2024年9月17日

悩ましい日本語長音のローマ字表記

ブリタニカ百科事典電子版

京都市内に KOHYO という看板を掲げたスーパーマーケットがある。私は「こひょー」と読んでいたのだが、ネット検索してウェブサイトを探したところ、経営企業の漢字表記は「光洋」、すなわち「こうよう」と読むことが分かった。つまり "OH" を「おう」「おー」と読ませたいということらしい。ジョン・F・ケネディ大統領が銃撃を受けた際、隣に座っていたジャクリーン夫人は「オー、ノー」と叫んだそうである。英語では "Oh, No!" と書く。しかしだからと言って、やはり KOHYO が「こうよう」「こーよう」というのはちょっと無理な感じがする。ところで私の姓は大塚だが、パスポートやクレジットカードには "OTSUKA" と印字されている。これをそのまま読めば「おつか」となり「小塚」と区別がつかない。振り仮名をふる場合は「おおつか」なので "OOTSUKA" が正しいと思うのだが、ヘボン式ではどうやらダメらしい。実際の発音は「おーつか」だから、パスポートでは20年前の2004年4月以降から "OHTSUKA" "OUTSUKA"と表記できるようになったようだ。

ローマ字表記分類

それでは「京都」はどうだろうか。読み方は「きょうと」だから訓令式ローマ字 "KYOUTO" としたいところだが、英字新聞はじめ一般に"KYOTO"と表記する。これじゃ「きょと」となってしまう。たまに "KYŌTO" と長音記号をつけた表記も見かけるが、ごく稀で普及していると思えない。それではなぜ "KYOTO" なのだろう。これには二つの理由が考えられる。ひとつは日本語では「オウ」と「オオ」を区別しないこと。そして英語が例えば New York(ニューヨーク)が「音を伸ばす」という概念を持たないことに要因があるようだ。何故こんなことを書くのか。私は写真共有サイト Flickr やソーシャルメディア Facebook に写真をポストする場合、地名その他を外国人に分かるようにローマ字で書いている。例えばずっと長い間京都の「四条通り」を "Shijo-dori" と書いていたが、最近は母音字の上に macron(マクロン)という横棒「¯」を付け "Shijō-dōri" と表記するようになった。ヘボン式ローマ字の長音表記なのだが、この方法が果たして適切なのかどうかちょっと自信がない。というのは外国人、特に英語圏の人々が、私が意図したように発音するか分からないからだ。蛇足ながらブリタニカ百科事典電子版では「京都」を "Kyōto" と長音記号をつけている。

PDF  日本語のローマ字表記の推奨形式 | 東京大学教養学部英語部会 |教養教育開発機構(PDF 206KB)

2024年9月16日

テイラー・スウィフトに対し奇妙な新境地に到達したイーロン・マスク

>Taylor Swift endorses Kamala Harris
Taylor Swift endorses Kamala Harris ©2024 Bart van Leeuwen

世界的人気歌手のテイラー・スウィフトが、11月の米大統領選で民主党候補カマラ・ハリス副大統領に投票すると明らかにした。9月10日に開かれたハリスと共和党のロナルド・トランプ前大統領の両大統領候補によるテレビ討論会後インスタグラムで表明した。これに強く反発したのが、トランプの支持者の電気自動車テスラのオーナーで、ソーシャルメディア Twitter を乗っ取ったイーロン・マスクである。コラムニスト兼編集者のライアン・クーガンが、オンライン新聞インデペンデント紙に「テイラー・スウィフトへのコメントで、イーロン・マスクは奇妙な新境地に達した」という興味深い記事を寄せている。以下にその抄訳をお届けしよう。

Independent

イーロン・マスクはオバマ政権時代に我々が期待したほどの優れた科学者ではなかったかもしれないが、彼は一つの定理を証明した。それは、お金で幸福は買えないということだ。カリスマ性、成熟、共感、そして我が子の愛と尊敬も、お金では買えないのだ。はい、報道を止めてください。イーロン・マスクがまたもや非常に不気味な(そして物議を醸す)発言をしたため、彼の同胞が名乗り出て「いいですか、私たちは技術的にしか関係ありません」と発言するに至った。今回は、今週初めの副大統領候補の討論会での素晴らしいパフォーマンスを受けて、テイラー・スウィフトがインスタグラムでカマラ・ハリスを大統領候補として支持したことを受けて、テスラのCEOが「テイラー・スウィフトに子供を授ける」と申し出た。「わかったよテイラー…君の勝ちだ…私はあなたに子供を与え、あなたの猫を命がけで守ってあげる」とマスクは自身のひどいウェブサイトで述べた。おそらくマスクはこれを面白い皮肉だと思っていたのだろうが、私には性的暴力の脅迫のように聞こえる。マスクの娘、ビビアン・ウィルソンも後に自身の投稿(当然ながらTwitter/Xのライバルであるスレッドに)を書き、その中でマスクのツイートを「凶悪なインセルのナンセンス」と呼んだ。公平に言えば、それはまさにその通りだった。「特に付け加えることはありません。ただただひどいです」と彼女は言った。「観客の皆さんに言いたいのは、そんな風に言われ続けないでほしいということです。気持ち悪いし、侮辱的で、信じられないほど性差別的です。あなた方はもっと良い扱いを受けるに値します。」毎週、この男には何か新しいことがあると断言できます。もし私が億万長者だったら、もう私の話は聞かないでしょう。私はオプティマスプライムの実物大レプリカの中でくつろいでいて、二度と Wi-Fi 接続のデバイスには触れないでしょう (トランスフォーマーは蒸気で動くでしょう)。ただし「リアルライフのトニー・スターク」ではない。マスクは、ネットに常習的にいるため、つまり、明らかに依存心が強いため、自分の子供よりも、13歳の匿名の荒らし集団の承認が欲しいと思っている。 しかし、彼を責められるだろうか? 関係のないウェブサイトでつまらないミームを作ることに人生を費やすために、自分の親族を裏切ったことがない人がいるだろうか? ある意味、それはシェイクスピア的だ。

