2023年1月20日

廃刊が迫る「週刊朝日」と穴吹史士君の思い出

創刊100年を迎えた週刊朝日
創刊100年を迎えた週刊朝日(2022年2月)

朝日新聞1月19日付けデジタル版によると、総合週刊誌「週刊朝日」は、5月最終週に発売する6月9日号で休刊、つまり廃刊になるという。同誌は1922年に創刊、昨年2月に創刊100年を迎えていた。1950年代には100万部以上の発行部数を記録、2008年に発行元が朝日新聞社から朝日新聞出版に移った。昨年12月の平均発行部数は約7万部だったという。私は1972年1月に朝日新聞神戸支局から朝日新聞出版局に異動し「週刊朝日」「アサヒグラフ」「朝日ジャーナル」などの雑誌の写真取材を始めるようになった。その「週刊朝日」のグラビアページ編集を担当していた穴吹史士君と一緒に仕事をしたのは、1981年、東アフリカのケニア取材旅行だった。企画は彼の友人だった共同通信の岡崎記者から持ち込まれたもので、JTB のツアーに同行するものだった。英国のエリザベス2世が王女の時代、父親のジョージ6世死去の報を受けた際に宿泊していた、アバーディア国立公園の樹上ホテル「ツリートップス」に泊まることができたのはラッキーだった。一行と別れた私は、山崎豊子の長編小説『沈まぬ太陽』のモデルといわれた小倉寛太郎氏率いる、サバンナクラブとタンザニアで合流した。その中にライオンなどの哺乳類に背を向け、ひたすら双眼鏡で鳥を観察し続ける人がいた。当時 NHK 文化センターに勤めていた松平康氏だった。母方の叔父が鳥類学の先駆者、蜂須賀正氏博士で、松平氏自身も大の鳥好きだったのである。この旅行の縁が「週刊朝日」の新しいアウトドア企画に繋がったのである。

穴吹史士君(右)と私
故・穴吹史士君(右)と私(ケニア1982年)

ご覧の通りふたりともフライフィッシング用のベストを付けているけど、アームチェアアングラーだった。余談ながら70年代初頭、石川文洋君とこのポケットが多いベストを着けて取材、次第に在京カメラマンの間で流行し、某写真用品会社が商品化した。今思えば、ブランドを立ち上げれば良かったかな?と思ったものである。ケニアから帰国後、穴吹君の提案でアウトドアのページ「WESN(ウェズン)」が創設された。前年に創刊され好評だった小学館の月刊誌「BE-PAL」を意識したものだった。「一般誌でもネイチャーを取り上げないと」というのが彼の言い分だった。良いものは堂々と真似をしようという実利主義である。「WESN」は東西南北を意味したが「Week End Something Natural」というキャッチコピーを謳い、ステッカーを作ったことが懐かしい。連載1回目は松平康氏へのインタビュー、そして松平氏の母方の叔父で、日本最後の冒険家、蜂須賀正氏侯爵を取り上げた。蜂須賀博士はインド洋マスカリン諸島の絶滅鳥「ドド」についての英文の研究書で知られている。鳥類の研究は元侯爵の山階芳麿が創設した山階鳥類研究所に引き継がれた。創立者が皇族出身であることから皇室との縁が深く黒田清子さんも勤務している。と言う訳でやや脱線したが「WESN」は順調に滑り出した。

WESN
アウトドアページ「WESN」のステッカー

同じ年の秋に新潮社から写真週刊誌「FOCUS」が刊行されたが、これがヒットした後に彼は「アクショングラビア」を創設する。例によってやはり「真似しない手はない」という哲学であった。 私も参画したが、彼の方法論を密かに「浪花のアナキズム」と呼んだことを思い出す。洒脱な彼は、実は典型的な大阪人だったのである。昭和天皇が崩御した1989年1月、私は京都に舞い戻り、穴吹君とは仕事場を分かつことになってしまった。西暦2000年のミレニアム、朝日新聞日曜版で「名画日本史」の連載が開始された。その取材キャップが穴吹君だった。再び彼と仕事を共にする機会が巡ってきた。一緒に雑誌の取材をした仲だったが、今度は新聞が舞台だった。ただ日曜版なので、文字通り週刊誌的な仕事、このシリーズの写真撮影が楽しみになったのはいうまでもない。その年の夏、私と穴吹君は筆者の森本哲郎氏と共に丹後への取材旅行に出た。与謝蕪村の足跡を辿る旅だった。蕪村がしばしば訪れたという与謝郡加悦町の施薬寺前の小川に立った私は、草むした小さな橋を撮った。もしかしたら「夏河を越すうれしさよ手に草履」と詠まれた小川かもしれないかと思ったからだ。天橋立の旅館に辿りついた私たちは、お酒をしこたま呑んだ。美酒に酔いながら「大腸ガンの手術をしてね」と穴吹君は笑った。そして時が流れ、2010年、風の便りにガンが肝臓に転移し他界したことを知った。

PDF  創刊100周年『週刊朝日』特別企画「知の力連載」の表示とダウンロード(PDFファイル 2.49MB)

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