2025年8月22日

ソーシャルメディアが子供たちに与える悪影響

No Whispers
“No Whispers” Child Sexual and Criminal Exploitation by ©Blog Preston

昨今、テクノロジーが私たちの日常生活に与える影響に関するニュースを頻繁に目にする。多くの人がテクノロジーが私たち自身にどのような影響を与えるかについて考え始めている。しかし子供たちにどのような悪影響を与えるかについて、立ち止まって考えた人はどれくらいいるのだろうか? 子供たちが初めてインターネット対応デバイスを受け取る時期は、ますます早まっている。モバイル社会研究所のデータによると、小中学生の利用率は上昇傾向が続き3人に2人が利用しているという。毎日デバイスを使わずに遊ぶ時間がありません。学校でもテクノロジーは豊富である。教師はオンラインでの調査やツールを必要とする宿題を出し、アプリを使って宿題を管理している。テクノロジーは常に進化を続け、今後も存在し続けるだろう。しかしサイバーセキュリティの観点から見た安全リスクについて、多くの人が考えていない。あるオンライン調査では、驚くべき数字が明らかになった。親が子供のオンライン活動を把握していないのが現実のようだ。そしてそのオンライン活動は年々増加している。母親の85%が子供を忙しくするテクノロジーを利用していると述べている。多くの子供たちにとってオンラインの世界は現実世界よりも現実的である。子供たちがオンラインで何を見ているのか、そこに何があるのか? そしてそれが子供たちの心身の健康にどのような影響を与えるのかを、私たちが理解することは、子供たちの健やかな成長にとって非常に重要である。

SNS

多くの人がで認める通り、問題は、私たちがオンラインの世界を本当に理解していないと感じていることである。Instagram、Snapchat、X だけでも十分に混乱を招くが 4chan やダークウェブは言うまでもない。さらにこの複雑な世界をうまく乗り越えるための技術的なスキルが自分にはないように感じている場合、重要なのは、複雑な技術ツールをマスターすることではない。またインターネットで流行る最新のトレンドが出てくるたびに、それをマスターする必要もない。はるかに重要でありながら、同時にはるかに難しいのは、子供の生活について、子供と頻繁に、オープンで正直な話し合いを持つことです。インターネット企業、ソーシャルメディアネットワーク、ゲームプロバイダー、その他オンライン空間に関わるあらゆる人々が、コンテンツ制限の設定を手伝ってくれるかもしれませんが、必ずしも子供の最善の利益を心から考えているとは限らない。子供のオンライン安全を守る最適な人物は、まさにあなたである。インターネット上での安全について話し合うことは、お子様との信頼関係を築くための素晴らしい方法です。オンラインで何にアクセスするか、いつアクセスするかについて明確な境界線を設けるだけでなく、子供がミスをしたり、度を越してしまったりした時には、そばにいて支えてあげよう。子供やティーンエイジャーにはある程度のプライバシーが必要だが、日常生活においても親の関わりと監督が必要である。実社会で役立つ一般的な子育てスキルは、オンラインでも役立つのです下記リンク先はフィンランドのヘルシンキを拠点とする非営利の非政府組織 Protect Children による「オンライン・グルーミング:デジタル時代に増大する子供への脅威」です。

ChildrenProtect  Online grooming - a growing threat to children in the digital age | The Protect Children

2025年8月20日

写真術における偉大なる達人たち

Parade of Zapatistas
Manuel Ramos (1874-1945) Parade of Zapatistas, National Palace, Mexico City, 1914