Elon Musk vs Taylor Swift

これはマスクにとって目新しいことではない。スペースXのオーナーである彼はウィルソンの性転換が極右に転向するきっかけになったと公言しており、故意に彼女を「息子」と性別を間違え「目覚めた心のウイルスに殺された」と述べている。自分の子供のアイデンティティにあまりにも寛容でないために、自分の名前が国際的に認められた「天才」の略語から「騙されやすい負け犬」の同義語になってしまうことを想像してみてほしい。マスクにとって幸運なことには良い仲間がいる。「良い」の定義が「ひどい振る舞いのせいで子供たちに嫌われる有害な金持ち」であるならば。ブラッド・ピットの娘シャイロは最近、俳優の姓を捨てて「シャイロ・ジョリー」と名乗ると発表した。ピットの息子も2020年の父の日に父親を「世界クラスの嫌な奴」「ひどくて卑劣な人」と呼んで話題になったので、そこに愛情がないと言っても過言ではない。ジェネット・マッカーディの母親はあまりにも強引だったので、このiCarly女優は『母が死んでよかった』という本を書いたが、それでもウィルソンがマスクに向ける以上の愛情をもって母親について語った。もしかしたら、遠い将来、彼がもはや民主主義に対する明白で差し迫った脅威ではなくなったときに、彼女は彼と和解するかもしれないが、私はそれを期待しない。幸運なことに、ウィルソンは、 14歳で自立したドリュー・バリモアのように、早くから父親の影響から逃れることができた。誰もがそう簡単に高圧的な親から逃れられるわけではない。例えばブリトニー・スピアーズもそうだ。彼女は、 13年間に及ぶ父親の厳しい後見人制度から解放されるまで何年も戦わなければならなかった。マスクは、多くの凶悪で不快な、時には危険な発言や行為をしてきた。彼がどんな人間かは、私たちはよく知っている。しかし、もし疑問があるとすれば、彼自身の子供も私たちと同じように彼に恥ずかしさを感じているという事実が、決定打となるはずだ。愛し、守り、何があっても受け入れるべき相手をここまで徹底的に疎外してしまったことを知りながら、彼がどうやって生きていけるのだろうか、私にはまったくわからない。慰めにはならないだろうが、失望させるような親を持つほとんどの子供とは違い、ヴィヴィアンは少なくとも、父親に対する自分の気持ちに関しては、決して一人ではないという事実にいくらか慰めを見出すことができるのである。

X_logo

なお下記リンク先はイギリスのガーディアン紙が2023年12月に掲載した「X、イーロン・マスクの暴言で広告主を取り戻すのに苦戦」と題した記事で、大手広告主が資金を引き揚げる中、Xは中小企業への対応を計画という内容である。マスクは「言論の自由至上主義者」を自称してきたが、調査結果で、差別投稿が確認されている。これにより虚偽の情報が拡散され、広告主の離反が相次いだようだ。広告出稿もさることながら、日本の言論人や政治家は悪質な言論プラットフォームと化したXを利用を停止すべきだろう。

The Guardian  X struggling to win advertisers back after Elon Musk's profane outburst | Guardian News

2024年9月14日

写真術における偉大なる達人たち

© Pedro Luis Raota
Pedro Luis Raota (1934-1986) "Lost Childhood" Argentina, Date unknown

2021年の夏以来、思いつくまま世界の写真界20~21世紀の達人たちの紹介記事を拙ブログに綴ってきましたが、2024年9月14日現在のリストです。右端の()内はそれぞれ写真家の生年・没年です。左端の年月日をクリックするとそれぞれの掲載ページが開きます。

