2023年12月31日

仏教経典に親しむ大晦日の電子写経

イスラームの聖典クルアーンはアッラーフが、宗祖ムハンマドにアラビア語で伝えたとされるので、原則的には翻訳は禁止されている。日本語訳もあるが、これは聖典ではなく、注釈書として解されるようだ。世界各国すべてのムスリムがアラビア語を理解しているとは考え難い。だからアラビア語を母国語としない人々への布教には、各国語の翻訳書が介在していると思う。ただモスクの尖塔がから流れる、朗々たるアザーンの響きを聴くと、やはりクルアーンはアラビア語こそ神の言葉が伝わるのではないかと思う。年配のカトリック教徒に尋ねたら、聖書の日本語訳はやはり昔の文語体のものがしっくりするという。私が所有している新約聖書はフランシスコ会聖書研究所訳のものだが、脚注が丁寧で、これはお奨めである。キリスト教徒ではない門外漢ゆえ、現代語訳のほうがかえって有難い。さて仏教経典だが、中村元訳『ブッダのことば』など、何冊かの現代語訳版を持っている。しかしこれもクルアーン同様、仏教寺院では読まれることはなく、漢訳経典が一般的である。

傅大士像(京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町の清涼寺)

清涼寺(嵯峨釈迦堂)の経蔵正面に南北朝時代の居士、傅大士像が鎮座している。中に巨大な輪蔵があり 5,480 巻の経典が収められている。回転式の書架で、この輪蔵を一回転させると経典すべてを読んだことになるという。この仕掛けは、たとえ文字の読めない人であっても、気軽に仏の教えに出会えるようにと、傅大士が考えたものだという。このことはふたつの仏教普及環境を暗示していると思う。中国語に訳されながら、中国人でさえ難解だった仏教経典が、中国語そのままでは日本の一般庶民に理解できるはずはない。それに傅大士像を見れば明らかに日本人ではないことが分かるし、多くの仏像がインドやパキスタン、遠くはギリシャの風貌を持っている。つまり土俗の民間信仰が織り交ざったにも関わらず、仏教はやはり外国の宗教なのである。神社仏閣に日々折々参詣するにも関わらず、ムスリムやクリスチャンと比べると日本人の宗教心は薄いとよく言われる。神官の祝詞や僧侶の読経を聴いてもさっぱり分からないことに、その原因があると私は常々思っている。現代日本語訳の経典を導入しないのは多分「ありがたみが薄れるから」という深謀があるのではと勘ぐってしまう。

それでは仏教経典の内容を理解するのはどうしたらいいだろうか。現代語訳を読むのも一方法だが、私は写経が一番良いと思う。漢訳経典の一字一句を筆でなぞることを繰り返すことによって、きっとその意味にも意識が向かうと思うからだ。しかし写経は忙しい現代人にはなかなかできないことかもしれない。そこでさらにお奨めしたいのが電子写経である。京都市山科区の本山本願寺のウェブサイトには、パソコンで経典を打ち込む電子写経のページがある。その他にも検索すればいろいろなサイトが見つかるはずだ。しかしオンラインでする必要もない。経典を購入してタイプするのである。こんな具合だ。仏説摩訶般若波羅蜜多心経観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色…。これは『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』、いわゆる般若心経の一部である。この作業はやってみるとなかなか面白い。例えば「ぎゃーてい」と打っても「羯諦」という字は決して出てこない。昔は漢字コード表を使って漢字を探したが、今は手書き認識パッドを使って見つける。このほうがラクだし、第一本物の写経に相通ずるものがあるからだ。

クリックすると拡大表示されます loupe

これは観音経、つまり鳩摩羅汁訳『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』の最初の部分で、釈尊が無尽意菩薩に観世音菩薩の名の由来を説明するくだりである。これをちょっと電子写経してみよう。ついでに旧漢字を呼び出してみたが、この作業がけっこう面白い。

若有無量百千萬億衆生(若し無量百千萬億の衆生あつて)
受諸苦惱聞是觀世音菩薩(諸の苦惱を受けんに是の觀音菩薩を聞いて)
一心稱名觀世音菩薩(一心に名を稱せば觀世音菩薩に)
即時觀其音聲皆得解脱(其の音聲を觀じて皆解脱することを得せしめん)

