2018年5月7日

ドロシア・ラング「出稼ぎ労働の母」に学ぶ


大恐慌時代、米農業安定局(FSA)はドロシア・ラングやウォーカー・エヴァンスなどの写真家を集め、人々の窮乏生活を記録するプロジェクトを作った。一説にはルーズベルト大統領の発案と言われ、いわば失職中の写真家を救済したという側面もあったようだ。このプロジェクトは、戦争情報局(OWI)に引き継がれたが、膨大な数のネガとプリントが米国議会図書館(LOC)に所蔵されている。これらの貴重な記録写真がデジタルアーカイブされているのは言うまでもない。この写真に記憶がある人は多いと思う。1936年2月あるいは3月、カリフォルニア州ニポモで撮影されたもので、女性の名はフローレンス・トンプソンだった。LOC のサイトにはドロシアが『ポピュラー・フォトグラフィー』1960年2月号に寄稿した「忘れることができない請負仕事」が掲載されている。「飢えて途方に暮れた母親を見て、まるで磁石に曳かれるように近づきました。私の存在とカメラについてどう説明したかを覚えていませんが、彼女が私に全く質問しなかったのを覚えています。近づきながら、同じ方向から5枚撮りました。私は彼女の名前、あるいは境遇について尋ねませんでした。年令を語ってくれたのですが、32歳でした。この辺りの畑の凍った野菜、そして子どもたちが殺した小鳥で生き続けてきたと彼女は言います。食物を買うために車から外したタイヤをちょうど売ったところでした。纏わりつく子どもたちと一緒に差し掛けのテントに座った彼女は、写真が助けになることを知ってるようで、だから私を助けてくれたようです。これに関しては一種、対等でした」。拙訳で恐縮である。


このビデオは写真家のアプローチを垣間見ることができ、非常に興味深い。最初は遠くからテントの全景、そしてカメラはぐっと近づき、母子に迫っている。途中で母親が気付いたことは容易に想像できる。写真家と被写体の間に会話があったことは上述の記事で分かるが、最後に撮ったコマが会話の後なのか不明である。写真を撮ることに対し、助力してくれたというから、会話後にポーズを付けて撮った可能性もある。原板は4x5インチのカメラで撮られているし、フィルム交換にも時間がかかったはずで、現代のモータードライブとはまるで違う。二人の会話から生まれた決定的瞬間ではないかと私は勝手に想像している。それにしても、撮られる側、撮る側が対等だったという言葉が印象的である。お互い様という意味なのだろうか。フローレンスの二人の娘が、この写真を非難していないことも特筆に値するかもしれない。FSA の大恐慌記録写真は、官製プロジェクトによるものだったが、アメリカにおけるドキュメンタリー写真の礎を築いたと言える。その系譜は現代アメリカのフォトジャーナリズムに継承されているのだろうか。写真の副題は Migrant Mother なのだが、日本では一般に「移民の母」と訳されている。しかしフローレンス・トンプソンは、いわゆる外国からの移民ではない。1903年にオクラホマ州インディアン・テリトリーのフローレンス・レオナ・クリスティ生まれ。17歳で結婚し、その後農場や木工のためにカリフォルニアに移住した。1963年、ロサンゼルスからワトソンビルまで運転している間に車が故障し、ピーピッカーズキャンプに牽引して修理した後、ドロシア・ランゲと会ったという。私はスタイベックの小説『怒りの葡萄』を思い出した。

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