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| Carlo Bagnoli |
カルロ・バヴァニョーリは、主に国際的なフォトジャーナリズムに焦点を当てた写真家だった。アメリカのグラフ誌『ライフ』(1963年-1972年)のチームの常任メンバーであった、唯一のアメリカ人以外の写真家だった。1932年5月5日、イタリアのピアチェンツァに生まれた。1951年にピアチェンツァで学業を終えた後、弁護士を目指してミラノの法学部に入学した。この頃、ミラノのスカラ座で伝説的な『ライフ』誌の写真家、デビッド・ダグラス・ダンカンと出会った。ダンカンはバヴァニョーリに写真の技術を説明し、バヴァニョーリは「新しい表現手段、世界を見るための新しい手段」に魅了された。当時芸術家や知識人の集いの場であった「ミラノのボヘミアン」のバー、ブレラ通りのジャマイカによく通い、ウーゴ・ムラス、アルファ・カスタルディ、マリオ・ドンデロといった、いずれも20歳で初めて写真家としての道を歩み始めた若者たちと出会い、交流を深めた。こうした出会いが彼の写真への決意と興味に影響を与え、1955年にはミラノに永住することになり、友人であるムラスとドンデロ、そしてルチアーノ・ビアンチャルディと共にソルフェリーノ通りの部屋をシェアするようになった。作家のピノ・コリアスはその時代の目撃者として、著書の中でバヴァニョーリ、ムラス、ドンデロといった「3人の不可分な人物」のグループの希望と目標について語っている。
彼らは厳しい見習い期間や「非常に疲れる生活」にもかかわらず60年代初頭にはすでに確立された写真家であった。そして、バヴァニョーリ(当時ビアンチャルディによる皮肉と示唆に富んだ記事で「カルローネ」「フォトジャーナリスト」と呼ばれた人物の白昼夢の物語を語っているのもまた、その目撃者である。彼は『ライフ』誌に執着」しており、ミラノの新聞社である『コリエレ・デッラ・セラ』『レウロペオ』『エポカ』などに写真を提供する報道写真代理店「インターピックス」でデビューした。フリーランスとしてさまざまな新聞に写真が掲載され続けたおかげで、当時すでに有名になっていたバヴァニョーリは、1956年に週刊誌『エポカ』に採用された。
この雑誌は、出版者アルベルト・モンダドーリが創刊し、当時エンツォ・ビアージが編集長を務めていた、テキストよりも写真が圧倒的に多い雑誌だった。この雑誌は、ピアチェンツァ出身の写真家が『エポカ』のスタッフの一人である写真家マリオ・デ・ビアージに採用されたのと同じ年に、1956年のハンガリー革命に関する的確な報道記事などのおかげで、当時としては異例の成功と発行部数を達成した。その採用はバヴァニョーリのキャリアの出発点となり、ローマの編集スタッフに配属された彼は、トラステヴェレに関する長期にわたる記録作業を開始し、そのおかげでアメリカの雑誌『ライフ』誌との最初の接触を得て、彼の写真の一部を掲載した。
第二バチカン公会議の開会、その後の教皇ヨハネ23世の死去、そして教皇パウロ6世の選出に関する出来事を撮影するよう依頼したのは、やはりアメリカの雑誌『ライフ』だった。1964年に 『ライフ』誌はバヴァニョーリを雇い、彼はニューヨークの中央編集局での最初の仕事でアメリカに移住し、こうして権威あるフォトジャーナリズム雑誌と直接契約を結び「スタッフの一員」となった最初で唯一のアメリカ人以外の写真家となった。ニューヨークでの任務に続いて、パリにある『ライフ』誌のヨーロッパ本社に赴任したが、その時期を同誌の効率的な組織力に驚かされた時期として語っているのはバヴァニョーリ自身である。
その組織力のおかげで、最も重要な記事のために非常に短い時間で「出向く」ことができたのだ。費用は惜しまなかった。チャーチルの葬儀のことを考えてみてほしい。時間通りに締め切るために、彼は巨大なボーイング機をレンタルし、完全に飛行新聞に改造した。編集者は記事を書き、ロールフィルムは飛行中に現像され、グラフィックデザイナーはページをレイアウトした。印刷工場のあるシカゴに到着すると、締め切りに間に合うように準備されていた。週刊誌としての『ライフ』誌の廃刊後、バヴァニョーリは数冊の写真集の出版、作品展の開催、テレビドキュメンタリーの制作に専念した。写真アーカイブ全体は現在、ブッセートのカリパルマ財団の歴史図書館に保存されている。カルロ・バヴァニョーリはヴィテルボで死去、91歳だった。
LIFE Magazine's visual record of 20th century by exploring the most iconic photographs





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