2021年12月10日

一休宗純『狂雲集』を読む

紙本淡彩一休和尚像
紙本淡彩一休和尚像 伝:墨斎筆(東京国立博物館蔵)

南海電鉄住吉大社駅を降りて、路面電車の軌道を渡ると大きな太鼓橋が見えた。反橋(そりばし)と呼ぶそうだ。雪道ですべり転んで、足首を骨折した後遺症が残っているので、一瞬ためらったが登ることにした。川端康成が「上るよりもおりる方がこはいものです」と書いたことでも知られているが、てっぺんからは登山用のステッキを頼りにおそるおそる降りた。四角柱の鳥居をくぐると、第一本宮から第四本宮にいたる「住吉造」と呼ばれる四棟の本殿が視界に入った。一休宗純は次のような漢詩を詠んでいる。富士正晴『一休』(日本詩人選27 筑摩書房)掲載の白文(原文の漢文)および読み下し文を引用してみよう。[注]

優遊且喜薬師堂  優遊して且つ喜ぶ薬師堂
毒気便々是我腸  毒気便々是れ我が腸
慙愧不管雪雲鬂  慙愧管せず雪雲の鬂
吟尽厳寒秋点長   吟じ尽す厳寒秋点長し
筑摩書房(1971年)

柳田聖山はこれを「ぶらりとやってきて、何とまあ嬉しいことか、薬師さまの御堂ではないか、毒気で肚いっぱいの、救われぬボクであった。ありがたや、雪か霜のような、髪の白さを気にかけず、悲しい歌にききほれて、長い厳しい冬の一夜が(あっという間に)過ぎたのである」(柳田聖山訳『狂雲集』中公クラシックス)と訳している。1470(文明二)年、一休が盲目の旅芸人、森女(しんにょ)が歌う艶歌に聞き惚れたときのことを詠んだものである。さて薬師堂は何処にあるのだろうか。水上勉著『一休を歩く』(集英社文庫)によると、住吉大社の第一本宮だという。同書には元々は神仏混合の社で、第一本宮に薬師如来を祀ったいう記述がある。社務所に尋ねたところ、第一本宮に薬師如来はないが、かつて広大な敷地を有した神宮寺があったことは確かで、本尊は薬師如来だったという。ただ『狂雲集』に登場する薬師堂が現在の第一本宮とは言い切れないという。水上氏はここで舞楽舞を観て、森女は巫女ではなかったかと逞しい想像をしている。しかし盲目の女性がはたして巫女を務められるか、ちょっと疑問である。一休が艶歌を聴いたと明記しているし、たぶん瞽女(ごぜ)の身分ではなかったかと私は想像している。翌1471(文明三)年、一休は住吉大社で森女と再会、以後同棲することになった。78歳と高僧と30歳前後の女性の恋である。

楚台応望更応攀  楚台応に望むべし応に攀ずべし
半夜玉床愁夢顔  半夜の玉床愁夢の顔
花綻一茎梅樹下  花は綻ぶ一茎梅樹下
凌波仙子遶腰間  凌波の仙子腰間を繞る
中央公論社(2001年)

これは「美人陰有水仙花香」(美人の陰〔ほと〕に水仙の花の香有り)という題がついた漢詩だが、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。柳田聖山はこれを「楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは、人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった。たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと、波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる」と訳している。1474(文明六)年に一休は第47世大徳寺住持となり、戦火に焼亡した大徳寺の復興を手がける。そして現京田辺市薪里ノ内の酬恩庵一休寺に移り、1481(文明十三)年に同庵で入寂するまで、二人は仲良く一緒に暮らしたのである。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっている。そして以下の辞世の句を残した。

朦々として三十年 淡々として三十年
朦々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ
借用申す昨日昨日
返済申す今日今日
借りおきし五つのもの(地水火風空)を
四つ(地水火風)返し
本来 空に いまぞもとづく

[注] 柳田聖山訳『狂雲集』には白文の記載がなく。読み下し文に句読点がついている。漢字は象形文字であり、それ自体が美しいので、富士正晴『一休』掲載の白文および読み下し文を引用、現代語訳のみ柳田聖山訳を引用した。なお『狂雲集』自体の理解のためには後者が分かりやすいので、併せて写真と共に紹介した。

PDF  芳澤元「一休宗純と三途河御阿姑」(東京大学史料編纂所研究紀要第28号)の表示とダウンロード

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