国宝観音菩薩立像(百済観音)飛鳥時代・7世紀・飛鳥園撮影
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平凡社(1969年) |
古寺を巡るのが好きだ。特に大和路の仏像に惹かれ、名が通った寺院はおおむね参詣したと思う。斑鳩の法隆寺は何度か訪ねたが、なぜかこの20年以上ご無沙汰だ。考古学者浜田青陵(1881–1938)は、大正の末に同寺に伝わる観音像について『百済観音』に次のように記述している。「私が百済観音の像をはじめて見たのは、いまから二十余年前、まだその頃は法隆寺の金堂の土壇の片隅に置かれてあった時であった。そのヒョロ長い反り曲った像が高く玉虫厨子の上に突き出ていた姿は、よほど風変りであったので、私もこれを見落とすことができなかったが、私にはただプロポーションの悪い古拙な彫刻として印象を残しただけであった。しかるにその後年を経て奈良博物館の中で、この像の前に佇んで眺め入る度を重ねるにしたがって、ついにこのエウロジーめいた一篇をものにするにいたったことは、私一個として自分の鑑賞がいかに甚だしい変化をしたかに自分ながら驚くのである」。つまり元々は金堂にあったが優遇されていたわけではない。博物館のガラスケースの中で他の像と肩をつきあわさんばかり群居しているのは気の毒で、せめて小じんまりした部屋にただ一体、適当なバックの前に立たしたいと書いている。私が訪ねたときは百済観音は鉄筋コンクリートの宝蔵殿の中に安置されていた。この時の印象を私は寺院参詣日記『遊行記』に次のように書き残している。「ヒョロ長い観音像に再会しなければならない。大講堂を出ると雨はいよいよ本降りになっていた。回廊沿いに歩き、表に出ると東室の南妻を改造した聖霊院があった。ちょっと立ち寄ってみようと思ったが、心は百済観音に飛んでいる。東に進むと築地塀に囲まれた鉄筋コンクリートの宝蔵殿の入り口があり、その中に入った。おびただしい数の宝物群である。橘夫人の念持仏と言い伝えのある阿弥陀三尊像、悪夢を吉夢に転嫁させてくれるという夢違観音立像。ひとつひとつ丹念に鑑賞していたら時間がいくらあっても足りない。私は駆け足でこれらをやり過ごして、北倉東端に立つ百済観音の前に出た。八頭身の像がガラスケースの中に立っている。
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水瓶を下げるしなやかな百済観音の手 |
余りにも痩身である。かつてミスコンテストが流行ったとき八頭身という言葉がもてはやされた。しかしどうだろう、私にとってそれは頭が小さ過ぎるような気がする。美の判断というのは難しい。その姿は厨子から出されて撮影された法隆寺夢殿の救世観音像と非常によく似ている。もしかしたら同じ仏師による彫刻かも知れない。ガラスケースに入っているので、その側面も子細に観察することができる。多くの仏像は正面から拝するようになっている。特に厨子に入っているとその側面はよくわからない。水瓶を下げた左手の曲線は実に微妙にできている。いや、そればかりではない。扁平ともいえる身体全体のカーブが横から見ると実に不思議な雰囲気を醸し出しているのだ」(1995年4月15日)。確かに小じんまりした部屋だったが、その長身が窮屈そうだったのを覚えている。この像は明治44(1911)年に金堂を出て奈良帝室博物館へ移された。和辻哲郎が『古寺巡禮』(岩波書店1919年)の中で「百済観音」と紹介、これによって多くの人々の関心を呼ぶようになったようだ。昭和16(1941)年に宝蔵殿が完成すると再び法隆寺に戻った。しかし浜田青陵の嘆きが届いたのだろうか、百済観音堂の建設計画があり、浄財の寄進をこの時募っていたことを思い出す。法隆寺のサイトによると、平成10(1998)年秋に完成、ようやく安住の地を得たようだ。百済観音の前に立つと、人は寡黙になるか、あるいは饒舌になるかのどちらかだと思う。井上政次(1902-1969)は『大和古寺』(日本評論社1941年)の中で「この像は16~17歳の処女の写実であり、開花を永遠の明日に待つ蕾」だと書いた。「その蕾の、内にをさめた活力は、すんなり下げた左手が、しかしだらけてゐない所にも見える。持たれた水瓶は處女の自らなる力を受けて尻を背ろにピンと跳ね上げてゐる。右の手は二の腕を素直に脇につけたのを直角にまげて前に突き出して乙女心の一筋なるを示しながら、柔らかに開いた掌は、裳下の素足と呼應して、蓮の蕾の彈力を想はせる」云々。仏像に対するこのような饒舌は和辻哲郎が元祖であろう。そもそもこの像を最初に書き記したのは他ならぬ和辻だ。彼もまた奈良博物館推古天平室でこの像に接している。「あの圓い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人體の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人體に底知れぬ美しさを見出した驚きの心の所産である」(『古寺巡禮』)。法隆寺に建設された百済観音堂はいかなるものであろうか。
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フェノロサ(1890年) |
写真を見ると外観はあの無粋な宝蔵殿よりかなりマシである。では内部はどのようになっているのだろうか。今日、文化財を抱えた多くの寺院が宝物館を建てている。火災に対する防護策が主眼であると思われるが、その多くが博物館と趣が同じと言って差し支えないだろう。明治時代、神仏分離令から派生した廃仏毀釈によって多くの仏教文化財が危機に瀕した。少なからぬ数の仏像や伽藍が破壊されたが、時間の流れの中で次第に納まっていった。その過程において、功労者として挙げることができるのが、米国の東洋美術史家アーネスト・フェノロサ(1853–1908)であった。フェノロサは仏教寺院に残された古美術を高く評価、その保護に貢献した。秘仏だった夢殿救世観音像の厨子を開けたフェノロサについて、和辻は次のように記述している。「彼は一八八四年の夏、政府の嘱託を受けて古美術を研究するためにこゝに來た。さうして法隆寺の僧に厨子を開くことを交渉した。が寺僧は、さういう冒涜を敢てすれば佛罰立ちどころに至って大地震ひ寺塔崩壊するだらうと云って、なかなかきなかった」(『古寺巡禮』)。フェノロサは信仰の対象としてではなく、芸術作品として仏像を見ていた。だから数世紀の時空を超えて、秘められた扉を開けることができたのである。そして彼は明治政府に「国宝」の制定を進言した。その指定第1号が京都太秦にある広隆寺の弥勒菩薩である。この像が霊宝殿という名の鉄筋コンクリーの博物館に安置されていることは、偶然ではないかもしれない。廃仏毀釈という狂気染みた暴力から多くの仏像が救われたが、それは国家の宝という新しいスタンスに拠ることが大きいのである。それゆえに、百済観音は長い間博物館に置かれていたといえるだろう。奈良国立博物館で「国宝法隆寺金堂展」が2008年に開催された。広目天、多聞天、増長天、持国天の四天王像四体が初めて寺外に勢揃いし、像を360°から拝観することができだ。仏像はガラスケースの中ではなく、仏教寺院の伽藍の中にあってこそ正しい姿だと私も思う。しかし仔細に観察するには博物館のほうが都合がよい。3月13日〜5月10日、東京国立博物館で特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」が開催される。
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