要約すると、無量百千万億の生けるものが悩んだら、観世音菩薩の名前を称えなさい、そうすれば菩薩は即座にその音声を観じて解放してくれますよ、と説いている。無量とは、無限の量のことである。百千万億の人間の苦悩を救うには、無限の慈悲の顔が眼が手が必要だろう。これが『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』に繋がるのである。するとなぜ千手観音像が信仰の対象になったが理解できる。クリスマスは教会、正月は神社、でも大晦日は寺院詣りの日本人。どうです、除夜の鐘を待ちながら、あなたも電子写経してみませんか。

仏陀  電子写経 | 入門編 | 初級編 | 中級編 | 上級編 | 英語編 | 本山本願寺(浄土真宗大谷本願寺派)

2023年12月25日

世界の素晴らしい円形建築を集めてみた

Hovenring
オランダの自転車専用斜張橋
moscow
モスクワの円形公共住宅
上海
上海の五差路円形歩道橋
Denmark
デンマークの海岸円形歩道
apple_campus_2
カリフォルニア州のアップル本社社屋

何かと評判が悪い藤本壮介設計の大阪万博リングだが、建築家の山口隆によると、ノーマン・フォスター設計のアップル本社社屋のパクリだという。私も大阪万博リングの完成予想図を見たとき、アップルの社屋が脳裡をよぎった。リング内の池を含め、設計のコンセプトが酷似している。ところでモノの形は禅僧仙厓義梵が描いた落款「〇△□」の三つの図形に集約されると思う。建築に関しては浅学だが、建築物はいわばこの三要素から成り立っているのではないだろうか。もう一つ連想したのが上海万博の際に建設された全周370mの巨大な円形歩道橋だった。建設中のリングを視察した大阪府知事の吉村洋文は「この素晴らしいものを世に残すべきだという意見が多く出るのは間違いない。本当に圧倒的な唯一無二の木造建築物になる」と強調したという。「全部なのか一部なのか、いろいろ考え方はあると思うが、残し方とかいろんなことも含めて検討していくべきだ」と語ったそうだが、保存は無理で、恒久施設ではない。350億円の「世界一高い日傘」といった批判の声が上がっているリング、万博が終了すればただの粗大ゴミ。庶民の税を使った無駄遣いである。日本維新の会が掲げる「身を切る改革」とは何だろうか。万博誘致当事者のひとりである、負けず嫌いの元維新の会の橋下徹の必死の宣伝口上も、悲惨にして誠に哀れそのものである。フト思いついて、世界の素晴らしい円形建築を集めてみた。

Apple Logo  The Ring | Early Development and Construction | Final Design and Jony Ive | Apple Park

2023年12月22日

南極海で立ち往生した探検隊がペンギン肉のステーキで22ヶ月間生き延びる

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Endurance frozen in the ice, Antarctic Ocean. Photo by ©Frank Hurley
 Frank Hurley

1492年にはカメラがなかったため、530年前、クリストファー・コロンブスとその乗組員たちが「新世界」での最初の1週間に見たものが何だったのか、正確に知ることはできない。幸いなことに、他の歴史的探検家たちの活躍を記録するために写真が発明された。20世紀初頭には、写真の売り上げが探検の資金源となった。英国のアーネスト・シャクルトン卿の壮大な南極探検に加わった、オーストラリアの写真家フランク・ハーレーが撮影した以下のような素晴らしい写真があるのも、このような経済的インセンティブのおかげである。ワシントンD.C.のラルズ・コレクションで展示されているこの画像は、恐ろしく失敗した探検がいかにしてハッピーエンドを迎えることができたかを理解するのに役立つ。第一次世界大戦が始まって間もない1914年10月、極地探検家のシャクルトンと27人の隊員(密航者1人を含む)、69頭のそり犬、そして1匹の猫がブエノスアイレスから南極大陸に向けて出航した。

Emperor Penguins
Young Emperor Penguins

南極点はすでに発見されていたが、彼らは南極大陸(1,800マイル)を徒歩で横断した最初の人物になることを目指した。出発点から85マイルも行かないうちに、エンデュラン号は氷の中に閉じ込められ凍りついた。他の世界から遮断された彼らは、さらに22ヵ月間船上で暮らし、ゲームをしたり、寸劇を演じたり、ペンギンやアザラシの狩りの名人になったりして、退屈しのぎをした。さらに半年ほど流氷と荒涼とした無人島エレファント島でキャンプを続けた後、シャクルトンは唯一の望みは救助に向かうことだと悟り、ジェームズ・ケアード号という全長22フィートの救命艇で5人の乗組員とともに出航した。

