![]() |
Dmitri Kessel |
ドミトリ・ケッセルは1902年8月20日、旧ソビエト時代のキエフ(現在のウクライナの首都)のサトウダイコン農家で、地主のソロモンとソニア・ケッセルマンとの間に生まれ育った。フランヤ・ソロモノヴナ・ケッセルマン、ポリア・モルマン、マーニャ・スウィートという姉妹がいた。少年時代は箱型のコダック製ブラウニカメラの使い方を覚え、友人や家族、日常生活の写真を撮った。ウクライナ人民党に参加し、略奪していたポーランド侵略者に対するウクライナ村民の虐殺を記録したが、ウクライナ暴徒のリーダーによりカメラを破壊された。ケッセルは10歳のときからロシアのポルタヴァ陸軍士官学校で騎兵将校としての訓練を受け、後にポーランド・ソビエト戦争(1919–1921) ではポーランドに対する赤軍の作戦に参加した。ケッセルは除隊後、 1921年から1922年にかけてモスクワで皮革なめしと工業化学を学ぶ。ウクライナからロシアへ移住する家族に別れを告げている最中にポーランドの警備員に逮捕されたが、ルーマニアへ逃亡した。そこで再び拘束されたが、釈放された。1923年にルーマニア経由でアメリカに移住し(1929年に帰化)、ニューヨークに渡り、毛皮産業やロシア語新聞社でアルバイトをしていた。
シティ・カレッジの夜間部に通い、1934年にはベン・マギッド・ラビノヴィッチの写真学校(1920年創立)に入学した。写真の訓練は、写真という媒体自体の急速な変化と時を同じくしていた。業界での経験と人脈を生かし、工場主向けの写真撮影を専門とした。これがきっかけで、1935年にヘンリー・ルースの『フォーチュン』誌にフリーランスとして契約し、フォトジャーナリストとして成功を収め、1939年からは第二次世界大戦の取材を担当した。1944年には『ライフ』誌のスタッフ兼従軍カメラマンとなり、1972年まで同誌に在籍した。
1944年後半、ケッセルはイギリスとギリシャ亡命政府とともにアテネに上陸した。 共産党の敗北で幕を閉じたデケムブリアナ事件の当事者たちの写真を数枚撮影した。戦後、ケッセルは主に『ライフ』誌のパリ支局ので働き、ハンガリー、中国、パレスチナ、インド、スペイン、セイロン、日本などのイデオロギー闘争や領土紛争に関する記事を取材するために各地を飛び回った。1950年、アガ・カーンの結婚式の取材に当たったケッセルは、ジャーナリストのディタ・コマチョと共にイランとソ連の緊張の高まりを記録し、滞在を6週間に延長した後『ライフ』誌の表紙に8ページの記事を掲載した。
1950年代半ばからヴェネツィアのサン・マルコ寺院やバチカンの豪華なモニュメントなど、ヨーロッパの宗教建築を撮影した。キュレーターのエドワード・スタイケンは、900万人の来場者を集めたニューヨーク近代美術館の世界巡回展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」に彼の作品8点955年、を出品した。出品された作品は、フランスで投票する女性、中国で戸口にシルエットを浮かべるカップル、中国で険しい山々の間に霞んだ空を映す川、イタリアで夏の収穫をする家族、中国で手で種を蒔く農民、ベルギー領コンゴの鉱山労働者、中国で激しい川で荷船を上流へ曳航しようと奮闘する大勢の男性、同じく中国で輪になって踊る子供たちである。
1961年9月22日号の『ライフ』誌には、彼によるジョン・F・ケネディ空港(当時はアイドルワイルド空港)のフォトエッセイが掲載された。掲載された写真の多くは、当時建設されたばかりのパンアメリカン航空ターミナル、ワールドポートのものであった。1964年、シャーリー・ファーマーと結婚。1995年3月26日、ニューヨーク州サウサンプトンで死去、92歳だった。下記リンク先はウェブサイト「偉大なるライフ・マガジンの写真家たち」にアーカイブされている、ドミトリ・ケッセルのバイオグラフィーと作品です。

0 件のコメント:
コメントを投稿