2021年の秋以来、思いつくまま世界の写真界20~21世紀の達人たちの紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、2025年8月20日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/10/06多くの人々に感動を与えたアフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08グループ f/64 のメンバーだった写真家イモージン・カニンガムは化学を専攻した(1883–1976)
21/10/10圧倒的な才能を持ち現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11何気ない虚ろなアメリカを旅したスイス生まれの写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13作為を排した新客観主義に触発されたストリート写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時に農村や小さな町の生活窮状をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17日記に最後の晩餐という言葉を残して自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19フォトジャーナリズムの手法を芸術の域に高めた写真家ユージン・スミスの視線(1918–1978)
21/10/24時代の風潮に左右されず独自の芸術観を持ち続けたプラハの詩人ヨゼフ・スデック(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家アルフレッド・スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01美しいパリを撮影していたウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導した 20 世紀の写真界の巨匠エドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10芸術を通じて社会や政治に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13大恐慌を記録したウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグは個展を開いた 69 歳まで無名だった(1894–1986)
21/11/20ハンガリー出身の世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの短い人生(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えるため現実を正確に捉えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01マグナム・フォトを設立した写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を人間のいくつかの性質を持っているとして愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練され権威ある感覚をもたらしたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12デザインと産業の統合に集中したバウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジ(1923–1928)
21/12/17ダダイズムとシュルレアリスムに跨る写真を制作したマン・レイは革新者だった(1890–1976)
21/12/29フォトジャーナリズムに傾倒したアラ・ギュレルの失われたイスタンブル写真素描(1928–2018)
22/01/10ペルーのスタジオをヒントに自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/25非現実的なほど歪曲し抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラントのカメラ(1904–1983)
22/03/09男性ヌードや花を白黒で撮影した異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18ニューヨーク近代美術館で写真展「人間家族」を企画したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24公民権運動の影響を記録したキュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添いエモーショナルに撮影した写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20早逝した写真家リンダ・マッカートニーはザ・ビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写して重要な作品群を作り上げたファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたドキュメント写真家アウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦取材で26歳という若さに散った女性戦争写真家ゲルダ・タローの生涯 (1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったアルゼンチン出身のペドロ・ルイス・ラオタ (1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性報道写真家イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25写真家フランク・ラインハートのアメリカ先住民のドラマチックで美しい肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05文学と芸術に没頭し超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(1943-2024)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンのセルフポートレイト(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2820世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)
24/04/30トルコの古い伝統の記憶を守り続ける女性写真家 F・ディレク・ウヤル(born 1976)
24/05/01ファッション写真に大きな影響を与えたデヴィッド・ザイドナーの短い生涯(1957-1999)
24/05/08社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー(born 1946)
24/05/10直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン(1910–1988)
24/05/12自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー(born 1950)
24/05/14多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー(1906-1999)
24/05/16芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク(1938-2012)
24/05/18ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー(born 1952)
24/05/21先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ(1913-1995)
24/05/24グラフ誌『ライフ』に30年間投稿し続けたロシア生まれの写真家リナ・リーン(1914-1995)
24/05/27旅する写真家として20世紀後半の歴史に残る象徴的な作品を制作したルネ・ブリ(1933-2014)
24/05/29高速ストロボスコープ写真を開発したハロルド・ユージン・エジャートン(1903-1990)
24/06/03一般市民とそのささやかな瞬間を撮影したオランダの写真家ヘンク・ヨンケル(1912-2002)
24/06/10ラージフォーマット写真のデジタル処理で成功したアンドレアス・グルスキー(born 1955)
24/06/26レンズを通して親密な講釈と被写体の声を伝えてきた韓国出身のユンギ・キム(born 1962)
24/07/05演出されたものではなく現実的なファッション写真を開発したトニ・フリッセル(1907-1988)
24/07/07スウィンギング60年代のイメージ形成に貢献した写真家デイヴィッド・ベイリー(born 1938)
24/07/13著名人からから小さな町の人々まで撮影してきた写真家マイケル・オブライエン(born 1950)
24/07/14人々のドラマが宿る都市のカラー写真を制作したコンスタンティン・マノス(born 1934)
24/08/04写真家集団「マグナム・フォト」所属するただ一人の日本人メンバー久保田博二(born 1939)
24/08/08ロバート・F・ケネディの死を悼む人々を葬儀列車から捉えたポール・フスコ(1930–2020)
24/08/13クリスティーナ・ガルシア・ロデロが話したいのは時間も終わりもない出来事だ(born 1949)
24/08/30ドキュメンタリーと芸術の境界を歩んだカラー写真の先駆者エルンスト・ハース(1921–1986)
24/09/01国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線(born 1948)
24/09/09アパルトヘイトの悪と日常的な社会への影響を記録したアーネスト・コール(1940–1990)
24/09/14宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ(1931-2024)
24/09/23アメリカで最も有名な無名の写真家と呼ばれたエヴリン・ホーファー(1922–2009)
24/09/25自身を「大義を求める反逆者」と表現した写真家マージョリー・コリンズ(1912-1985)
24/09/27北海道の小さな町にあった営業写真館を継がず写真芸術の道を歩んだ深瀬昌久(1934-2012)
24/10/01現代アメリカの風変わりで平凡なイメージに焦点を当てた写真家アレック・ソス(born 1969)
24/10/04微妙なテクスチャーの言語を備えた異次元の写真を追及したアーサー・トレス(born 1940)
24/10/06オーストリア系イギリス人のエディス・チューダー=ハートはソ連のスパイだった(1908-1973)
24/10/08映画の撮影監督でもあったドキュメンタリー写真家ヴォルフガング・スシツキー(1912–2016)
24/10/15芸術のレズビアン・サブカルチャーに深く関わった写真家ルース・ベルンハルト(1905–2006)
24/10/19ランド・アートを通じて作品を地球と共同制作するアンディ・ゴールドワージー (born 1956)
24/10/29公民権運動の活動に感銘し刑務所制度の悲惨を描写した写真家ダニー・ライアン (born 1942)
24/11/01人間の状態と現在の出来事を記録するストリート写真家ピータ―・ターンリー (born 1955)
24/11/04写真を通じて現代の社会的状況を改善することに専念したアーロン・シスキンド(1903-1991)
24/11/07自然と植物の成長にインスピレーションを受けた写真家カール・ブロスフェルト(1865-1932)
24/11/09ストリート写真で知られているリゼット・モデルは教える才能を持っていた(1901-1983)
24/11/11カラー写真が芸術として認知されるようになった功労者ウィリアム・エグルストン(born 1939)
24/11/13革命後のメキシコ復興の重要人物だった写真家ローラ・アルバレス・ブラボー(1903-1993)
24/11/15チリの歴史上最も重要な写真家であると考えられているセルヒオ・ララインの視座(1931-2012)
24/11/19イギリスのアンリ・カルティエ=ブレッソンと評されたジェーン・ボウン(1925-2014)
24/11/25カラー写真の先駆者ソール・ライターは戦後写真界の傑出した人物のひとりだった(1923–2013)
24/11/25サム・フォークがニューヨーク・タイムズに寄せた写真は鮮烈な感覚をもたらした(1901-1991)
24/11/29ゲイ解放運動の活動家だったトランスジェンダーの写真家ピーター・ヒュージャー(1934–1987)
24/12/01複数の芸術的才能に恵まれていた華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
24/12/05ライフ誌と空軍で活躍した女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
24/12/07愛と美を鮮明に捉えたロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
24/12/10保守的な政治体制と対立しながら自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
24/12/15自然環境における人間の姿を研究することに関心を寄せた写真家マイケル・ぺト(1908-1970)
24/12/20ベトナム戦争中にナパーム弾攻撃から逃げる子供たちを撮影したニック・ウット(born 1951)
25/01/06記録映画の先駆者であり前衛映画製作者でもあった写真家ラルフ・スタイナー(1899–1986)
25/01/10アメリカ西部を占める文化の多様性を反映した写真家ローラ・ウィルソンの足跡(born 1939)
25/01/15フランスの人文主義写真運動で活躍したスイス系フランス人ザビーネ・ヴァイス(1924–2021)
25/02/03サルバドール・ダリとの共作でシュールな写真を創出したフィリップ・ハルスマン(1906–1979)
25/02/06ベトナム戦争に対する懸念を形にした写真家フィリップ・ジョーンズ・グリフィス(1936-2008)
25/02/18芸術に複数の糸を持っていたシュルレアリスムの写真家エミール・サヴィトリー(1903-1967)
25/03/19シュルレアリスムの先駆的な写真家でピカソのモデルで恋人だったドラ・マール(1907-1997)
25/03/25ホロコースト前の東欧のユダヤ人社会を記録した写真家ローマン・ヴィスニアック(1897-1990)
25/04/01ソーシャルワーカーからライフ誌の専属写真家に転じたウォレス・カークランド(1891–1979)
25/04/04写真家ビル・エプリッジは20世紀で最も優れたフォトジャーナリストの一人だった(1938-2013)
25/04/25ロバート・キャパの弟で総合施設国際写真センターを設立したコーネル・キャパ(1918-2008)
25/05/01激動1960年代の音楽家たちをキャプチャーした写真家エリオット・ランディの慧眼(born 1942)
25/05/23生まれ故郷ブラジルの熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(1944-2025)
25/06/22風景への畏敬の念と激動の気象現象への驚異が伝わるミッチ・ドブラウナーの写真(born 1956)
25/07/26ティンタイプ写真でアパラチアの伝承音楽家に焦点を当てたリサ・エルマーレ(born 1984)
25/08/03色彩の卓越した表現を通して写真というジャンルを超越したデビッド・ラシャペル(born 1963)
25/08/20ヨーロッパ解放やコンゴ紛争などでの勇敢な取材で知られるドミトリ・ケッセル(1902–1995)

子供の頃「明治は遠くなりにけり」という言葉を耳にした記憶がありますが、今まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。掲載した作品の大半がモノクロ写真で、カラー写真がわずかのなのは偶然ではないような気がします。20世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。しかしデジタルカメラが主流になった21世紀、カラー写真の台頭に目覚ましいものがあります。ジョエル・マイヤーウィッツとサンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤール、 F・ディレク・ウヤル、マーティン・パー、コンスタンティン・マノス、久保田博二、ポール・フスコ、エルンスト・ハース、エヴリン・ホーファー、アレック・ソス、アンディ・ゴールドワージー、ウィリアム・エグルストン、ソール・ライタ、などのカラー作品を取り上げました。

aperture_bk  Famous Photographers: Great photographs can elicit thoughts, feelings, and emotions.

