2026年7月25日

宗教考現学(12)ヴァイキングの神話と信仰

ヴァイキング・ロウ
サッカーの世界選手権大会で話題になったノルウェー応援団のヴァイキング・ロウ

FIFA ワールドカップ 2026 で印象に残ったのはノルウェーの応援団だった。、数千人のサポーターが完璧に息を合わせて腰を下ろし「ロウ!(漕げ)」という轟くような叫びに合わせて、ヴァイキングがオールを漕ぐ動きをまねたのだ。わずか数週間で、この「ヴァイキング・ロウ」は北米のスタジアムを席巻し、ソーシャルメディアを覆い尽くし、そして世界じゅうのサッカーファンの心をとらえたのである。北欧のヴァイキングは非常に信心深い人々だった。彼らは、自分たちの世界は様々な神々や神秘的な生き物たちと共有されていると信じていた。ヴァイキングの神々の中で最もよく知られているのは、オーディン、トール、フレイヤである。英語では曜日の名前が彼らにちなんで付けられているため、私たちは彼らをよく覚えている。

  • ウォーデンの日(Woden's Day)⇒水曜日(Wednesday)
  • トールの日(Thor's Day)⇒木曜日(Thursday)
  • フレイヤの日(Freya's Day)⇒金曜日(Friday)
女神フレイヤ
ヴァイキング神話において最も著名で強力な女神の一人フレイヤ

ヴァイキングにとって、最高の結末は戦場で勇敢に死ぬことだった。彼らは、運が良ければ、ヴァルキリーと呼ばれる翼を持つ女性の精霊が舞い降りてきて、死にゆく戦士たちの魂を集め、オーディンが住むヴァルハラへと連れて行ってくれると信じていた。ヴァルハラは、ヴァイキングにとっての天国だった。そこにたどり着いた戦士たちは、オーディンの大広間に住み、永遠にビールを飲み、ロースト肉を食べ、楽しい時間を過ごすことになっていた。亡くなったヴァイキングが行ける場所は他にもあった。

オーディン
アスガルドの最高統治者であり神々と人間の父であるオーディン

女神フレイヤは死者の一部を引き取った。彼らはフレイヤと共にフォルクヴァングと呼ばれる美しい野原へ行き、ヴァルハラのように、宴や楽しい時間を過ごすことができた。死者が行き着く場所は他にもあった――地獄だ。しかし、それは現代の地獄のように悪魔や炎に満ちた恐ろしい場所ではなかった。実際、それはかなり素敵な地下王国だったのだ。死は人の人生の完全な終わりとは考えられていなかったため、ヴァイキングは死者が来世に行けるよう、あらゆる手段を講じて準備を整えた。

セビリアの攻略
ヴァイキング艦隊はセビリア攻撃したが反撃に破れて残党は逃亡した(844年)

ヴァイキングは、剣や斧、上質な衣服、金や宝石など、ヴァイキングにとって重要なものすべてと共に埋葬された。死後の世界ではこれらが必要になると信じられていたからだ。だからこそ、今日、ヴァイキングの埋葬地は考古学者や歴史家にとって非常に重要なのである。墓にはヴァイキングがどのように暮らしていたかを私たちに教えてくれる宝物や持ち物がぎっしり詰まっている。下記リンク先はスウェーデン国立歴史博物館の「ヴァイキングの神話の世界」です。

歴史  The mythological world of the Vikings | Swedish History Museum Stockholm | Historiska

2026年7月24日

ソーシャルメディアの弊害(34)同情を目論んだ高市首相の睡眠不足自慢

髙市早苗

新聞やテレビなどのマスメディアの報道によると、高市早苗首相が自身の X(旧ツイッター)に「0~3時間睡眠が常態化」などと投稿したことを受け、自民党の小林鷹之政調会長は7月22日の記者会見で、首相に「寝てください」と進言したと明かしたという。

曰く「平日は、公邸に戻ってから、風呂掃除、入浴、夕食、夕食後の洗い物、洗濯、簡単な掃除まででプライベートな時間は精一杯で、後の深夜時間帯は明け方まで官邸から持ち帰りの資料読みや国会答弁資料読みに追われます」「今日のお休みは本当に有難く、久々に5時間も睡眠を取れた上(総理就任以来、0時間〜3時間睡眠が常態化)、昼からは、手付かずだった大量の洗濯後のハンカチやインナーのアイロンかけと、お裁縫(スカートの裾のほつれのまつり縫いやジャケットの緩んだボタンの補強)を一気に処理」「私は特にアイロンかけが下手で時間がかかるので、つい先延ばしにしていた結果、スーツに合わせるインナーが殆ど無い状況に。 これで会期末までのハンカチとインナーを確保でき、明日から又、頑張れます!」云々。
SNS
Social Media

