2024年5月12日

自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー

Fishermen SriLanka
Fishermen at Weligama, South Coast of Sri Lanka, 1995
Steve McCurry

ティーヴ・マッカリーは1950年2月24日、ペンシルヴァニア州ニュートンスクエアの小さな町で生まれた。デラウェア郡のマープルニュータウン高校に通い、その後ペンシルヴァニア州立大学に進学し。映画撮影を専攻し、1974年に優秀な成績で卒業した。大学在学中に写真に興味を持ち、卒業後はペンシルバニア州キング・オブ・プルシアの "Today's Post"(今日のポスト)紙で2年間働く。彼は若い頃からインドを中心に広く旅行していた。写真家として世界中を飛び回り、その写真技術で数々の賞を獲得したのも不思議ではない。1980年、初めてアフガニスタンを訪れたあと、彼は初めて海外からの写真報道に与えられるロバートキャパ賞を授与された。パキスタンとアフガニスタンの間で戦争が続いており、過酷な環境のため、マッカリーは国境地帯に入るために現地の服装に変装しなければならなかった。国境を越えてフィルムを持ち帰るには、フィルムストリップを衣服の内側に縫い付けなければならなかった。危険と命がけの状況に直面するのはこれが最後ではなかった。海外で経験した最も恐ろしい瞬間は、ユーゴスラビアで飛行機が墜落したときだった。軽飛行機で航空写真を撮っていたとき、パイロットが機体の制御を失ってしまう。

Bicycles on Side of Train, India
Bicycles on Side of Train, India, 1983

飛行機は湖に墜落し、マッカリーはシートベルトを外して沈みゆく飛行機から脱出しようと奮闘した。最終的に彼は浮上して泳ぎ、ボートで救助されなんとか岸にたどり着いた。しかしマッカリーが遭遇したこれらの危険な状況は、彼が愛する仕事から遠ざかるものではなかったのである。マッカリーが撮影した写真の中でお気に入りの1枚は "Dust Storm, India"(インドの砂嵐)とタイトルされたの作品である。1983年にインドのラジャスタンで撮影された、木の後ろに身を寄せて雨宿りする女性たちの写真は、マッカリー自身の言葉を借りれば、まさに「魔法のよう」であった。機材が壊れるのではないかと心配していたにもかかわらず、彼は「それが自分の目的だった」ので、とにかく嵐の中に出かけた。

Merchants Paddle Boats
Merchants Paddle Boats, Kashmir, 1998

彼の写真スタイルは、人々が自分らしくいるときの、人間の生活のありのままの瞬間を捉えるのである。マッカリーは、被写体と一緒に待ち、冗談を言って雰囲気を和らげるのが好きだと言いう。最終的には、彼らはカメラがあることさえ忘れ、彼らの本質が輝き出すと彼は言う。おそらくマッカリーの最も有名な写真のひとつつである「アフガンの少女」は、彼が論じている本質を捉えている。1984年に撮影されたこの写真は、パキスタンの難民キャンプに逃げてきたアフガンの少女を撮影したものである。撮影当時、彼女はわずか13歳で、その顔は世界中で知られるようになったが、身元は不明だった。「私は、この素晴らしい目をしたひとりの小さな女の子に気づきました。そして、これが私が本当に撮りたい唯一の写真だとすぐにわかりました」と彼は語っている。

Afghan Girl
Afghan Girl, Peshawar, Pakistan, 1984

ナショナルジオグラフィック協会の機関誌に掲載されたこの写真でマッカリーは数々の賞を受賞し、ナショナルジオグラフィックはこれを最も有名な写真としたのである。初めて彼女の顔をフィルムに収めてから18年後の2002年、マッカリーは再びアフガニスタンに戻り、この無名の少女を見つけて写真を撮影した。疲れ果てていたが、旅は成功し、彼女の写真は2002年4月にナショナルジオグラフィックの表紙に再び掲載されたのである。現在、マッカリーが写真撮影のために海外へ行くお気に入りの場所はアジアだが、米国西部、特にグランドキャニオン地域は「世界で最も素晴らしい場所のひとつ」だと考えている。彼はほとんどの時間を旅行に費やしており、残りの人生もそうするつもりである。