トランプ大統領はノルウェーの大臣に突然電話をかけノーベル賞授与を切望した

Trump wants the Nobel Peace Prize
Does Donald Trump deserve the Nobel Peace Prize? ©2025 Alex Brandon

ドナルド・トランプ米大統領が先月、ノルウェーの財務相に関税について協議するため電話した際、財務相は大統領がノーベル平和賞を望むとも伝えたと、ノルウェーの経済日刊紙ダーゲンス・ナーリングスリーヴが報じた。イスラエル、パキスタン、カンボジアを含む数カ国が、和平合意や停戦の仲介者としてトランプを指名しており、トランプはホワイトハウスの前任者4人が受賞したノルウェーから授与される栄誉に値すると述べている。ダーゲンス・ナーリングスリーヴ紙は「イエンス・ストルテンベルグ財務大臣がオスロの通りを歩いていると、突然ドナルド・トランプから電話がかかってきた」と匿名の情報源を引用して報じた。ストルテンベルグ事務総長はロイター通信に対し「彼はノーベル賞を欲しがっていた――そして関税について議論したかったのだ」と語っている。今回の電話会談はトランプ大統領とノルウェーのヨナス・ストーレ首相との電話会談に先立ち、関税と経済協力について協議するためのものだったと述べた。そして「会談の内容についてはこれ以上詳しくは述べません」と付け加えた。ストルテンベルグ財務大臣は「電話会議にはスコット・ベセント米財務長官やジェイミーソン・グリア米通商代表部代表を含むホワイトハウス当局者数名も参加したと」付け加えた。しかしホワイトハウスとノルウェー・ノーベル委員会はコメント要請に応じなかった。

Donald Novel
©2025 Sarah Grillo

毎年何百人もの候補者が指名され、受賞者はノルウェー・ノーベル委員会によって選出される。委員会の5人の委員は、19世紀のスウェーデンの実業家アルフレッド・ノーベルの遺言に従って、ノルウェー議会によって任命される。発表は10月にオスロで行われる予定である。ノルウェーの新聞は、トランプ大統領が NATO 軍事同盟の元事務総長ストルテンベルグとの会話の中でこの賞について言及したのは今回が初めてではないと伝えた。ホワイトハウスは7月31日、欧州連合と同じくノルウェーからの輸入品に15%の関税を課すと発表した。トランプ大統領はこれまで、バラク・オバマを含む前任者4人が受賞しているノーベル平和賞を受賞していないことについて何度も不満を述べている。トランプ大統領は6月に自らのソーシャルメディア Truth Social で、最近の激しい非難の中で「ロシアとウクライナ、イスラエルとイランを含め、私が何をしてもノーベル平和賞はもらえないだろう。その結果がどうであろうと。だが国民は知っている。私にとって重要なのはそれだけだ!」と不満をぶちまけている。トランプ大統領はロシアのウクライナ侵攻については饒舌だが、イスラエルのガザ地区への非道な爆撃についてはダンマリを決め込んでいる。下記リンク先は NBC ニュースの「トランプ大統領は”平和の使者”としての伝説を固めようとノーベル賞獲得に向けたキャンペーンを強化している」です。

NBC Trump ramps up his campaign for Nobel Prize, hoping to cement legacy as a "peacemaker"

2025年8月19日

ヨーロッパ解放やコンゴ紛争などでの勇敢な取材で知られるドミトリ・ケッセル

pastries
Looking at Pastries in the Window, Three Years After the War, Vienna, 1948
Dmitri Kessel

ドミトリ・ケッセルは1902年8月20日、旧ソビエト時代のキエフ(現在のウクライナの首都)のサトウダイコン農家で、地主のソロモンとソニア・ケッセルマンとの間に生まれ育った。フランヤ・ソロモノヴナ・ケッセルマン、ポリア・モルマン、マーニャ・スウィートという姉妹がいた。少年時代は箱型のコダック製ブラウニカメラの使い方を覚え、友人や家族、日常生活の写真を撮った。ウクライナ人民党に参加し、略奪していたポーランド侵略者に対するウクライナ村民の虐殺を記録したが、ウクライナ暴徒のリーダーによりカメラを破壊された。ケッセルは10歳のときからロシアのポルタヴァ陸軍士官学校で騎兵将校としての訓練を受け、後にポーランド・ソビエト戦争(1919–1921) ではポーランドに対する赤軍の作戦に参加した。ケッセルは除隊後、 1921年から1922年にかけてモスクワで皮革なめしと工業化学を学ぶ。ウクライナからロシアへ移住する家族に別れを告げている最中にポーランドの警備員に逮捕されたが、ルーマニアへ逃亡した。そこで再び拘束されたが、釈放された。1923年にルーマニア経由でアメリカに移住し(1929年に帰化)、ニューヨークに渡り、毛皮産業やロシア語新聞社でアルバイトをしていた。

Middle East Oil
Middle East Oil, Iran, 1945

シティ・カレッジの夜間部に通い、1934年にはベン・マギッド・ラビノヴィッチの写真学校(1920年創立)に入学した。写真の訓練は、写真という媒体自体の急速な変化と時を同じくしていた。業界での経験と人脈を生かし、工場主向けの写真撮影を専門とした。これがきっかけで、1935年にヘンリー・ルースの『フォーチュン』誌にフリーランスとして契約し、フォトジャーナリストとして成功を収め、1939年からは第二次世界大戦の取材を担当した。1944年には『ライフ』誌のスタッフ兼従軍カメラマンとなり、1972年まで同誌に在籍した。

Louvre
The Louvre, Paris, 1953

1944年後半、ケッセルはイギリスとギリシャ亡命政府とともにアテネに上陸した。 共産党の敗北で幕を閉じたデケムブリアナ事件の当事者たちの写真を数枚撮影した。戦後、ケッセルは主に『ライフ』誌のパリ支局ので働き、ハンガリー、中国、パレスチナ、インド、スペイン、セイロン、日本などのイデオロギー闘争や領土紛争に関する記事を取材するために各地を飛び回った。1950年、アガ・カーンの結婚式の取材に当たったケッセルは、ジャーナリストのディタ・コマチョと共にイランとソ連の緊張の高まりを記録し、滞在を6週間に延長した後『ライフ』誌の表紙に8ページの記事を掲載した。