21/08/12エイズで他界した写真家ピーター・ヒュージャーの眼差し(1934–1987)
21/08/23ロマン派写真家エドゥアール・ブーバの平和への眼差し(1923–1999)
21/09/18女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
21/09/21自由のために写真を手段にしたエヴァ・ペスニョ(1910–2003)
21/10/04熱帯雨林アマゾン川流域へのセバスチャン・サルガドの視座(born 1944)
21/10/06アフリカ系アメリカ人写真家ゴードン・パークスの足跡(1912–2006)
21/10/08写真家イモージン・カニンガムは化学者だった(1883–1976)
21/10/10現代アメリカの芸術写真を牽引したポール・ストランド(1890–1976)
21/10/11虚ろなアメリカを旅した写真家ロバート・フランク(1924–2019)
21/10/13キャンディッド写真の達人ロベール・ドアノー(1912–1994)
21/10/16大恐慌時代をドキュメントした写真家ラッセル・リー(1903–1986)
21/10/17自死した写真家ダイアン・アーバスの黙示録(1923–1971)
21/10/19報道写真を芸術の域に高めたユージン・スミス(1918–1978)
21/10/24プラハの詩人ヨゼフ・スデックの光と影(1896-1976)
21/10/27西欧美術を米国に紹介した写真家アルフレッド・スティーグリッツの功績(1864–1946)
21/11/01ウジェーヌ・アジェを「発見」したベレニス・アボット(1898–1991)
21/11/08近代ストレート写真を先導したエドワード・ウェストン(1886–1958)
21/11/10社会に影響を与えることを目指した写真家アンセル・アダムス(1902–1984)
21/11/13ウォーカー・エヴァンスの被写体はその土地固有の様式だった(1903–1975)
21/11/16写真少年ジャック=アンリ・ラルティーグ異聞(1894–1986)
21/11/20世界で最も偉大な戦争写真家ロバート・キャパの軌跡(1913–1954)
21/11/25児童労働の惨状を訴えた写真家ルイス・ハインの偉業(1874–1940)
21/12/01写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの決定的瞬間(1908–2004)
21/12/06犬を愛撮したエリオット・アーウィット(1928-2023)
21/12/08リチャード・アヴェドンの洗練されたポートレート写真(1923–2004)
21/12/12バウハウスの写真家ラースロー・モホリ=ナジの世界(1923–1928)
21/12/17前衛芸術の一翼を担ったマン・レイは写真の革新者だった(1890–1976)
21/12/29アラ・ギュレルの失われたイスタンブルの写真素描(1928–2018)
22/01/10自然光に拘ったアーヴィング・ペンの鮮明な写真(1917-2009)
22/02/01華麗なるファッション写真家セシル・ビートン(1904–1980)
22/02/25抽象的な遠近感を生み出した写真家ビル・ブラント(1904–1983)
22/03/09異端の写真家ロバート・メイプルソープへの賛歌(1946–1989)
22/03/18写真展「人間家族」を企画開催したエドワード・スタイケン(1879–1973)
22/03/24キュメンタリー写真家ブルース・デヴッドソンの慧眼(born 1933)
22/04/21社会的弱者に寄り添った写真家メアリー・エレン・マーク(1940-2015)
22/05/20写真家リンダ・マッカートニーはビートルズのポールの伴侶だった(1941–1998)
22/06/01大都市に変貌する香港を活写したファン・ホーの視線(1931–2016)
22/06/12肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたアウグスト・ザンダー(1876–1964)
22/08/01スペイン内戦に散った女性場争写真家ゲルダ・タローの生涯(1910–1937)
22/09/16カラー写真を芸術として追及したジョエル・マイヤーウィッツの手腕(born 1938)
22/09/25死と衰退を意味する作品を手がけた女性写真家サリー・マンの感性(born 1951)
22/10/17北海道の風景に恋したイギリス人写真家マイケル・ケンナのモノクロ写真(born 1951)
22/11/06アメリカ先住民を「失われる前に」記録したエドワード・カーティス(1868–1952)
22/11/16大恐慌の写真 9,000 点以上を制作したマリオン・ポスト・ウォルコット(1910–1990)
22/11/18人間の精神の深さを写真に写しとったペドロ・ルイス・ラオタ(1934-1986)
22/12/10アメリカの生活と社会的問題を描写した写真家ゲイリー・ウィノグランド(1928–1984)
22/12/16没後に脚光を浴びたヴィヴィアン・マイヤーのストリート写真(1926–2009)
22/12/23写真家集団マグナムに参画した初めての女性イヴ・アーノルド(1912-2012)
23/03/25フランク・ラインハートのアメリカ先住民の肖像写真(1861-1928)
23/04/13複雑なタブローを構築するシュールレアリスム写真家サンディ・スコグランド(born 1946)
23/04/21キャラクターから自らを切り離したシンディー・シャーマンの自画像(born 1954)
23/05/01震災前のサンフランシスコを記録した写真家アーノルド・ジェンス(1869–1942)
23/05/03メキシコにおけるフォトジャーナリズムの先駆者マヌエル・ラモス(1874-1945)
23/05/05超現実主義絵画に着想を得た台湾を代表する写真家張照堂(1943-2024)
23/05/07家族の緊密なポートレイトで注目を集めた写真家エメット・ゴウィン(born 1941)
23/05/22欲望やジェンダーの境界を無視したクロード・カアンの感性(1894–1954)
23/05/2520世紀初頭のアメリカの都市改革に大きく貢献したジェイコブ・リース(1849-1914)
23/06/05都市の社会風景という視覚的言語を発展させた写真家リー・フリードランダー(born 1934)
23/06/13写真芸術の境界を広げた暗室の錬金術師ジェリー・ユルズマンの神技(1934–2022)
23/06/15強制的に収容所に入れられた日系アメリカ人を撮影したドロシア・ラング(1895–1965)
23/06/18女性として初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904–1971)
23/06/20劇的な国際的シンボルとなった「プラハの春」を撮影したヨゼフ・コウデルカ(born 1958)
23/06/24警察無線を傍受できる唯一のニューヨークの写真家だったウィージー(1899–1968)
23/07/03フォトジャーナリズムの父アルフレッド・アイゼンシュタットの視線(1898–1995)
23/07/06ハンガリーの芸術家たちとの交流が反映されたアンドレ・ケルテスの作品(1894-1985)
23/07/08家族が所有する島で野鳥の写真を撮り始めたエリオット・ポーター(1901–1990)
23/07/08戦争と苦しみを衝撃的な力でとらえた報道写真家ドン・マッカラン(born 1935)
23/07/17夜のパリに漂うムードに魅了されていたハンガリー出身の写真家ブラッサイ(1899–1984)
23/07/2020世紀の著名人を撮影した肖像写真家の巨星ユーサフ・カーシュ(1908–2002)
23/07/22メキシコの革命運動に身を捧げた写真家ティナ・モドッティのマルチな才能(1896–1942)
23/07/24ロングアイランド出身のマルクス主義者を自称する写真家ラリー・フィンク(born 1941)
23/08/01アフリカ系アメリカ人の芸術的な肖像写真を制作したコンスエロ・カナガ(1894–1978)
23/08/04ヒトラーの地下壕の写真を世界に初めて公開したウィリアム・ヴァンディバート(1912-1990)
23/08/06タイプライターとカメラを同じように扱った写真家カール・マイダンス(1907–2004)
23/08/08ファッションモデルから戦場フォトャーナリストに転じたリー・ミラーの生涯(1907-1977)
23/08/14ニコンのレンズを世界に知らしめたデイヴィッド・ダグラス・ダンカンの功績(1907-2007)
23/08/18超現実的なインスタレーションアートを創り上げたサンディ・スコグランド(born 1946)
23/08/20シカゴの街角やアメリカ史における重要な瞬間を再現した写真家アート・シェイ(1922–2018)
23/08/22大恐慌時代の FSA プロジェクト 最初の写真家アーサー・ロススタイン(1915-1986)
23/08/25カメラの焦点を自分たちの生活に向けるべきと主張したハリー・キャラハン(1912-1999)
23/09/08イギリスにおけるフォトジャーナリズムの先駆者クルト・ハットン(1893–1960)
23/10/06ロシアにおけるデザインと構成主義創設者だったアレクサンドル・ロトチェンコ(1891–1956)
23/10/18物事の本質に近づくための絶え間ない努力を続けた写真家ウィン・バロック(1902–1975)
23/10/27先見かつ斬新な作品により写真史に大きな影響を与えたウィリアム・クライン(1926–2022)
23/11/09アパートの窓から四季の移り変わりの美しさなどを撮影したルース・オーキン(1921-1985)
23/11/15死や死体の陰翳が纏わりついた写真家ジョエル=ピーター・ウィトキンの作品(born 1939)
23/12/01近代化により消滅する前のパリの建築物や街並みを記録したウジェーヌ・アジェ(1857-1927)
23/12/15同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット(1913–2009)
23/12/20哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール(1929-2007)
24/01/08音楽や映画など多岐にわたる分野で能力を発揮した写真家ジャック・デラーノ(1914–1997)
24/02/25シチリア出身のイタリア人マグナム写真家フェルディナンド・スキアンナの視座(born 1943)
24/03/21パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン(1900–1968)
24/04/04報道写真家として自活することに成功した最初の女性の一人エスター・バブリー(1921-1998)
24/04/20長時間露光により時間の多層性を浮かび上がらせたアレクセイ・ティタレンコ(born 1962)
24/04/2820世紀後半のイタリアで最も重要な写真家ジャンニ・ベレンゴ・ガルディン(born 1930)
24/04/30トルコの古い伝統の記憶を守り続ける女性写真家 F・ディレク・ウヤル(born 1976)
24/05/01ファッション写真に大きな影響を与えたデヴィッド・ザイドナーの短い生涯(1957-1999)
24/05/08社会の鼓動を捉えたいという思いで写真家になったリチャード・サンドラー(born 1946)
24/05/10直接的で妥協がないストリート写真の巨匠レオン・レヴィンシュタイン(1910–1988)
24/05/12自らの作品を視覚的な物語と定義している写真家スティーヴ・マッカリー(born 1950)
24/05/14多様な芸術の影響を受け写真家の視点を形作ったアンドレアス・ファイニンガー(1906-1999)
24/05/16芸術的表現により繊細な目を持つ女性写真家となったマルティーヌ・フランク(1938-2012)
24/05/18ドキュメンタリー写真をモノクロからカラーに舵を切ったマーティン・パー(born 1952)
24/05/21先駆的なグラフ誌『ピクチャー・ポスト』を主導した写真家バート・ハーディ(1913-1995)
24/05/24グラフ誌『ライフ』に30年間投稿し続けたロシア生まれの写真家リナ・リーン(1914-1995)
24/05/27旅する写真家として20世紀後半の歴史に残る象徴的な作品を制作したルネ・ブリ(1933-2014)
24/05/29高速ストロボスコープ写真を開発したハロルド・ユージン・エジャートン(1903-1990)
24/06/03一般市民とそのささやかな瞬間を撮影したオランダの写真家ヘンク・ヨンカー(1912-2002)
24/06/10ラージフォーマット写真のデジタル処理で成功したアンドレアス・グルスキー(born 1955)
24/06/26レンズを通して親密な講釈と被写体の声を伝えてきた韓国出身のユンギ・キム(born 1962)
24/07/05演出されたものではなく現実的なファッション写真を開発したトニ・フリッセル(1907-1988)
24/07/07スウィンギング60年代のイメージ形成に貢献した写真家デイヴィッド・ベイリー(born 1938)
24/07/13著名人からから小さな町の人々まで撮影してきた写真家マイケル・オブライエン(born 1950)
24/07/14人々のドラマが宿る都市のカラー写真を制作したコンスタンティン・マノス(born 1934)
24/08/04写真家集団「マグナム・フォト」所属するただ一人の日本人メンバー久保田博二(born 1939)
24/08/08ロバート・F・ケネディの死を悼む人々を葬儀列車から捉えたポール・フスコ(1930–2020)
24/08/13クリスティーナ・ガルシア・ロデロが話したいのは時間も終わりもない出来事だ(born 1949)
24/08/30ドキュメンタリーと芸術の境界を歩んだカラー写真の先駆者エルンスト・ハース(1921–1986)
24/09/01国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線(born 1948)
24/09/09アパルトヘイトの悪と日常的な社会への影響を記録したアーネスト・コール(1940–1990)
24/09/14宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ(1931-2024)