Bird Seller, Afghanistan, 2002

2016年、マッカリーはフォトショップやその他の手段で広範囲に画像を加工し、個人やその他の要素を削除したとして非難された。しかしデジタル写真とカメラに特化したウェブサイト PetaPixel とのインタビューでは、あえて強い否定はせずに、現在は自分の作品を「視覚的な物語」であり「芸術」であると定義していることを示した。マッカリーは、自身のコレクションを書籍の形で数多く出版している。また、彼の作品はアメリカ全土および海外で展示されている。2021年、ドゥニ・デレストラク監督作品『マッカリー:色彩の追求』と題されたドキュメンタリー伝記映画が制作され、ニューヨーク・ドキュメンタリー映画祭、マラガ映画祭(スペイン)、グラスゴー映画祭(スコットランド)などに正式出品された。スペインでの公開は2022年6月。現在ペンシルヴァニア州とニューヨーク州にオフィスを構えているが、ほとんどの時間をニューヨークで過ごしているという。

Boy Stands by a Window
Boy Stands by a Window, Ethiopia, 2012

1985年6月、12歳のアフガニスタン難民としてナショナルジオグラフィックの表紙を飾り、世界中で「アフガンの少女」として広く知られているシャルバト・グラさんは偽造パキスタン身分証明書を使用したとして逮捕された。しかしその後、政府から3,000平方フィートの邸宅を贈られ、生活費と医療費として月約700ドルの給付金も支給されるようになった。下記リンク先の記事はナショナルジオグラフィックの元編集者、ニーナ・ストロチュリックによるその詳報リポートである。

National Geographic Famed 'Afghan Girl' Finally Gets a Home by Nina Strochlic | National Geographic Magazine

2024年5月10日

直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン

Coney Island, New York City
Coney Island, New York City, 1980
Leon Levinstein

レオン・レヴィンシュタインは、1950年代から1980年代にかけてニューヨークの日常生活を記録した、アメリカの古典的なストリート写真の巨匠である。タイムズスクエア、ローワーイーストサイドからコニーアイランドまで、ニューヨークで撮影された率直で感傷的でないモノクロの人物写真で最もよく知られている。1910年9月20日、ウェストバージニア州バックハノンで、ロシア系ユダヤ人の両親のもとに生まれた。1923年9月、公立大学の予備校であったリーランド州のボルチモア・シティ・カレッジに入学した。高校卒業後の1927年秋、ボルチモアのメリーランド・インスティテュート・オブ・アーツの夜間クラスに通う。グッゲンハイム研究奨学金の申請書は、ピッツバーグ美術大学でコースを受講していることに触れている。広告業界での最初の仕事は、ボルチモアのダウンタウンにあるヘクト家具会社だった。1934年から1937年まで、そこでアシスタント・アート・ディレクターとして新聞広告のレイアウトを担当した。その後、フリーランスのグラフィック・アーティスト、デザイナーとして独立。レイアウトは、彼の広告業界でのキャリアを通じて得意とするところだった。1948年秋、彼は同校のディレクターであり、最も影響力のある教師のひとりであるシド・グロスマンの上級ワークショップを受講した。

Bear Mountain Park
Bear Mountain Park, New York State, 1950

散歩好きで一匹狼のレヴィンシュタインがニューヨークの通りやコニーアイランドの浜辺を歩き回るのは当然のことだった。1951年の "U.S. Camera Annual"(米国カメラ年鑑)に1点、翌年には2点が選ばれる。1956年にはリチャード・アヴェドン、ウィン・ブロック、G・E・キダー・スミスミス(建築写真家)、ユージン・スミス、ブレット・ウェストンら6人の写真家とともに、作品がこの年鑑に掲載された。1952年には、写真雑誌『ポピュラー・フォトグラフィー』誌の国際写真コンテストで優勝し、賞金2,000ドルを獲得した。1955年、レヴィンシュタインの作品が同誌の夏のグループ展に出品された。

New Years Eve
New Years Eve, New York City, 1955

同年、ニューヨーク近代美術館のエドワード・スタイケンが、彼の写真2点を世界巡回展 "The Family of Man"(人間家族)に選んだ。 同展は900万人が訪れ、カタログは現在も印刷されている。この2点のキャンディッド写真は、至近距離で撮影されたもので、腰を据えて撮影するのが彼の常套手段だった。ひとつはタクシーを待つ裕福なカップルの地面の高さからの風景で、彼女はボリュームのある毛皮を身にまとい、彼はダブルブレストのスーツに帽子をかぶっている。もうひとつはローワーイーストサイドで撮影を楽しんでいた恵まれない人々への共感で、アフリカ系アメリカ人の女性が、日陰の絨毯に寝転がりながら赤ん坊を愛撫している。