Jerusalem
Easter in Jerusalem, 1955

1950年代半ばからヴェネツィアのサン・マルコ寺院やバチカンの豪華なモニュメントなど、ヨーロッパの宗教建築を撮影した。キュレーターのエドワード・スタイケンは、900万人の来場者を集めたニューヨーク近代美術館の世界巡回展「ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)」に彼の作品8点955年、を出品した。出品された作品は、フランスで投票する女性、中国で戸口にシルエットを浮かべるカップル、中国で険しい山々の間に霞んだ空を映す川、イタリアで夏の収穫をする家族、中国で手で種を蒔く農民、ベルギー領コンゴの鉱山労働者、中国で激しい川で荷船を上流へ曳航しようと奮闘する大勢の男性、同じく中国で輪になって踊る子供たちである。

Space Odyssey
A Space Odyssey, 2001

1961年9月22日号の『ライフ』誌には、彼によるジョン・F・ケネディ空港(当時はアイドルワイルド空港)のフォトエッセイが掲載された。掲載された写真の多くは、当時建設されたばかりのパンアメリカン航空ターミナル、ワールドポートのものであった。1964年、シャーリー・ファーマーと結婚。1995年3月26日、ニューヨーク州サウサンプトンで死去、92歳だった。下記リンク先はウェブサイト「偉大なるライフ・マガジンの写真家たち」にアーカイブされている、ドミトリ・ケッセルのバイオグラフィーと作品です。

LIFE  Photographs by Dimitri Kessel (American, born in Kyiv, 1902–1995) ©The LIFE Magazine

2025年8月18日

一休宗純『狂雲集』を読む:盲森夜々伴吟身被底鴛鴦私語新

紙本淡彩一休和尚像
紙本淡彩一休和尚像 伝:墨斎筆(東京国立博物館蔵)

大阪の南海電鉄住吉大社駅を降りて、路面電車の軌道を横切ると、大きな朱色の太鼓橋が見えた。反橋(そりはし)と呼ぶそうだ。川端康成は小説『反橋』(1948年)に「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いている。人は階段にせよ、坂道にせよ、登りより下りのほうが怖いのである。これは今も変わらない道理である。やはり一瞬躊躇ったが、登ることにした。遠目には半円形だが、中央部を頂点として半円状に反っている。地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、このような構造になっていると考えられる。床は平らではなく木製階段になっている。かつて階段がなく、足を引っ掛ける穴が開いていたが、滑りやすく危険だったという。橋のてっぺんからは登山用のステッキを頼りにおそるおそる降りた。四角柱の鳥居をくぐると、第一本宮から第四本宮にいたる住吉造と呼ばれる四棟の本殿が視界に入った。富士正晴『一休』(日本詩人選27 筑摩書房)掲載の白文(原文の漢文)および読み下し文を引用してみよう。一休宗純は次のような漢詩を詠んでいる。[※]

優遊且喜薬師堂  優遊して且つ喜ぶ薬師堂
毒気便々是我腸  毒気便々是れ我が腸
慙愧不管雪雲鬂  慙愧管せず雪雲の鬂
吟尽厳寒秋点長   吟じ尽す厳寒秋点長し
筑摩書房(1971年)

柳田聖山はこれを「ぶらりとやってきて、何とまあ嬉しいことか、薬師さまの御堂ではないか、毒気で肚いっぱいの、救われぬボクであった。ありがたや、雪か霜のような、髪の白さを気にかけず、悲しい歌にききほれて、長い厳しい冬の一夜が(あっという間に)過ぎたのである」(柳田聖山訳『狂雲集』中公クラシックス)と訳している。1470(文明二)年、一休が盲目の旅芸人、森女(しんじょ)が歌う艶歌に聞き惚れたときのことを詠んだものである。さて薬師堂は何処にあるのだろうか。水上勉著『一休を歩く』(集英社文庫)によると、住吉大社の第一本宮だという。同書には元々は神仏混合の社で、第一本宮に薬師如来を祀ったいう記述がある。社務所に尋ねたところ、第一本宮に薬師如来はないが、かつて広大な敷地を有した神宮寺があったことは確かで、本尊は薬師如来だったという。ただ『狂雲集』に登場する薬師堂が現在の第一本宮とは言い切れないという。水上氏はここで舞楽舞を観て、森女は巫女ではなかったかと逞しい想像をしている。しかし盲目の女性がはたして巫女を務められるか、ちょっと疑問である。一休が艶歌を聴いたと明記しているし、たぶん瞽女(ごぜ)の身分ではなかったかと私は想像している。翌1471(文明三)年、一休は住吉大社で森女と再会、以後南山城の酬恩庵で同棲することになった。78歳の高僧と30歳前後の女性の恋である。

楚台応望更応攀  楚台応に望むべし応に攀ずべし
半夜玉床愁夢顔  半夜の玉床愁夢の顔
花綻一茎梅樹下  花は綻ぶ一茎梅樹下
凌波仙子遶腰間  凌波の仙子腰間を繞る
中央公論社(2001年)

これは「美人陰有水仙花香」(美人の陰〔ほと〕に水仙の花の香〔か〕有り)という題がついた漢詩だが、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。柳田聖山はこれを「楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは、人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった。たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと、波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる」と訳している。1474(文明六)年に一休は第47世大徳寺住持となり、戦火に焼亡した大徳寺の復興を手がける。そして現京田辺市薪里ノ内の酬恩庵一休寺に移り、1481(文明十三)年に同庵で入寂するまで、二人は仲良く一緒に暮らしたのである。本稿の表題は『狂雲集』の一節だが「盲目の森伴者は毎夜詩を吟ずる私に寄り添い夜具の中でオシドリのごとく睦まじく囁き合う」という意味である。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっている。そして以下の辞世の句を残した。

朦々として三十年 淡々として三十年
朦々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ
借用申す昨日昨日
返済申す今日今日
借りおきし五つのもの(地水火風空)を
四つ(地水火風)返し
本来 空に いまぞもとづく

[※] 柳田聖山訳『狂雲集』には白文の記載がなく、読み下し文に句読点がついている。漢字は象形文字でありそれ自体が美しいので富士正晴『一休』掲載の白文および読み下し文を引用、現代語訳のみ柳田聖山訳を引用した。なお『狂雲集』自体の理解のためには後者が分かりやすいので、併せて表紙の写真と共に紹介した。

PDF  芳 澤元「一休宗純と三途河御阿姑」― 地獄辻子と遊女観 ―(東京大学史料編纂所研究紀要第28号)

2025年8月16日

マッカーサー元帥の椅子に座った

GHQ
マッカーサー記念室(東京都千代田区有楽町)©1986 京都フォト通信

昭和天皇と会見(1945/9/27)

