は紆余曲折を経て出版された。文学的にも大きな成功を収め、フランス語、ドイツ語、オランダ語、イタリア語、スウェーデン語に翻訳された。奴隷貿易についての洞察力が高く評価され、廃止論者に援用された。しかし逆にれは熱帯地方における反ゲリラ戦闘のハンドブックにもなったようだ。1978年に自筆の文書がミネソタ大学で発見され、1988年にオリジナルの原稿が出版された。
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