2023年3月10日

カナダ先住民ファーストネイション略史

Wolfe Teeth of Nakoda Nation
Wolfe Teeth of Nakoda Nation: Photo by Harry Pollard

カナダではイヌイットもしくはメティ以外の先住民を First Nation(最初の部族) と呼ぶ。1910年代初頭、写真家ハリー・ポーランド(1880–1968)はカナダ各地を旅して、西部やアルバータ州に最初に居住した先住民の写真を撮り続けた。サーシー族は、20世紀半ばに200人まで減少したが、その後2,000人まで増加した。彼らは伝統的なドレス、羽毛の頭飾りを身につけ、バイソンを狩る姿で描かれている。アルバータ州公文書館で見ることができるこれらの歴史的な画像は、個人の名前も含まれており、それ自体が物語を語っている。そしてその多くは「孤高の歩くバイソン」や「走るアンテロープ」など、動物をモチーフにした名前である。ヨーロッパとの接触以前のアルバータ州の先住民には、シクシカ族、カイナイ族、ピイカニ族、グロ・ヴァントル族などがいた。クートネイ族やクロウ族などの他のグループは、バイソンを狩るためにこの土地に遠征し、戦いを仕掛けた。ビーバーの一派であるツウ・ティナ族が土地の中央部と北部を、北部はスレイビー族が占拠していた。

Woman smoking meat
Woman smoking meat

1534年、ジャック・カルティエ(1491–1557)というフランス人探検家がカナダにやってきた。彼は8年の間に3回のカナダへの航海を行った。最初の航海では、セントローレンス湾に入り、探検した。2回目の航海ではセント・ローレンス川に沿って、イロコイ族の町スタダコナ(ケベック州)とホチェラガ(モントリオール)に到達した。この地域のイロコイ族は、この川は3カ月の旅を要するほど西に伸びていると説明した。ヨーロッパ人は初めて、この土地の広大さを知ることになった。カルティエは、指示書にある「大量の金とその他の貴重なもの」は見つけられなかったが、湾岸の豊富な漁場と本土の毛皮を見つけ、ヨーロッパの商業的利益を誘った。その後3世紀にわたり、フランス、イギリスをはじめとするヨーロッパの入植者たちは、東部での漁業や毛皮貿易で繁栄し続けることになる。土地や植民地の設立に関わる多くの戦争や戦いを経て、入植者や探検家たちは徐々に西へと移動し始めた。カナダ西部は、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてアメリカからの着実な移民によって急速に発展した。多くの移民が森林を切り開き、木材を切り出し、豊かな土壌を耕した。土地に対する需要が高まり、人々はさらに西の開拓地に目を向けるようになったのである。毛皮貿易が衰退していく中で、イギリス政府や英領北アメリカの指導者たちは、大草原の農業の可能性に関心を持つようになる。

Joe Big Plume
Joe Big Plume of Tsuu T'ina Nation

1867年、カナダ連邦が誕生した。1870年、カナダはハドソンズ・ベイ・カンパニーからルパートランドとノースウェスト・カンパニーを購入し、西部と北極圏全域をノースウェスト・テリトリーと銘打った。1874年、カナダは後のアルバータ州で存在感を示し始め、ノースウエスト騎馬警察を草原を越えて現在のレスブリッジに派遣し、フォート・マクレオドを設立した。1875年には、現在のカルガリーとエドモントンに砦を築く。1883年にカナダ太平洋鉄道がカルガリーまで開通した。ナンバード条約とは、1871年から1921年にかけて、カナダ政府と先住民の間で結ばれた11の条約である。政府は条約によって先住民を白人や植民地の社会と文化に同化させることができると考えた。先住民は、条約を自分たちの伝統的な領土の分配を交渉するための手段だと考えていた。政府の交渉担当者は、伝統的な領土と引き換えに、土地の特別な権利、現金支給、狩猟・漁具、農業用品の配布など、さまざまな約束を先住民族にした。これらの合意条件は条約によって異なり、論争や争いが絶えない。条約は現在もなお、先住民族コミュニティに法的・社会経済的影響を及ぼしている。

Native American  Canada's First Nations people in rare historical photos by Harry Pollard, Early 1910s

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