連合国最高司令官総司令部(GHQ)は1945月15日、東京・日比谷の第一生命館を接収した。第一生命社長室として使われていた6階の部屋に最高司令官 (SCAP) に就任したダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)の机と椅子が置かれた。1952年に返還され、そのまま「マッカーサー記念室」として保存されて今日に至っている。1986年8月8日、私はこの部屋を撮影した。元帥の椅子に座っているのは私である。この部屋は、広さ約54㎡(約16坪)で、内装や調度品は、マッカーサーが使用していた当時のままだ。インテリアは英国のチューダー王朝風で、壁に飾られた2枚の絵は、英国人画家F・J・オルドリッジによってか描かれた「アドリヤ海の漁船」と「干潮」である。マッカーサーはヨット好きだったので、接収時もこの絵をそのまま飾っていたという。1946年1月25日、この部屋からか、それとも米国大使館からだったのだろうか、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長宛に天皇の犯罪行為の証拠なしという秘密電報を送った。天皇を起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍の増員や民間人スタッフの大量派遣が長期間必要となるだろうと述べ、米国の負担の面からも天皇の起訴は避けるべきだとの立場を表明している。これが戦後日本政治の出発点になったことを肝に命ずるべきだろう。なお、第一生命館は1989年から1995年にかけ、DNタワー21として再開発されたが、マッカーサー記念室は内装などを変更せず、そのまま保存された。2022年には農林中央金庫が千代田区大手町の大手町ワン(Otemachi One)に移転したため、第一生命保険が単独所有するビルとなり、名称も第一生命日比谷ファーストに改められた。

PDF_BK  第一生命保険(東京・日比谷)「マッカーサー記念室の歴史」の表示とダウンロード(PDF 368KB)

2025年8月15日

降伏に追い込まれた日本と戦争がアメリカの人々に与えた影響

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パリの赤十字クラブ「レインボー・コーナー」前に集まった米軍人たち(1945年8月15日)撮影者不詳

ハリー・トルーマン大統領は、ロンドンとモスクワの同盟国と同時に歴史的な発表を行うという合意を守りたいと考え、時計を注意深く見守っていた。1945年8月14日、東部戦時時間午後7時ちょうどに、トルーマンは連合国の無条件降伏要求に対する日本の回答を明らかにした。発表は原爆が日本の広島と長崎に投下されてからわずかな日数後に行われた。声明には、日本の天皇が連合国への降伏に同意したと記されていた。その後、大統領はダグラス・マッカーサー元帥を日本および太平洋方面の最高司令官に任命し、マッカーサー元帥は1945年9月2日に日本の降伏を正式に受諾した。1945年8月15日、パリの赤十字クラブ「レインボーコーナー」の前に集まったアメリカ軍人男女は、日本の条件付き降伏を祝った。第二次世界大戦――歴史上最も多くの犠牲者と破壊をもたらし、世代を超えて「戦争」と呼ばれてきた戦争――は公式に終結した。公式の祝賀日は9月2日、日本軍が東京湾の戦艦 ミズーリ号上で降伏文書に署名した日である。ヨーロッパ戦線で疲弊した退役軍人を乗せた日本行きの船は引き返すことができた。日本本土侵攻で予想されたような高い犠牲者数は出ないだろう。父親や叔父、兄の姿を見たことのない子どもたちは、やがて彼らが制服を着てダッフルバッグを肩に担いで帰ってくるのを見ることになった。ガソリンから食料まで、あらゆるものの配給制は終わりを迎える。停電もなくなり、敵機や潜水艦を24時間体制で警戒する必要もなくなった。1945年8月29日、青森収容所で、アメリカ、イギリス、オランダの国旗を振りながら、やつれた連合軍捕虜たちがアメリカ海軍の救助隊員たちを応援した。戦争が終結した時点で、戦闘、飢餓、病気、あるいは人道に対する罪の犠牲者として 6,000万人から8,000万人が亡くなった。これは当時の世界人口の約3%に相当する。戦没者名簿には、ヨーロッパ、北アフリカ平洋、その他の地域で戦死した約42万人のアメリカ人が含まれていた。

Japanese Instrument of Surrender
ミズーリ艦上で行われた日本の降伏文書調印式(1945年9月2日)©カール・マイダンス

アメリカ人の犠牲者は全米人口の約0.3%に相当するが、戦争はアメリカのほぼすべての都市、町、村、そして農村部にも影響を与えた。 8月14日のトルーマンの発表から数分のうちに、人々はさまざまな形で自発的に、熱狂的に祝い始めた。ニューヨークのタイムズスクエアは、常に人々の熱狂の象徴であり、200万人が数日間にわたる祝賀行事に押し寄せた。紙吹雪が降り注ぎ、コンガの隊列が蛇行し、人々は視界に入る者すべてにキスをした。シカゴ・トリビューン紙は、ある男性が梯子を登り、3ヶ月かけて作られた高さ18フィートの勝利の蝋燭に火を灯したと報じた。シカゴのダウンタウンでは、50万人がループ通りに集まり、メインストリートで歌ったり踊ったりしていた。しかし、祝賀と帰郷の渦中に、これから何が起こるのかという不安が渦巻いていた。戦争の突然の終結は、核時代の到来を告げ、次の戦争は今勝利した戦争よりもさらに恐ろしいものになるかもしれないというあらゆる可能性と恐怖をもたらした。東京湾に停泊中の戦艦ミズーリ号における正式な降伏式典で、ダグラス・マッカーサー元帥が連合軍最高司令官として署名している。彼の後ろにはアメリカ軍のジョナサン・ウェインライト中将とイギリス軍のアーサー・パーシバル中将が並んでいる。二人とも日本軍の捕虜となっていた。兵士たちは制服を脱ぎ捨て、結婚して家庭を持つようになった。彼らの子供たちは後に「ベビーブーマー」と呼ばれるようになる。復員兵援護法(GI法)は、彼らが住宅を購入し、以前は上流階級しか得られなかった大学の学位を取得するのを支援した。仕事を求める帰還兵のせいで、労働不安が生じた。そして、両国に多大な虚しい消耗を強いた戦闘と殺戮は終わった。敗戦国となったが、太平洋戦争を始めたのは日本であり、いわば加害者でもあったことを忘れてはならない。下記リンク先はニュー・ジャージー州スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授の論文「日本は広島の前で降伏を申し出たのか?」です。結論はここに提示しませんが、もし興味をお持ちでしたら、当該論文(英語)をお読み下さい。

history Did the Japanese offer to surrender before Hiroshima? by Alex Wellerstein (May 2, 2022)

2025年8月13日

紙媒体の新聞出版はデジタル革新の犠牲者から意外な勝利者へとなるか

News Papers
福島原発のがれき撤去を報じた2014年7月16日の各紙(宣伝会議2014年9月号)