子どものころ「明治は遠くなりにけり」という言葉をよく耳にした記憶がありますが、今まさに「20世紀は遠くなりにけり」の感があります。いわば時の流れに私たちは逆らえません。掲載した作品のほとんどがモノクロ写真で、カラーがごくわずかのなのは偶然ではないような気がします。二十世紀のアートの世界ではモノクロ写真が主流だったからです。デジタルカメラが主流の現在でもモノクロ写真に拘っている写真家も少なくありません。しかしカラーの写真も重要で、ジョエル・マイヤーウィッツとシンディー・シャーマン、サンディ・スコグランド、ジャン・ボードリヤール、 F・ディレク・ウヤル、マーティン・パー、コンスタンティン・マノス、久保田博二、ポール・フスコ、エルンスト・ハースの作品を取り上げました。

camera   Famous Photographers: Great photographs can elicit thoughts, feelings, and emotions.

宗教的または民俗的な儀式に写真撮影の情熱を注ぎ込んだラモン・マサッツ

Grape Harvest
Grape Harvest, Jerez de la Frontera, Spain, 1963
Ramón Masats

ラモン・マサッツは1931年3月17日、スペイン国バルセロナのカルダス・デ・モンブイに生まれた。彼が写真の世界に興味を持ち始めたのは、兵役に就いていたときだった。退屈していた彼は『Photographic Art』誌を発見した。同誌に触発された彼は父親から盗んだお金でカメラを手に入れ、初めて写真を撮り、テラサのカジノ・デル・コメルシオの写真サークルに登録した。彼の写真技術は独学であり、歴史家のローラ・テレは「フランスのドキュメンタリー写真に近く、彼の革新的な構図と、とりわけ、事前の研究やレタッチなしに、最も身近な現実を直接的かつ自発的な方法で捉えることによって、この技法の更新に参加した」と解説している。後に彼は「アンリ・カルティエ=ブレッソンは私の師匠であり、私にとって彼はあこがれのリーダーである。スペインのブレッソンと呼ばれるのはお世辞でも嬉しい。私はそれが短所だとは思わない」と述懐している。1950年代の彼の写真は、私たちを現代へと導いてくれる。1953年、22歳のときに発表した "Reportaje sobre Las Ramblas"(ランブラス通りについての報告)をきっかけに、マサッツは自らを「職人」と定義する。バルセロナを舞台にしたこの作品は、テーマ性に富んでいたが、彼のキャリアを通じて、特定のテーマとは無縁であった。翌年、彼はカタルーニャ写真協会に加わり、リカール・テレスなどの仲間と経験を共有した。

>Courses in Christianity
Courses in Christianity, Toledo, Spain, 1957

カタルーニャ写真協会のグザヴィエ・ミゼラクスはマサッツを「衝動的でバイタリティにあふれ、美学的な訓練も受けずに協会に入ったが、並外れた直感を持っていた。理論的な偏見は、彼の現実へのアプローチを妨げなかった。私は、カメラが何のためにあるのかをこれほど早く理解した人に会ったことがない」と回想している。荘厳で気取ったものから離れ、鋭い皮肉な眼差しと侵犯的なセンスで描く人生のスペクタクルを探し求める、その正確なまなざしの確かさで、彼はすぐに頭角を現した。1955年、24歳のときアーネスト・ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』(1926年)で英語圏の人々に知られるようになったサン・フェルミン祭「ロス・サンフェルミン」をテーマにした写真エッセイの制作に取りかかった。1957年、26歳でマドリードに移り住み "Real Sociedad Fotográfica"(レアル・ソシエダ・フォトグラフィカ)に参加した。