誰が読んでも「何かがおかしい」と思える内容だった。単なる寝不足ではなく、精神的に行き詰まっているように思えた。しかし同情、あるいは「頑張ってる」と感動した人も多いかもしれないのである。髙市早苗が持つ信じがたいその支持率は、いわば烏合の衆に迎合しているからだろう。寝る暇がないということは、自分で一切合切を抱え込み、他人に任せてないということに過ぎない。ところで発言権を持たない疎外された人々にとって平等をもたらす力として認識されているソーシャルネットワークは、変革の担い手とての重要性を無視することはできない。しかし一部の社会では、ソーシャルネットワークはフェイクニュースやプロパガンダのプラットフォームへと変貌し、破壊的な声、イデオロギー、メッセージを助長している。ポピュリズムなどのイデオロギー的または政治的運動に対するソーシャルメディアの重要な貢献は、ユーザーの行動に影響を与えることができるという点にあると言える。行動に影響を与えようとする試みは、情報効果だけでなく、メッセージが受信者に及ぼす影響にも焦点を当てる必要がある。さらに、メッセージがソーシャルネットワークを通じて人から人へと伝わるにつれて、メッセージが引き起こす様々な行動の可能性を高める必要もあります。この多様性は、オフラインとオンラインの両方に存在する強い結びつきのネットワークを通じてメッセージが拡散するオンライン動員に基づいているのである。下記リンク先はオックスフォード大学の報告書「政治関係者によるソーシャルメディア操作は非常に大きな問題」です。

university  Social media manipulation by political actors an industrial scale problem - Oxford report

2026年7月23日

世界史遠望(20)緊迫:南ヴェトナムのサイゴン陥落

Vietnamese refugees
Vietnamese refugees evacuated by helicopter arrive on board the USS Midway on April 29, 1975

いわゆる「陥落」という表現はアメリカ側や反共志向の強い越僑により使われるもので、ヴェトナム共産党はこれを「サイゴン解放(ヴェトナム語:Sai Gòn Giải Phóng / 柴棍解放)」と呼び、共産主義陣営による南北ヴェトナム統一が決定的となった出来事としている。1975年になると、北ヴェトナムはホー・チ・ミン作戦を発動し、南ヴェトナムから国民が国外脱出を始めていた。アメリカ合衆国も南ヴェトナムを見捨てて支援を断った為、北ヴェトナムの勝利は決定的となった。1975年4月28日、サイゴンは南ヴェトナム解放民族戦線の指揮下に入っていた。米国のヘリコプターや軍用機、小船などがひっきりなしに脱出者を乗せて、サイゴン市内と沖合いに待機する空母や大型艦艇の間を往復していた。 大人から赤ん坊まで、多くの脱出者が列を成して自分の番を待った。 アメリカ軍の空母は脱出者を次々に受け入れ、30日早朝まで続いた。

avy personnel
Personnel push helicopter into sea in order to make room more evacuation flights on April 29, 1975

緊迫した状況の一方、サイゴンに残った人々は、米軍が残して行った段ボールや物資をかき集め、生活の糧として持ち帰るなどし、日常生活を続けていた。アメリカ軍はアメリカ大使館関係者や在越アメリカ人を脱出させるミッション・フリークエント・ウィンド作戦を発動するに当たり、軍放送が予め告知されていた天気予報のメッセージと共にビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』を陥落前日の29日から頻繁に放送し、在越アメリカ人にサイゴン脱出を呼びかけた。4月30日、北ヴェトナムの軍隊がサイゴンに到着し、11時30分に南ヴェトナム大統領官邸(現在のホーチミン市の「統一会堂」)に到着すると、北は南の大統領チャン・バン・フォンに対して辞任を要求した。フォンは北側の要求に応じて大統領を辞任し、ズオン・バン・ミンに引き継いだ。これによってミンはヴェトナム共和国の最後の大統領となった。

North Vietnamese troops
Victorious North Vietnamese troops on tanks in Saigon on April 30, 1975