習慣からなのか、懐かしさからなのか、あるいは印刷された新聞を本当に好むからなのかはわからないが、紙媒体の新聞を愛する読者は今でもたくさんいる。実際、オンラインへの移行が進んでいるにもかかわらず、紙媒体の新聞は多くの市場で依然として独自の地位を保っている。ある調査によると日本では54%、イギリスでも54%の人が、紙媒体の新聞よりもオンラインでニュースを読むことを好んでおり、アメリカではその傾向はさらに強く、60%に達していると報告されている。しかし雑誌に関してはその逆で、一般的に紙媒体のレイアウトが好まれているようだ。こうした嗜好は、デジタル媒体では必ずしも再現できない印刷媒体の特性に一部起因していることが明らかになっている。この事実と、AIを活用したレイアウト自動化の台頭によるコスト削減は、印刷媒体の新聞に新たな息吹を吹き込む可能性がある。通説では、デジタル形式は紙媒体の新聞よりも優れた、より効率的なユーザーエクスペリエンスを提供すると言われている。しかし、ミズーリ大学のジャーナリズム専門職教授であり、ある研究論文の共著者でもあるデイモン・キーソウは「新聞は人々の日常生活におけるある種のニーズを満たしていると考えています。しかしそのニーズは現在、デジタル体験では効果的に満たされていません。読者にどのニュースが重要なのか、なぜ読んでいるニュースに関心を持つべきなのか、そして最も重要なニュースはどこにあるのかを伝えるのに役立つ文脈上の手がかりは、デジタルニュースに欠けている構造によって弱められています」と述べている。研究チームは基本的に、紙媒体の新聞は様々な表面、レイアウト、色、ラベルを用いてニュース記事の文脈を伝え、読者がコンテンツ内を移動できるように誘導していると考えていた。一方、デジタルは紙媒体の利点の多くを放棄し、エンドレススクロールページ、次のコンテンツを提案するアルゴリズム、その他デジタルならではの利便性を優先している。キーソウは「出版社は、ナビゲーションやラベルといった要素だけでなく、ソーシャルメディアを含むプラットフォーム間で文脈シグナルがどのように伝達されるかにも注目すべきです。ソーシャルメディアでは、ニュースの内容に関する第一印象がクリックされる前に形成されることが多いからです。報道機関がすべきことは、デジタルプラットフォームを単なる使いやすさではなく、理解度を重視してテストし、設計することです」と述べている。 注意力を損なうデジタルツールの最も明白な例は、ポップアップ広告である。アメリカのウェブサイト「サイエンス・デイリー」は、オンラインコンテンツを読んでいる人の脳活動を測定したポーランドの研究について「第一に、オンライン広告の存在は参加者の集中力に影響を与えました」「研究者たちは、前頭葉/前頭前野皮質におけるベータ波の活動低下を観察することで、この結果を導き出しました。研究者たちの発見はそれだけではありません」と報告している。

Nespaper Stand in London
ロンドンの新聞スタンド

そしてさらに「第二に、広告の表示は前頭葉/前頭前野の非対称性指数に変化を引き起こしました」とも。補足コンテンツや情報源へのリンク、さらに読むための提案、そしてウェブ上の無数の気を散らすものなどを加えると、出版そして社は読者の気を散らすレシピを手に入れていることになる。ノースダコタ大学教授による別の研究で、あらゆる年齢の学生が印刷された教科書を使うとよりよく学習できることが判明したのも驚くには当たらない。ヘッヒンガーレポートによると「専門家の中には、画面のまぶしさやちらつきは紙よりも脳に負担をかけると考える人もいます。また、物理的な紙のページ上の文章や図表の位置を空間的に記憶することが、学生が情報を思い出すのに役立つと主張する人もいます。デジタルによる気の散りや、ブラウジングやマルチタスクへの誘惑は、現実世界でも明らかな問題です。しかし、これらの研究室での研究の管理された環境では、インターネットの閲覧やアプリの確認は許可されていませんでした」という。紙媒体の新聞は、読者の関心を重要な点に引き付けるために出版物のレイアウト技術を何世紀にもわたって磨き上げてきた。デジタル出版社が紙媒体から学べることは数多くあり、一部のニュースサイトはすでにそのことに気づいている。例えば、ワシントン・ポスト紙の2015年のデザインリニューアルを例に挙げよう。当時ポインター研究所は編集者とデザイナーが協力してコンテンツの優先順位を決定する場合、タイポグラフィ、要素のサイズ、配置をどのように組み合わせるかによって、読者にとって最も重要な記事と、それに続く記事の順位や重要性が示されます」と報告している。印刷ニュースが数十年かけて開発してきた、デジタル読者の体験を導くためのテクニックを出版社が活用するために簡単に再現できる変更がいくつかある。しかし印刷物の制作コストが高いことは間違いない。そのコストは必ずしも印刷広告のプレミアム価値によって相殺されるわけではない。印刷物の制作コストの上位項目の一つは、印刷ページのレイアウト作業であり、毎回熟練した人材を長時間労働で消耗させている。しかし、それが変わりつつあります。ドイツで発行されているいくつかの日刊紙は編集プラットフォームに統合されたAI駆動型ページレイアウトツールを導入し、印刷セクションのレイアウトにかかる時間を数時間から数分に短縮した。この進展は、紙媒体のニュースのビジネスモデルを大きく変える可能性を秘めている。制作プロセスを合理化し、コストを削減することで、デジタル媒体との競争上の差を埋めることができるだろう。紙媒体のニュース出版は、デジタル革新の犠牲者から、意外な勝利者へとなるかもしれないのである。下記リンク先はカリフォルニア州ロサンジェルスの印刷会社 UPrinting の「新聞発行と印刷の歴史」です。

history  A History of Newspaper Publishing and Printing ©2025 UPrinting, Los Angeles, California

2025年8月12日

水上勉:京都五山の送り火を支える無名寺院の信徒たち

五山の送り火 ©岡本辰春(版画家)

京都の夏の夜、精霊たちを静かに冥府へ送る今年の五山送り火は、8月16日(土)の午後8時から順次点火される。送り火に使われる護摩木の志納受け付けは、あらかじめ銀閣寺門前(京都市左京区)西方寺門前(京都市北区)八体地蔵付近(京都市右京区)で行われる。私は左大文字の近くに住んでいるが、護摩木志納受け付けは鹿苑寺(金閣寺)境内で8月15、16日に行われる。水上勉氏の随筆にあるように左大文字の護摩木は、法音寺という小さな寺院の信徒たちが山に登って焚く。同寺は狭いし世間に場所も知られていない。従って観光客が多い鹿苑寺境内で毎年志納受付をする慣わしになったのだろう。水上勉氏の随筆を引用しよう。如意ヶ嶽の大文字を守っている銀閣寺門前の浄土院でいただいたパンフレットに復刻されていたもので、単に雑誌「PHP」11月号とあるだけだが、古都税紛争一時和解、御巣鷹山日航機墜落事件に触れているので1985年と推測できる。