Seminary
Seminary, Madrid, Spain, 1960

2年後、友人のレオナルド・カンテロ、ガブリエル・クアジャド、パコ・ゴメス、フランシスコ・オンタニョン、ホアキン・ルビオ・カミンらと写真グループ「ラ・パランガーナ」を設立し、後にフェルナンド・ゴルディージョ、ジェラルド・ビエルバ、フアン・ドルセ、シグフリード・デグズマンらが加わった。同じ年、7年前の1950年にアルメリアで設立された AFAL グループに参加し、独裁政権に支配されたスペインの写真言語を近代化するために、写真分野でも活動した。「ラ・パランガーナ」はアカデミズムの基準や絵画主義から逃れ、スペインのネオリアリズムに近づいた。写真家たちは郊外に目を向け、それまで存在しないと思われていたものを撮影した。1962年、31歳のとき、7年前に書き始めた『ロス・サンフェルミネス』に加え、イグナシオ・アルデコアがテキストを担当した『ニュートラル・コーナー』を出版した。

Tomelloso
Tomelloso, Ciudad Real, Spain, 1960

批評家たちはこの作品を、彼の最も反響の大きい、文句のつけようのない作品と呼んでいる。大都市のスラム街でわずかな希望のために闘う周縁の者たちが住む、ボクシングという汚れた世界が、まばゆいばかりのビジョンで描かれている。1964年、33歳のとき、ミゲル・デリベスのテキストによる "Viejas historias de Castilla la Vieja"(カスティーリャ・ラ・ビエハの歴史)を出版した。フアナ・モルド・ギャラリーでカルロス・サウラと展示し、タオルミーナで特別賞を受賞した最初のドキュメンタリー "Prado Vivo"(プラド・ヴィヴォ)を制作した。1965 年に "El que Teacher"(先生)を監督し、ビルバオ国際ドキュメンタリー・短編映画祭でミケルディ・デ・プラタ賞を受賞しした。彼は18年間写真から離れ、テレビのドキュメンタリーの制作に専念した。以前はスペインの町とその習慣が一般的なテーマで "Conozca Ud. España"(スペインを知る)" La víspera de nuestro tiempo"「私たちの時代の前夜」"Los ríos"(河川)などのシリーズがあった。

Arcos de la Frontera
Arcos de la Frontera, Cádiz, Spain, 1962

映画 "Si las piedras hablara"(もし石が話せたら)は、コメディアンのチュミ・チュメスが脚本を書き、音楽グループのロス・イベロス、ギレルミナ・モッタ、ビクター・プティ、ホセ・サザトルニルが主演した。そして "Tropical Spain"(トロピカルなスパ会陰)というタイトルの長編映画で最高潮に達したのである。1981年に彼は写真の世界に戻り、それ以来、数冊の本を出版し、1992年のセビリア万国博覧会のための数冊のドキュメンタリーを含む企業や団体で仕事をし、ギャラリーでの回顧展と最新作の両方の複数の会議や展示会を開催した。スペイン国立ソフィア王妃芸術センター、マドリードの王立タペストリー工場、バルセロナのビレイナ宮殿、サンタンデールのマグダレナ宮殿、マドリードのマールボロ美術館などである。ラモン・マサッツは2024年3月4日にマドリードで他界、92歳だった。下記リンク先はマサッツの詳細なバイオグラフィー(スペイン語)である。

camera  Ramón Masats (1931-2024) | Biografía | Jardín Remoto, El metaverso de la fotografía

2024年9月11日

米国大統領選討論会でドナルド・トランプを劣勢に追い込んだカマラ・ハリス

Presidential Debate
Presidential Debate between Kamala Harris and Donald Trump ©2024 Leopold Maurer

カマラ・ハリス副大統領とドナルド・トランプ前大統領は現地時間9月10日夜、ABC ニュースが主催する2024年選挙に向けた最初の討論会に臨んだ。討論会はフィラデルフィアの国立憲法センターで行われ、「ワールドニュース・トゥナイト」のアンカー兼編集長デビッド・ミューアと ABC ニュースライブ「プライム」のアンカーリンジー・デイビスが司会を務めた。冒頭、トランプに握手を求めたハリスに私は「余裕」を感じ彼女の勝利を直観した。激戦となった90分間、ハリスは頻繁に個人攻撃を行って元大統領を動揺させ、メッセージを混乱させ、この大いに期待されていた選挙戦の熱気を高めた。集会の参加者数、議事堂襲撃時の行動、そしてその後トランプ陣営を公然と批判するようになった政権関係者らに対する彼女の痛烈な批判は、トランプを何度も劣勢に追い込んだ。この討論会のパターンは、共和党のライバルであるハリスを煽って、過去の行動や発言について長々と弁明させるというものだった。ハリスは喜んでそれに応じ、時折声を荒げたり首を横に振ったりした。

presidential debate
Kamala Harris shakes hands with Donald Trump at the presidential debate

ハリスは移民問題についての冒頭の質問の中で、トランプ氏の集会は啓発的であるため、米国人は集会に行くべきだと述べた。「人々は疲れと退屈から集会を早めに帰り始める」と語った。この辛辣な言葉は明らかに元大統領を動揺させた。彼はその後、本来は彼の得意分野の一つであるはずのテーマについて、自身の集会の規模を擁護し、彼女の集会の規模を軽視する回答のほとんどを費やした。トランプはオハイオ州スプリングフィールドの町でハイチ移民が隣人のペットを誘拐して食べているという虚偽の報告について長々と批判した。もし討論会の勝敗が、どの候補者が自分たちの得意とする問題を最もうまく利用し、弱い分野を擁護するか、あるいはかわすかで決まるとしたら、この夜の討論会は副大統領有利に傾くに違いない。CNN が視聴者を対象に行った即時世論調査では、ハリスの成績が優れていたとの結果が出ている。これは一瞬の出来事かもしれないが、トランプを守勢に追い込むハリスの戦術の成功は、早い時間に経済と中絶が話題になった時点で明らかだった。なお、下記リンク先は両者の発言に対する ABC ニュースによるファクトチェックである。蛇足ながら日本のマスメディアも、例えば自民党の総裁選候補者の発言のファクトチェックをすべきだろう。

abc news  Fact-checking Kamala Harris and Donald Trump's 1st presidential debate | ABC News