これにより、長く続いたヴェトナム戦争が終結した。日本では NHK が午前11時32分に「南ヴェトナム政府全面降伏を声明」と速報表示]。午後7時30分から「サイゴン政権全面降伏」のタイトルで30分間の特別番組、ニュースセンター9時で「サイゴン降伏の日」と題したドキュメントを放送した。陥落時点で150人の韓国人が取り残されていた。脱出やボート・ピープルに混じって脱出するケースもあったが一部は取り残された。その多くは1年以内に送還された。しかし韓国人外交官3人は拘禁、さらに韓国に収監されたスパイとの交換を北朝鮮がヴェトナムに求めた事から拘禁は長期化した。スウェーデンの仲介と WHO を通じた支援の努力により1980年、勾留から5年後に釈放され金浦空港で迎えられた。下記リンク先は AP 通信社の写真アーカイブ「サイゴン陥落、1975年4月30日:ヴェトナム戦争の終結」です。

AP The Fall of Saigon, April 30, 1975: The end of the Vietnam War | AP Corporate Archives

2026年7月22日

何故アメリカはナチスドイツに原爆投下しなかったのか

Fat Man

実はこれは複雑な問題である。簡単に言えば、原爆が実戦投入可能になる前に、ナチスドイツが先に降伏したということだが、それだけではない。ドイツが敗北するのが明らかになると、原爆開発のためのマンハッタン計画を指揮したことで知られるレズリー・グローヴス将軍は、科学者たちにプロジェクトを完了させるよう働きかけるのに実に苦労した。科学者の多くはヨーロッパ人で、ヨーロッパでそれが使われるのを嫌がり、あるいは率直に言って誰かがその原動力を得ることを懸念する者も少数いた。ウラン爆弾の設計は実際には1944年12月までに完成したが、最終的な処理と組み立てに遅れがあった。現実的に考えれば、おそらく2月には完成していただろう。1945年3月下旬にドイツが崩壊し始めると、必要性がなくなったように見え、ペースはさらに鈍化した。軍は爆弾を1つ以上欲しがり、3つを推し進めていた。リトルボーイは防弾装置と考えられており、広島での使用がその試金石となった。実際には、最初の爆弾は3月に準備が完了し投下されていたかもしれないが、フランクリン・D・ルーズベルト大統領(1882-1945)が病気で、彼の許可がなければ実現できなかった。彼の死後、ハリー・S・トルーマン大統領(1884-1972)はやることが山積みになり、ナチスドイツは1945年5月7日にフランスのランスで連合国に無条件降伏した。陸軍航空隊はリトルボーイをベルリン上空に投下しようとしたが、投下しなかった理由の一つは、ベルリンが既に廃墟と化しており、その威力を示すことができなかったためである。

Enola Gay

ナチスドイツへの原爆爆撃隊の訓練は実際にはベルリンに集中しており、太平洋への移動準備を開始したのは6月になってからだった。ポール・ティベッツ空軍准将は1945年8月6日、広島に原爆リトルボーイを投下した B-29 爆撃機エノラ・ゲイの機長として知られているが、1944年12月以降、ナチスドイツには攻撃に値する都市は存在しないと公然と発言した。そのため、日本の主要な4つの攻撃目標都市は爆撃されずに残された。日本軍はこれに注目し、すべて軍事目標であったため奇妙に思ったのである。また、これらの都市はどれも規模が似ており、核爆弾で都市全体を破壊できるほどだった。ところで最初の原子爆弾の試作品は1945年7月17日、ニューメキシコ州南部のトリニティ・サイトでテストされた。次の爆弾はすぐに準備され、巡洋艦でテニアン島まで輸送するのに10日かかり、7月27日に到着し、8月6日に広島に投下された。続いて8月9日、B-29 爆撃機ボックスマンが原爆ファットマンを長崎に投下した。連合軍は1945年4月25日にベルリンを包囲、ドイツが降伏したのは上述の通り1945年5月7日だった。なぜナチスドイツに原爆を使えなかったのか、その問題が分かるだろうか? ナチスドイツとの戦争は、爆弾が使用可能になる数ヶ月前に終わっていたのである。つまり、爆弾を手に入れる前に戦争が終わってしまったら、爆弾で戦争を終わらせることはできないのである。下記リンク先は科学雑誌サイエンティフィック・アメリカンのジーナ・ブライナー編集長による記事「マンハッタン計画とは何だったのか? 1945年、日本の広島と長崎に投下された原爆は、マンハッタン計画によってもたらされた」です。

核兵器 What is the Manhattan Project? Atomic bombs dropped on Hiroshima and Nagasaki 1945