2019年7月30日

琵琶湖周航竹生島宝巌寺参詣記

竹生島(滋賀県長浜市早崎町)

六地蔵詣りで知られる京都市右京区の源光寺に、舟形光背の風変わりな石仏がある。軟砂岩製で、中央に那智山と記した六臂の如意輪観音像、その上に三体の観音像が配してある。西国三十三観音霊場のうち、和歌山県の青岸渡寺、兵庫県の中山寺、琵琶湖竹生島の宝巌寺、岐阜県の華厳寺の本尊を選んで彫ってある。制作年代は江戸時代中期のものらしいが、当時の札所信仰を伝えている。宝巌寺がその四ヶ寺のひとつになっていることが興味深い。青岸渡寺も京都からかなり遠いが、宝巌寺も決して交通が便利という場所とはいえない。遊覧船を降りて急こう配の石段を登ると、途中、石仏を祀った祠があったが、見るととそれは如意輪観音像だった。宝巌寺の本尊は弁才天像である。同寺ウェブサイトよると、聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよとお告げがあり、724(神亀元)年聖武天皇が建立したという。観音堂は翌年に作られ、千手観音像を安置したそうである。だから西国三十三観音霊場のうちの第三十番札所になったわけで、すると途中の石仏に矛盾を感ずるが、些細なことかもしれない。

宝巌寺本堂内陣のミニダルマ
本堂に入って目にとまったのは、本尊の弁財天ではなく、おびただしい数のミニダルマだった。病気平癒および家内安全などを祈願して奉納したものだが、その数の多さに驚く。観音堂から隣の都久夫須麻神社(竹生島神社)へは屋根つきの渡廊で結ばれているが、これは重要文化財だそうである。琵琶湖に面した拝殿の突き出た所に龍神拝所がある。ここから参詣者たちは願い事を書いた土器(かわらけ)を湖に向かって投げるのである。創建時、神仏習合で寺と神社は一体化していた。1868(明治元)年に発布された神仏分離令により、廃寺とし神社に改めよという命令が下りた。そこで本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなったそうである。その後宝巌寺は本堂のないままに仮安置の大弁才天だったが、1941(昭和17)年に現在の本堂が再建されたという。寺から神社の本殿になった建物は、豊臣秀吉が寄進、伏見桃山城の束力使殿を移転したもので、現在は国宝となっている。竹生島を辞して再び遊覧船に乗り、長浜港に向かうと、水上バイクが追ってきた。航跡の波頭を利用してジャンプを楽しむためだ。

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