2024年9月9日

アパルトヘイトの悪と日常的な社会への影響を記録した写真家アーネスト・コール

Naked Gold Mine Workers
Naked Gold Mine Workers, Witwatersrand, South Africa, 1960
Ernest Cole

写真家のアーネスト・コールは、 1948年に南アフリカでアパルトヘイトが正式に導入される直前の1940年3月21日にプレトリアのエールスタースト地区で生まれた。シャープビル郡の警察署の外に数千人が集まり、白人少数派政府による通帳所持の強制に抗議したとき、彼はまだ20歳だった。その日、少なくとも69人が射殺され、数百人が負傷し、非常事態が宣言された。シャープビル虐殺は南アフリカの解放闘争の転換点とみなされている。それは南アフリカにおける人権侵害の映像が国際ニュースから消えない数十年にわたる時代の始まりとなった。この報道ではコールの写真が目立った。しかしながら同時代の多くの記者とは異なり、彼は抗議活動の記録に重点を置かなかった。その代わりに、コールはアパルトヘイトの構造的暴力を詳細に描写した数百枚の写真を制作した。彼はこれらの写真を写真集にまとめ、国際的に流通させることを狙っていた。1966年、コールは出国許可証を得て南アフリカを去ったが、二度と戻ることはなかった。コールのアパルトヘイトに対する断固たる、包括的な告発である写真集 "House of Bondage"(奴隷の家)は、1967年にアメリカで出版され、その後英国でも出版された。初版発行当時、この写真集は南アフリカで発禁となったが、その中のいくつかの写真は、抵抗運動の出版物を通じて同国に再流入した。この本は現在、新版が発売され、再び広く入手可能となっている。

en wait for at a railway station
Men wait for at a railway station for transport to a mine

コールの奥深いビジュアルエッセイが再び世間の注目を集め、アパルトヘイト下の日常生活の暴力に対する彼の鋭い批判に注目を集めている。南アフリカを離れた後、コールはアメリカで写真家として活動を続け、スウェーデンで過ごした。1980年代までに『奴隷の家』は絶版となった。1960年代と1970年代にアメリカで制作した写真(フォード財団と米国情報局の委託によるものも含む)の所在は不明のままだった。その後、2017年に彼のアーカイブの少なくとも一部がスウェーデンで発見され、コールの家族に返還された。6万枚以上のネガやノートなどの文書が再発見され、アパーチャー財団によるコールの画期的な本の新版の出版につながった。3つの新しい序文が含まれていますが、本の核心は変わっていない。アパルトヘイトによって崩壊した世界を、慎重かつ容赦なく旅する内容である。鉱山、警察と通行証、奴隷教育、貧困の相続人、追放など15のセクションに分かれており、すべてコールの瞬きしない目を通して描かれている。新版には、コールが "House of Bondage" のために意図していたと思われる、これまで未公開だった画像のセクションも含まれているが、作品の主たるメッセージから逸脱しないよう、省略された可能性がある。このセクション "Black Ingenuity"(黒い創意工夫)には、ミュージシャン、ダンサー、アーティスト、ボクサーの写真30枚が含まれている。

overcrowded train
People scramble to get on an already overcrowded train

これらの写真は、アパルトヘイトにもかかわらず、社会性と創造性の空間がどのように形成されたかを伝えている。コール家に返還された資料の一部は、写真遺産プロジェクトと歴史論文研究アーカイブによってデジタル化され、オンラインで公開されている。何百通もの手紙や新聞の切り抜きの中には、アパルトヘイト下の黒人生活の苦難についての手書きの観察を記したぼろぼろのノートがある。この小さな本で、コールは南アフリカの非人間的な「人種差別のるつぼ」を徹底的に記録する探求の過程で出会った人々の体験を記録している。螺旋状の背表紙を持つ昔ながらのノートには、息子たちを学校に通わせるための家族の苦労を物語る、きれいな筆記体の文字が記されている。コールは、細部に鋭い目を持つ才能あるジャーナリストであることを明かし、アーカイブは『奴隷の家』の制作に投入された広範な調査を明らかにしている。彼の注意深いメモには、母親、労働者、教師の話などが含まれている…ある若者が通帳を紛失したが、報告するのが怖くて試験を受けられなかったことなど。学校に子供たちのための机と椅子がないのはなぜか。ある女性が、仕事人生を通じて自分用のスカートをたった一枚しか買えなかったこと。

>A young man is stopped
A young man is stopped for his pass book by police

反アパルトヘイト活動家で詩人のモンガネ・ワリー・セローテは 『奴隷の家』の新版に収録されたエッセイの中で、次のように述べている。

貧困、差別、法律による搾取と抑圧の対象となるという非常に悲惨な問題にもかかわらず、アーネスト・コールの写真に写っている人々は生命と生活を主張しています。もちろん、コールの写真に描かれた恐怖を見た後に必ず生じる疑問は、なぜ、なぜ恐怖の中で生きている人間がいるのに、その状況は変えられず、変えられなかったのか、なぜ、なぜその状況がこれほど根強く残っているのか、ということです。
The True America
Untitled: The True America, 1968–71

セローテの嘆きに対する答えの少なくとも一部は、不当なアパルトヘイト制度を設計し、実行した責任者がこれまで一度も責任を問われなかったという事実にある。コールの本は、アパルトヘイトがどのようなものであったかだけでなく、奴隷制度を解体するためにまだなすべき仕事が残っていることを強く思い起こさせる。コールは何十年も無国籍者として過ごし、南アフリカだけでなくアメリカやヨーロッパ欧州でも人種差別に苦しみ、精神的に衰弱した。1970年代半ばからホームレスとなり、ニューヨークの地下鉄や、ときどきシェルターや友人宅で暮らしていた。1990年2月19日にニューヨークで膵臓ガンため亡くなった。49歳だった。下記リンク先はケープタウン大学の後援のもとで、2011年に創設された「アーネスト・コール写真賞」の公式サイトである。

camera  Ernest Cole Photographic Award | Centre for African Studies | University of Cape Town

