永島春暁『川上の新作 當世穴さがし おっぺけぺー歌』1891年(クリックすると画像拡大)
川上音二郎の名は知らなくとも、明治時代に一世風靡した「オッペケペー節」という歌のタイトルを目にしたことがある人が、少なからずいると思う。自由民権運動高揚期に、川上は自らを自由童子と名乗り、自由党壮士として、政府攻撃の演説を行った。1880(明治13)年に、政府は警察の許可無く自由民権運動の集会や、団体の結成を禁止するばかりか、警察が集会を解散させる権限を有する集会条例を制定して、弾圧に乗り出した。そこで大阪の落語家・桂文之助の弟子となり、時局風刺の「おっぺけぺー歌」を作詞、ザンギリ頭に鉢巻、筒袖に陣羽織といった出で立ちで、日の丸の扇子片手に寄席で歌って人気を博した。
権利幸福きらひな人に自由湯をば飲したい添田知道著『演歌の明治大正史』(岩波新書)によると、ヤッツケロ節と同巧の、節あってなき朗読調を、いかめしく、生真面目な顔でやることで、おかしみ増すものだったという。川上は寄席で、壮士たちは街頭でこれをやったのである。演歌というと艶歌を連想するが、本来「演説の歌」という意味である。集会条例で街頭演説が禁止されても、歌なら構わないだろうという発想だった。これは讃美歌の旋律を借り、街頭で労働組合運動を展開、フォークソングの礎を築いたジョー・ヒルと酷似している。演歌は民権運動の思想を普及する意図で現れたが、明治から大正にかけて活躍した演歌師としては、添田啞蟬坊が傑出している。「あきらめ節」「虱の旅」などは今日でも通用する内容を持っている。その啞蟬坊の歌を昭和に蘇らせた、高田渡の功績も特筆すべきだろう。それはともかく権利幸福嫌いなファシスト、安倍晋三に自由湯(じゆうとう)を飲ませたい。
オッペケペ オッペケペッポ-ペッポーポー
堅い上下角とれてマンテルヅボンに人力志や
いきな束髪ボンネット貴女に紳士のいでたちで
外部の飾りりはよいけれど政治の思想が欠乏だ
天地の真理が解らない心に自由の種をまけ
オッペケペ オッペケペッポーポー
米価騰貴の今日に細民困窮省らす
目深に被ふた高帽子金の指輪に金時計
権門貴顕に膝を曲げ藝者たいこに金を蒔き
内には米を倉に積み同胞兄弟見殺しか
幾等慈悲なき慾心も餘り非道な薄情な
但し冥土の御土産か地獄でゑんまに面會し
わいろ遣ふて極楽へ行けるかえゆけないよ
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
川上音二郎一座パリ万博公演「オッペケペー節」明治33年(1900)英グラモフォン録音