Coney Island 1956
Coney Island, New York City, 1956

もうひとりの支援者は、写真の展示と販売だけに専念した最初のニューヨークのギャラリー「ライムライト」の創設者であるヘレン・ジーだった。 自伝の中で、ジーは第13章の最初の部分をレヴィンシュタインに割いており、1956年の最初の展覧会は、同ギャラリーでの彼の唯一の個展であった。ジーと同様、レヴィンシュタインもシド・グロスマンのもとで、最初はフォト・リーグで、その後はグロスマンの個人ワークショップで写真を学んだ。カルチャー紙『ヴィレッジ・ヴォイス』のエドガー・ライトによる好意的な批評もあった。1980年、ジーは彼の作品を「50年代の写真」展に出品した。

Singig 1976
Singing, New York City, 1976

翌年、彼女は美術商ハリー・ルンに相当数のプリントを売却する手配に尽力した。1970年代後半から1980年代にかけて、レヴィンシュタインは撮影のために海外を旅し、アメリカに戻ってはボルチモアのアパートに滞在していた。ルンはレヴィンシュタインの写真作品を大量に購入し、1978年にニューヨーク近代美術館で開催された写真展 "New Standpoints"(新たな視点)を皮切りに、作品は戦後ドキュメンタリー写真の重要な展覧会に出品されるようになった。1988年、ニューヨークで死去、まだあまり知られていないが、20世紀後半の写真界を代表する人物として徐々に認知されるようになっている。

ICP  Leon Levinstein (1910–1988) American | Biography | Archived Items | ICP New York City

2024年5月8日

社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー

Two Faces
Two Faces, 5th Ave, NYC, 1989
Richard Sandler

リチャード・サンドラーは、都会の日常生活をモノクロームで描いた作品が高い評価を受けている。1946年、ニューヨークのクイーンズ区フォレストヒルズ地区で生まれた。1977年から2001年まで、サンドラーは定期的にニューヨークとボストンのストリートを歩き、ストリートが提供するあらゆるものを写真に収めてきた。初期のキャリアは、やや折衷的なものだったようだ。1968年にボストンに移り、鍼灸師として働きながらマクロビオティックを学び「極めて健康的で、生命力にあふれ、季節感のある、伝統的な日本スタイルのレストラン料理」を作ることを習得した。1955年、母親とニューヨークの近代美術館を訪れた際、クロード・モネの『睡蓮』を見て「ジャックナイフで目を大きく見開いた」と彼は言ったという。1960年、フレンチレストランで偉大なるサルバドール・ダリとの思いがけない出会いによって、彼はシュルレアリスムに興味を持ち始めた。しかし1977年に友人であるメアリー・マクレランドからカメラを贈られ、当時住んでいた家(メアリーは有名な心理学者のデヴィッドと同居していた)で彼の写真の旅が始まった。メアリーはまた、サンドラーに地下の暗室で写真をプリントする方法を教えた。ストリートで「社会の鼓動」を捉えたいという熱い思いに駆られる。

CC Train
CC Train, NYC, 1982

そして 著名なストリート写真家ゲイリー・ウィノグランドのワークショップを4日間受講した。リチャード・サンドラーはこのワークショップで写真撮影に必要なすべてを学んだと語っている。ボストンの街頭で情熱的かつ多作な写真を撮り始めた、フォトジャーナリストとして仕事を見つけ、本格的に写真家としてのキャリアをスタートさせた。その後数十年にわたり、サンドラーはライカを片手にニューヨークの街を駆け巡り、最も有名な先人たちのような鋭い洞察力、技術、ヒューマニズムをもって、彼の仲間である人々を撮影してきた。

Greenwich Village
Greenwich Village, NYC, 1984

詩的であると同時に率直な彼のモノクロームの写真は、1980年代の都市の衰退、その後の数十年間における高級化と階級格差の拡大など、刻々と変化するニューヨークの姿をニュアンス豊かに描き出している。サンドラーは1992年までに、彼自身の言葉を借りれば「最高のスチル写真を撮った」と自覚し、友人の影響もあって8ミリビデオの実験を始めた。1999年、彼は最初の映画『タイムズ・スクエアの神々』の脚本と監督を手がけ、その後十年間に数多くの作品を作ることになる。

Hand on Subway Car Window
Hand on Subway Car Window, NYC, 1984

この間、彼は写真を撮り続けたが、以前ほどの情熱と多作はなく、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件の後は「スチル写真を後回しにする」ことを決め「音と動きがあの恐ろしい時代を理解する唯一の方法」だと主張した。ニューヨーク州の田舎町、ハドソン渓谷に移り住み、現在は都会には住んでいない。現在、彼は主にモノクロの静止画フィルム、スーパー8、16ミリと35ミリの映画フィルム(カラーとモノクロの両方)で風景を撮影している。しかし彼が写真の旅に出るきっかけとなった深い情熱は、いまだに続いている。