2024年9月7日

アメリカ民主党大統領候補カマラ・ハリスの風刺漫画

Bart van Leeuwen
Luis Enciso
Kenny Tosh
Arcadio Esquivel<
Marian Kamensky

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が民主党候補のカマラ・ハリス副大統領に勝利してほしいとにコメントしたり、共和党の前副大統領マイク・ペンスが、良心の呵責からドナルド・トランプに投票することはできないと表明したり、11月の大統領選を控え、俄かに信じがたい情報が流れ始めている。自民党総裁選候補者にアメリカの大統領選で「もしカマラ」「もしトランプ」だったらという質問をしないメディアに不思議を感ずる。政治情報サイト「リアル・クリア・ポリティクス」によると、全米を対象にした各種世論調査の支持率の平均は、8月30日の時点で、カマラ・ハリスが48.1%、ドナルド・トランプが46.2%で、競り合いが続いている。オランダのアムステルダムを本拠に置く政治風刺漫画の国際ポータルサイト Cartoon Movement にも連日大統領戦を題材にした作品が寄稿されている。ハリスの政治風刺漫画5点を抜粋してシェアすることにした。

cartoon movement  A global platform for editorial political cartoons and comics journalism | Cartoon Movement

2024年9月5日

家族の歌を忘れられないようにすることを生涯の使命としたキャリー・グローヴァー

Carrie Grover
Carrie Grover sits on porch steps, poised to play the fiddle, Bethel, Maine, 1942

キャリー・グローヴァー (1879-1959) は、カナダのノヴァスコシア州ブラックリヴァーでキャリー・スピニーとして生まれた。12歳のときにアメリカのメイン州ベセルに引っ越した。グローヴァーにはアイルランド、スコットランド、イングランド、ウェールズの血を引く先祖がいた。彼女の父と母はともに歌手で、伝統的な歌を別々に、あるいは一緒に歌っていた。後年、幼少期に起こったある出来事を思い出し、それが彼女に長く影響を与えることになる。それは、父親が母親に、自分たちが亡くなったら誰も昔の家族の歌を歌わなくなるだろうと言っているのを耳にしたことだった。これがきっかけで、できる限り多くの歌を覚え、また他の人に伝えられるよう、歌の歌詞をに書き留めた。父親が歌った歌のひとつに「アーサー・マクブライド」がある。これは、19世紀初頭にアイルランド北部、おそらくドニゴールで作曲されたと学者たちが推定したいるバラードある。若いアイルランド人が英国軍に徴兵しようとする徴兵隊に抵抗する物語である。つまりこれは英国帝国主義に対するアイルランド人の抵抗の歌である。グローヴァーは、叔母 (父親の妹) もこの歌を歌っていたと信じていたので、おそらく、フォークソングのレパートリーが豊富な歌手だった祖母から学んだのだろう。1940年12月、アメリカ議会図書館の民俗学者アラン・ロマックスのラジオ放送を聞いたグローヴァーは、彼に手紙を書き、自己紹介と家族の歌について伝えた。ふたりの文通は少なくともロマックスが議会図書館を去るまで続いた。

Bob Dylan – Good As I Been To You

彼女の強い要望で、当時26歳のアラン・ロマックスはグローヴァーを「キャリーおばさん」と呼んだ。1941年4月、姪を訪ねてヴァージニア州とワシントン D.C.を旅し、その後ニュージャージー州に息子を訪ねた。この旅の間、議会図書館の録音室でロマックスに、姪と息子の家でシドニー・ロバートソン・カウエルに録音され、フォークソング・アーカイブに88曲の歌とフィドルの曲が寄贈された。彼女の歌は後にエロイーズ・ハバード・リンスコットによって録音され、写真も撮られ、その資料もエロイーズ・ハバード・リンスコット・コレクションの一部として図書館に収蔵された。1941年4月に議会図書館でアラン・ロマックスの前で「アーサー・マクブライド」を歌った。旅の後も、彼女は自分自身と家族の歌を擁護し続けた。母校であるメイン州のグールド・アカデミーの協力を得て、グローヴァーは1953年に歌の多くを歌詞と曲にまとめた本 "A Heritage of Songs"(歌の遺産)を出版した。1970年代、アイルランドのフォークシンガー、ポール・ブレイディは、アメリカ人の友人を訪ねた際にこの本を目にした。この歌がアイルランドと関連していることに気づいたブレイディは1976年に「アーサー・マクブライド」を録音、アイルランドフォークリバイバルの名曲となった。この歌は、ボブ・ディランの CD アルバム「グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー」でカバーされた。下記リンク先はアメリカ議会図書館のアメリカフォークライフセンターの民俗学者スティーブン・ウィニックによるブログ記事「ポール・ブレイディ、キャリー・グローヴァー、ボブ・ディランと "アーサー・マクブライド"」である。

Library of Congress  Paul Brady, Carrie Grover, Bob Dylan, and "Arthur McBride" | Posted by Stephen Winick

2024年9月3日

断捨離で蘇った自作の写真

AFTER
AFTER

千葉市立緑町中学校時代の同窓生だった俳優の高橋英樹は、大掛かりな断捨離を実行して話題になった。ウェブサイト「遺品整理の教科書」によると、彼がこの断捨離で処分した品はなんとトラック約8台分、33トンにも及んだそうである。2017年7月23日放送の日本テレビのバラエティ番組「行列のできる法律相談所」で、娘の真麻さんから「あなたが死んだら全部ゴミ!」と一喝されたことがきっかけのようだ。断捨離で処分した、例えば衣類の場合、スーツ1,000着、ネクタイ600本、靴150足、バッグ100個だったというから凄い。高橋英樹と比べると余りのもスケールが小さいが、私もささやかな断捨離を行った。ターゲットは書斎兼寝室に鎮座していた、幅110センチ高さ200センチの、巨大な引き出し付きシェルフだった。

BEFORE
BEFORE

輸入骨董家具で、私の趣味が凝縮収納されていた。すなわち国内外の写真集、音楽を中心にした書籍、レコード及び CD の音楽リソース、そしてそれらを演奏するオーディオ装置など。写真には写っていないが、天板上にはスピーカーが乗っていた。逆に言えば再生装置を放棄したわけだから、レコードや音楽 CD が無用の長物になったしまったのである。ただ希少性が高く、なかなか手に入らないものは残すことにした。音楽鑑賞はかなり音質が落ちるが PC オーディオに切り替えた。ネットで「断捨離」をキーワードで検索すると、そのマイナス面を強調している記事に出会う。その最たるものが、思い出の品を処分することで、気持ちにぽっかりと穴が開いたように感じるケースである。レコードや音楽 CD すべての処分はちょっとやりすぎたかなと思うが、茶褐色のシェルフが消え、さらに隣にあった書棚を撤去したら、大きな白壁が出現した。その壁に生まれて初めて自作の写真を飾ってみたら、新たな風が流れてきた。これはまさに、捨てたもんじゃない。