「五山の送り火」水上 勉(作家

ことしは久しぶりに京五山の送り火を拝んだ。周知のように五山とは、如意ヶ嶽の大文字、松ヶ崎東、西山の妙法、船山の舟、大北山の左大文字、鳥居本の曼荼羅山の鳥居である。十三日の盆に祖先の精霊を迎えた京の家では、仏壇に供物をならべて念仏申しあげ、家内安全息災を祈願するとともに、精霊を弔うのだが、十六日にはその精霊が、ふたたび彼岸へ帰ってゆくのを送らねばならない。火はつまり、その仏徒たちの昔から行ってきた精霊送りだ。調べてみると、これらの火は五山の保存会のメンバーによって焼かれ、一般の人は仲間に入らない。昔から寺の信徒にその役があり、しかも、若衆と呼ばれた青年たちによって、焼かれるところもある。不思議なことに、それらの寺は有名寺院ではない。有名寺院といえば、京都ではみな観光寺院になってしまうが、火を焼く寺は、殆ど観光とは無縁といっていいだろう。まず銀閣寺前にある浄土寺が如意ヶ嶽の大文字を焼き、松ヶ崎は湧泉寺、船山は西方寺、大北山は法恩寺、鳥居本には寺はない。古くからの保存会員の持ち山で、町衆が焼くそうだ。焼かれる護摩木は寺でつくられ、寺に詣でた善男善女が、新仏の法名や、俗名を書いて護摩料を払うのである。

絵・水上 勉

新仏が出なかった家は、先祖代々の霊だとか、一家の安全息災を祈ることばを書く場合もある。いずれにしても、これらの木をあつめて、背負って山へのぼり、汗だくになって焼く人々はみな、無名の信者たちである。この行事が何百年とつづいて、今日も燃えつづけた。なかった年は、敗戦の年とその翌々年までの三年だけで、昭和二十三年から休んだことがない。つまり、仏を送る信心に休みがないということであって、本心は敗戦の年まわりこそ、大勢の死者が広島や長崎にあふれ、爆災都市にも、たくさん焼死体がころがっていたのだから、京の町衆は送り火だけは焼きたかっただろう。ところが占領下であったために、遠慮しなければならなかった、とつたえられる。それにしても、この行事が、古くからの信者たちによって、手弁当で行われてきたことに私は心を打たれる。今は京の観光の目玉ともなり、どのホテルも満員の外来を迎えてほくほくだが、じつはその送り火そのものは、観光と無関係に、信心の証として、保存会の家々がうけついできている。そこで、思うのだが、私たちは、大文字といえば銀閣寺を頭にうかべ、左大文字といえば金閣寺を頭にうかべ、有名な相国寺派別格地の両寺が焼くように思いがちだ。そうではない。護摩木は観光客に売りはするけれど、山へぼって焼くのは、ほかの寺の信徒がやっていたのである。しつこいようだが、このことにこだわるのは、凡庸な俗界にあって、信心の火を観光寺院に見ることが出来なくなった、ということを、五山の火は教えたからである。伝によれば、如意ヶ嶽の大文字は、銀閣慈照寺を創建した足利義政がはじめたともいう。

とすれば銀閣寺はやはり、火の元だったわけだが、いまは門前の浄土寺が、汗だくになって護摩木を背負いはこび、当夜は、弘法大師像を安置するカナオの堂前で、誦経をし、住職の合図で火がつけられる。ことしの送り火はいろいろのことを考えさせられた。銀閣寺も金閣寺も古都税問題で、(つまりゼニのことで)門を閉めて人を入れなかったりした。ところが、どういう相談ができたか、急に市当局と握手して、門がひらかれた。門をひらくことは賛成だが、なぜ門をしめたのか、庶民にはよくわからなかった。法灯を守るというのが理由のようだった。だが十六日の法の火は、観光とない信心の徒をあつめる無名寺院が汗だくで焼いていたのである。送り火は死者を送るのだから、生者のよろこびだ。生者といっても、いつ朝霧の如き命を落とさねばならぬかわかったものではない。安全と信じた大型飛行機が、とつぜん五百名以上の乗客もろとも、山にぶっつかって燃えあがるこの頃である。われわれはコンピューター文明の世を生き、平和だといっている。一億総中流だともいっている。寿命ものび、老後に年金も入り、ゲートボールも楽しめ、しあわせな国に生きている思いが国民の大半を占めている、ともいう。本当にそのように平穏だろうか。五山の送り火は、何百年と同じ火を燃やしてながら、新しい何かを私にささやいた。何をささやかれたかを語るには枚数が足りない。火を拝んで、私は今日つかのまを生きておれたことを感謝したとだけいっておく。

文中の浄土寺は浄土院(左京区銀閣寺町)法恩寺は法音寺(北区衣笠街道町)。これを読むと京都の五山送り火は、無名寺院の信徒、町衆の信仰によって守られてきた宗教行事であることがしみじみと理解できる。送り火を見物に大勢の観光客が京都にやってくるが、夏の夜空を彩る観光イベントではない。お盆にこの世に戻った精霊を再び冥府に還すため、静かに手を合わせる、あくまで宗教行事であることを忘れてはならない。

京都観光NAVI2025年(令和7年)「京都五山送り火」についての詳細情報 | 京都観光オフィシャルサイト観光NAVI

2025年8月11日

アルジャジーラのスタッフ5人がイスラエルによりガザで殺害される

アルジャジーラの記者5人が死亡したイスラエル軍の空爆現場 ©2025 エブラヒム・ハジャジ

イスラエルはガザへの空爆で、最前線取材で知られる衛星テレビ局アルジャジーラ特派員アナス・アル・シャリフなど5人ジャーナリストを殺害した。アルジャジーラは、イスラエルによるスタッフ5人の暗殺を非難し、これを「差し迫ったガザの占領と占領を告発する声を黙らせるための必死の試み」と呼んだ。以下、同紙8月10日付け記事の抄訳である。アルジャジーラ・メディア・ネットワークは声明でこの殺害を「報道の自由に対するまたしても露骨で計画的な攻撃」と非難した。「今回の攻撃は、容赦ない民間人の虐殺、強制的な飢餓、そしてコミュニティ全体の消滅をもたらしたイスラエルによるガザへの継続的な攻撃の壊滅的な結果の最中に起こった」「ガザで最も勇敢なジャーナリストの一人であるアナス・アル・シャリフその同僚を暗殺せよという命令は差し迫ったガザの制圧と占領を暴露する声を封じ込めようとする必死の試みだ」と同ネットワークは伝えた。アルジャジーラは国際社会とすべての関連団体に対し「現在進行中の大量虐殺を止め、ジャーナリストを意図的に標的にすることを終わらせるために断固たる措置を取る」よう求めた。「アルジャジーラは、加害者の免責と説明責任の欠如がイスラエルの行動を大胆にし、真実の証人に対するさらなる弾圧を助長することを強調している」と同局は述べた。空爆当時、わずか1ブロック離れた場所にいたアルジャジーラ特派員ハニ・マフムードは、アル・シャリフの殺害に関する報道は過去22カ月の戦争の中で最も困難な仕事だったと語った。同ネットワークの英語チャンネルで働くマフムードは、記者らが殺害されたのは「ガザ地区のパレスチナ人が苦しんでいる飢餓や飢饉、栄養失調について執拗に報道していたためであり、この犯罪の真実をすべての人に伝えていたからだ」と述べた。イスラエル軍はアナス・アル・シャリフの意図的な殺害を認める声明の中で、同記者がハマス組織のリーダーであり「イスラエルの民間人と(イスラエル)軍に対するロケット弾攻撃を遂行した」と非難した。