Grand Central Terminal
Grand Central Terminal, NYC, 1990

稀にこの街に戻ったとき、彼は今でも「ストリートでワイルドに撮影」し、数十年前と同じ芸術性で街の魂を捉えている。写真集 『都市の眼』(2016年)には、1977年から2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の数週間前までの、ニューヨークとボストンで撮影された写真が収められている。2023年2月11日から3月26日まで、ニューヨークのブロンクス・ドキュメンタリー・センターで回顧展を開催した。

The Guardian  Richard Sandler (born 1946) | Street photography "The Eyes of the City" | The Guardian

2024年5月5日

追想:沖縄からケンタッキーへの時空旅行

フクギ(沖縄県国頭郡本部町備瀬)1975年

ジミー・カーターが大統領に選ばれた1967年秋、アメリカの東南部を旅した。ワシントンDCを起点にした私はグレイハウンドバスを乗り継ぎ、ケンタッキー州ルイビル郊外に住むジム・ウィリアムスを訪ねた。父親は一階の客間に寝泊まりするよう勧めてくれたが、ベッドがある地下室にもぐり込んだ。ペンキ職人の父親は寡黙だったが、母親は陽気で饒舌だった。土曜の晩になると、フリルが着いたドレスを着てフォークダンスパーティに出かけた。ジムは失職中でいわば居候だったが、修道僧が瞑想にふける人里離れた修道院など、観光では見落としてしまいそうな珍しい場所を車で案内してくれた。女子大生の友だちを紹介してくれたのが印象に残っている。

Greyhound Bus 1976
Greyhound Bus 1976

ジムとの出会いを語るには、その一年以上前に時計の針を戻す必要がある。1975年7月下旬から沖縄県国頭郡本部町で開催される予定の海洋博の特集を、今は「休刊」になってしまった雑誌『アサヒグラフ』が組むことになった。メインの写真取材班は会場のパビリオンなどを撮影、いわばガイドブックを作ることだったが、私の役割はその対極にあったと言えそうだ。とにかく自由に好きなところを歩き、思いのまま感ずるまま写真を撮って欲しいとのことだった。那覇から歩き出したのは6月下旬と手元の記録にある。Tシャツに半ズボン、そして軽登山靴にフレームザック。まさにバックパッカーそのもので、取材というより、放浪といういでたちだった。

ジムからのクリスマスカード  loupe

万が一の故障に備えザックに予備のカメラを忍ばせたが、基本的には焦点距離35ミリのレンズを付けたライカM4一台で撮ることにした。鉄道がない沖縄はタクシーに頼りがちになるが、移動はバスと徒歩だった。歩くことが仕事だった。沖縄本島北端の国頭郡国頭村奥の民宿に辿り着くと米兵の先客がいた。休暇を取ってスキューバダイビングに来たという。それがジムだった。巨体を揺すりながらポツリと話してくれたことによると、精神的ダメージを受けた兵士の看護が仕事だという。サイゴンが陥落したのは僅か2カ月余り前の4月30日だった。「戦争中はベトナムから傷病兵がたくさん沖縄に送還されてきたんでしょうね」という私の愚問に対し、ジムは無言のまま肩をすくめただけで無言のままだった。著書「内なる外国『菊と刀』再考」(時事通信社・1981年)によると、1960年に海兵隊員として沖縄に駐留した政治学者ダグラス・ラミスは、基地で働く日本女性がバレーボール大会で屈強な海兵隊員を負かしてしまうのを見て、金網塀の外に目を向けるようになったという。逆に金網の外にいる日本人の多くが、その内側を知らないと言えそうだ。ジムは多くを語ってくれなかったが、そのこと自体が戦争の影を暗示していた。彼との関係こそ私と金網塀の内側を結ぶ細い線であったことは間違いない。出会ってから35年後の2010年の暮れ、青いクリスマスカードが届いた。中央のクレア夫人とは1979年、ジムが世界一周の旅から戻った後に出会い、1983年に結婚したという。左の息子のジェイコブ君はニューヨークに住み、スタンダップ・コメディアン(即興お笑い芸人)として活躍しているそうだ。

greihound bus  Kentucky 1976 | My Travel by Greyhound Lines with Rolleiflex 2.8F Planar 80mm f2.8