Frank Rinehart |
ドイツ系アメリカ人の写真家フランク・ラインハート(1861-1928)は、イリノイ州ロディ(現メイプルパーク)に生まれた。1870年代に兄のアルフレッドとともにコロラドに移住し、デンバーのチャールズ・ボーム写真館に就職した。1881年、ラインハート兄弟は、西部劇の写真で広く知られるようになった写真家ウィリアム・ヘンリー・ジャクソン(1843–1942)とパートナーシップを結ぶ。ジャクソンの教えを受け、ラインハートはプロの写真技術を完成させ、アメリカ先住民の文化にも強い関心を持つようになった。1885年9月5日、ジャクソンのスタジオの受付嬢だったアンナ・ランサム・ジョンソン(ウィラード・ベミス・ジョンソンとフェベ・ジェーン・カーペンターの娘)とコロラド州デンバーで結婚した。同年ネブラスカ州オマハに移住、ダウンタウンのブランデイス・ビルにスタジオを開いた。二人の間にはルースとヘレンという二人の娘が生まれた。1898年、トランス・ミシシッピ万国博覧会と同時に開催されたインディアン会議に際し、ラインハートはこのイベントとそれに参加したアメリカ先住民の人々を撮影するよう依頼された。後に写真家エドワード・カーティス(1868–1952)に雇われることになる助手のアドルフ・ムアー(1860-1913)とともに「世紀末のインディアン指導者を撮影した最も優れた写真のひとつ」とされる作品を作り上げた。
カンザス大学スペンサー美術館の元写真学芸員であるトーマス・サザール(1951-)はラインハートのコレクションについて次のように語っている。
そのドラマチックな美しさは、それまでの繊細さに欠けるアメリカ先住民の写真とは一線を画すものであった。ラインハートの写真は、剥離した民俗学的な記録ではなく、表情の強さを重視した個人の肖像画である。ラインハートとムアーは、インディアンの被写体をこのように威厳をもって描いた最初の写真家ではないが、広く見られ、配布されたこの大きな作品群は、その後のアメリカ先住民の描写を変える重要な影響を与えたと思われる。
ラインハートとムアーは、博覧会会場のスタジオで、ドイツ製レンズ付きの8×10ガラス乾板カメラを使って、インディアン会議に出席するアメリカ先住民を撮影した。
プラチナプリントは、この媒体の持つ幅広い階調を実現するために制作されたものである。インディアン会議の後、ラインハートとムアーは2年間インディア居留地を回り、会議に出席していないアメリカ先住民のリーダーを描くとともに、先住民の日常生活や文化の一般的な側面を描いていった。ラインハートンの写真コレクションは、現在ハスケル・インディアン・ネーションズ大学に保存されている。1994年以来、このコレクションは、インディアン局およびホールマーク財団の資金援助を受けて、整理、保存、複写、コンピュータデータベースへの目録作成が行われている。1898年の博覧会、1899年の大アメリカ博覧会の画像、1900年のスタジオポートレート、同じく1900年にモンタナ州のクロウ機関で撮影された写真などが含まれている。
Frank A. Rinehart (1861–1928) Biography and Works | Smithsonian American Art Museum
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