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葬儀でアナス・アル・シャリフの遺体を運ぶ会葬者たち ©2025 オマール・アル・カッタジズ

また、同氏がパレスチナの組織に関与していたことを「明白に証明する」文書を保有していると主張した。ユーロメッド人権モニターのアナリスト、ムハンマド・シェハダは、アナス・アル・シャリフ何らかの敵対行為に参加したという「証拠は全くない」と述べた。「彼の毎日のルーティンは朝から晩までカメラの前に立つことだった」と彼はアルジャジーラに語った。先月、イスラエル軍報道官のアヴィチャイ・アドレイが、アナス・アル・シャリフがハマスの軍事部門のメンバーであると非難する動画をソーシャルメディアで再共有した後、国連の表現の自由に関する特別報告者のアイリーン・カーンは、アナス・アル・シャリフ対する「イスラエル軍による度重なる脅迫と非難に深く憂慮している」と述べた。「ガザ地区のジャーナリストたちが、根拠のないハマスのテロリストだという主張のもとイスラエル軍の標的となり殺害されたという証拠が増えており、アル・シャリフ氏の安全に対する懸念には根拠がある」とカーン氏は述べた。アルジャジーラは、イスラエル当局が同局のスタッフとハマスを結びつける証拠を捏造したと非難しており、最近、イスラエル軍がアル・シャリフ氏を含むガザ地区の同局記者に対して「扇動作戦」を展開していると非難していた。ジャーナリスト保護委員会は先月、このジャーナリストが「イスラエル軍の中傷キャンペーンの標的」となっているため、彼の安全を深刻に懸念していると述べた。イスラエルは2023年10月にガザ地区への戦争を開始して以来、イスラエルによる虐待に関する報道の信用を失墜させようとする動きの一環として、ガザ地区のパレスチナ人ジャーナリストをハマスのメンバーであると繰り返し非難している。下記リンク先のはアルジャジーラの「とても暗い朝: ガザでイスラエルに殺害されたアルジャジーラのスタッフの葬儀の痛みと悲しみ」から始まったライブ・アプデ―ト記事です。

aljazeera  ‘A very dark morning’: Pain and grief as funerals held for Al Jazeera staff killed by Israel

2025年8月10日

スペインのバルセロナが観光客の群れに牙をむく

Mural
エリアス・テーニョの壁画「観光客が1人増えれば隣人は1人減る」ヴァレンシア ©2024 ニコラス・ヴィジェ
岩波文庫(2019年8月

ルイス・デ・カモンイス(ca.1924-1580)の叙事詩「ここに地終わり海始まる」に惹かれてポルトガルを旅したのはいつだったろうか。ユーラシア大陸最西端のロカ岬は無論のこと、修道院を改装したホテル、そして真夏にも関わらず食した生牡蠣、西欧人は避けると聞いていた蛸飯、哀愁を帯びたメロディーと、人生の喜怒哀楽を歌う歌詞が特徴の民族歌謡ファドなど思い出は尽きない。今考えると何故スペインに目を向けなかった不思議である。スペインといえば闘牛に象徴される、いわばマッチョとも言えそうなイメージを、否、誤解を抱いていたからかもしれない。しかしその後、スペイン内戦に関した書籍を読み漁り、考え方が変わった。バルセロナ生まれの小説家、マルセー・ルドゥレダ(1908–1983)が1960年に亡命先のジュネーブ書いた、カタルーニャ文学の代表作である『ダイヤモンド広場』に衝撃を受けたのである。

私の意見では内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である。初めてこの小説をスペイン語訳で読んだとき、私は目がくらむような衝撃を受けた。そしてそれから何度読み直したことか。そのうち何回かはカタルーニャ語で読んだのである」「たぶん、ルドゥレダは、私が知り合でもないのに訪ねて行った唯一の作家だと思う。

これは訳者あとがきに引用されている、ノーベル賞作家のガブリエル・ガルシア=マルケス(1927–2014)の言葉である。そのバルセロナのサグラダ・ファミリア付近で2024年4月27日、観光バスが封鎖され、水鉄砲を浴びせられ「観光の火を消そう」というスローガンが書かれた横断幕がバスの前面に貼られた。これは観光産業が街を締め付けている現状に対する、注目を集める抗議活動であり、観光化のプロセスと、声高に叫ばれる地元住民の反発との間の緊張の高まりを浮き彫りにした。

Protesters
バルセロナのオーバーツーリズムに抗議してデモ更新する住民たち ©2025 英国放送協会

大規模な抗議活動により、バルセロナは略奪的かつ搾取的な観光の悪影響に対する社会的抵抗の代名詞となったが、バルセロナだけではない。カナリア諸島、マラガ、バレアレス諸島などの人気の観光地では、過去1年間に観光の行き過ぎに反対する大規模な抗議活動が行われた。人々はうんざりしており、事態は文字通り悪化の一途を辿っている。「観光客は帰れ」というスローガンが落書きされた観光客向けアパートが、スペインの多くの都市でほぼ至る所で見られるようになりました。しかし、責任があるのは個々の観光客ではなく、数十年にわたり、無数の住民を徐々に自宅や地域から追い出してきた観光への過度な依存である。しかし、なぜこのような事態に至ったのだろうか? 新型コロナウイルス感染症によるロックダウンの後、国際旅行が回復し、バルセロナをはじめとする地中海沿岸の都市では驚くほど多くの観光客が戻ってきた。しかし、観光客が自分たちの犠牲の上に都市空間を変貌させていることに、地域社会の不満が高まり、社会不安が高まったのである。わが京都も観光公害が問題になっている。住民の怒りが露わになりつつあるが、観光客に直接罵声を浴びせるには至ってない。下記リンク先は英国放送協会サラ・レインズフォードの「バルセロナの観光に反対する抗議者と住民たち」です。

BBC News  The protesters and residents pushing back on tourism in Barcelona by Sarah Rainsford