Ameba Blog  やましたひでこのオフィシャルブログ | 断捨離で日々是ごきげんに生きる知恵 | アメーバブログ

2024年9月1日

国際的写真家集団マグナム・フォトの女性写真家スーザン・メイゼラスの視線

Carnival Stripper
Carnival Stripper, Tunbridge, Vermont, 1975
Susan Meiselas

スーザン・メイゼラスはアメリカのドキュメンタリー写真家。1976年から国際的写真家集団マグナム・フォトに所属し、2007年に会長に就任した。現在はメキシコ在住のスペイン人写真家クリスティーナ・デ・ミデルが担当している。1970年代に戦争で荒廃したニカラグアやアメリカのカーニバルのストリッパーを撮影した写真で最もよく知られている。彼女は自身の写真集を数冊出版しており、また他者の写真集の編集や寄稿も行っている。作品はニューヨーク・タイムズ、タイムズ、タイム、ゲオ、パリ・マッチなどの新聞や雑誌に掲載されている。1979年にロバート・キャパ・ゴールドメダルを受賞し、 1992年にはマッカーサー・フェロー奨学金を受領しt。2006年にはイギリスの王立写真協会のセンテナリーメダルと名誉フェローシップを受賞し、2019年にはドイツ証券取引所写真財団賞を受賞した。彼女は30年以上にわたる交際を経て、2001年に彼が亡くなる直前に映画監督のリチャード・P・ロジャースと結婚した。メイゼラスは1948年6月21日、メリーランド州ボルチモアで生まれ、ニューヨーク州ウッドメアの中学校に通った。 1970年にサラ・ローレンス大学で文学士号を取得し、ハーバード大学で視覚教育の修士号を取得した。同大学ではドキュメンタリー写真家バーバラ・ノーフリートに師事した。1986年にパーソンズ・スクールから、1996年にボストン美術館から名誉美術博士号を授与された。ハーバード大学で修士号を取得した後、メイゼラスはフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー映画作品『ベーシック・トレーニング』のアシスタント・フィルム・エディターを務めた。

Tentful of marks
Tentful of marks, Turnbridge, Vermont, 1974

1972年から1974年にかけて、彼女はニューヨーク市の公立学校で働き、ブロンクスの教師と子供たちのためのワークショップを運営し、4年生から6年生向けの写真カリキュラムをデザインした。 1970年代半ば、後に「プリンス・ストリート・ガールズ」と名付けられたプロジェクトに取り組み始めた。これはニューヨーク市のリトル・イタリーの若い少女と思春期の少女を特集したシリーズである。彼女はまた、サウスカロライナ州とミシシッピ州の州立芸術委員会で働き、田舎の学校で写真プログラムを立ち上げ、ニューヨーク市のポラロイドとメディア理解センターのコンサルタントを務めた。彼女の最初の主要な写真撮影プロジェクトは、ニューヨーク市の公立学校で教えながら夏休みに取り組んだ、ニューイングランドのフェアやカーニバルでのストリッパーの記録であった。このプロジェクトはホイットニー美術館での展覧会と、書籍『カーニバル・ストリッパーズ』の出版につながり、書籍にはCDに収録された被写体への音声インタビューが付属された。

Hanging out
Hanging out on Mott Street, Little Italy, New York City, 1976

1970年代後半、メイゼラスはニカラグアの暴動とラテンアメリカの人権問題を記録する。このプロジェクトで最も有名な写真は「モロトフ・マン」で、左手にライフルを持ち、右手にペプシの瓶で作った火炎瓶を投げようとしている男(後にパブロ・バレタ・アルアズと特定された)を写している。これはサンディニスタ革命のシンボルとなり、ニカラグアで広く複製、リミックスされた。後にこの文脈以外で、ジョイ・ガーネットの2003年の絵画「モロトフ」に基づいたインターネットミームを通じて複製され、芸術における流用、変形、引用の著名なケーススタディとなった。ニカラグア革命を撮影した彼女の写真は、ニカラグアの地元の教科書に掲載されている。 1991年のドキュメンタリー映画『革命からの写真』は、戦争から10年後に彼女が撮影した場所に戻り、写真の被写体が写真について振り返る会話を描いている。

Soldiers search bus passengers
Soldiers search bus passengers, El Salvador, 1980

2004年、メイゼラスはニカラグアに戻り、写真が撮影された場所に壁画サイズの19枚の写真を設置した。このプロジェクトは「歴史の再構築」と呼ばれた。1981年、彼女はエルサルバドルで政府軍によって破壊された村を訪れ、ジャーナリストのレイモンド・ボナーとアルマ・ギレルモプリエトと協力してエル・モソテ虐殺の写真を撮影した。1997年、彼女はクルディスタンの100年にわたる視覚的歴史をまとめる6年がかりのプロジェクトを完了させ、自身の作品を書籍『クルディスタン:歴史の影の中で』に統合するとともに、集団的記憶と文化交流のオンラインアーカイブである先駆的なウェブサイト akaKURDISTAN(1998年)を立ち上げた。2008年に政治誌ブルックリン・レールのフォン・H・ブイとのインタビューでメイゼラスは次のように語っている。

Funeral Procession for FSLN guerilla fighter Arlen Siu
Funeral Procession for FSLN guerilla fighter Arlen Siu, Jinotepe, Nicaragua, 1978
私は、目撃すること、そして応答、責任ある応答としての写真撮影の役割と必要性を放棄したくはありません。 私はまた、ある種のナイーブな方法で、画像を作成する行為が十分であると仮定したくはありません。何が十分でしょうか?そして、本や展示会の形で作品を制作、出版、複製、展示、再文脈化するこのプロセスで、私たちは何を知ることができるでしょうか?…私は、それがいくつかの疑問を提起することを願うだけです。

2015年から2016年にかけての数カ月間、メイゼラスはイングランドのウェスト・ミッドランズのブラック・カントリー地区で、避難所にいる女性たちをテーマにしたプロジェクトに取り組んだ。このプロジェクトは、地元のコミュニティ・アート・チャリティ団体であるマルチストーリーとのコラボレーションで制作され、同団体は作品集『自分たちの部屋』(2017年)を出版した。

Library of Congress  Susan Meiselas (born 1948) | Introduction & Biographical Essay | The Library of Congress