Footbal
Plyaying Football
Relaying the James Caird
Relaying the James Caird

サウスジョージア島まで17日間で800マイルを航海し、捕鯨ステーションでようやくエンデュランス号を見つけた。一方、エレファント島に戻った待機中の男たちは、ペンギンの肉のステーキとわずかに残ったビスケットと砂糖で数ヶ月を生き延びた。 期間中、彼らが何羽のペンギンとアザラシを食べたかはわからないが、ペンギンとアザラシは、シャクルトンが救助隊を率いて出航した日に、捕らえられた探検家たちがアザラシの背骨を茹でた昼食を食べていたほど、不足しつつあったと伝えられている。

Last of the Ship
The Last of the Ship

写真家フランク・ハーレ―(1885-1962) はずっと遭難した日常生活を撮影し、船の冷蔵庫に作った暗室で現像し、何百枚ものガラス板ネガを作った。最終的に船の残骸が放棄されたとき、彼はそのすべてを手放すことを拒んだ。しかしハーレーは何百枚ものネガを現地に残さざるを得なかったが、生き残った画像は、全員が生き残ったこの22ヶ月に及ぶ努力の驚くべき記録となったのである。

Australian Antarctic Program Frank Hurley (1885–1962) | Antarctic achievements | Awards and honours | Photo Gallery

2023年12月20日

哲学者であることも写真家であることも認めなかったジャン・ボードリヤール

Saint Clément 1987
Saint Clément 1987
Jean Baudrillard 

ジャン・ボードリヤールは、フランスの文化理論家、作家、政治批評家、社会学者、そして写真家だった。1929年7月27日、フランス北東部のランスの小作農の家に生まれ、2007年3月6日にパリで死去した。200余りの論文と20冊の著書を執筆し、最も高名な思想家の一人となった。高校時代には、哲学の教授であったエマニュエル・ペイエのもとで形而上学を学んだ。家族で初めて大学に進学した。ソルボンヌ大学ではドイツ語を学んだ後、ドイツ文学を学んだ。そのため、1960年代の6年間、さまざまな学校で教える機会を得た。教鞭をとるかたわら、文学評論を発表し、カール・マルクス、ヴィルヘルム・エミール・ミュールマン、ペーター・ヴァイス、フリードリヒ・エンゲルス、ベルトルト・ブレヒトの作品を翻訳した。ドイツ語を勉強しているうちに、社会学に傾倒していった。博士論文を完成させると、パリ第10大学(現パリ・ナンテール大学)で教鞭をとるようになった。この頃、ジャン・ボードリヤールは哲学者ハンフリー・ド・バッテンバージュから先見の明があると評価されていた。その後、ボードリヤールはパリのナンテール大学で助教授から准教授、そして教授へと変貌を遂げる。

Fronteira 1993
Fronteira 1993

1986年に社会経済情報研究院に移ってからは、パリ第9大学(現パリ・ドーフィン大学)で教鞭をとる。彼が初めて個人用のカメラを手にしたのは1973年の京都への旅であり、この瞬間が写真へと導いた。信じがたいことだが 40 代半ばから写真を始めた計算になる。ジャン・ボードリヤールほど、モダニズムとポストモダニズムに関わる大きな亀裂を徹底的に描写した理論家は他にいない。彼は写真に関する実践と理論において独特だった。哲学者であることを認めなかったように、写真家であることも認めなかった。彼は新しい考え方と認識を提起することで、写真をまったく新しいレベルに引き上げた。

Toronto 1994
Toronto 1994

彼は物体の周囲から文脈や意味を取り去り、より客観的な方法でそれを見ることを目指した。ジャン・ボードリヤールのものの見方は非常にユニークであることは間違いない。彼の写真は、いくつかの国際的で影響力のある議論において議論の対象となった。ボードリヤールの写真モノグラフの逸話を集めて 北京の中央美術学院美術館がパンフレットにまとめた。ニューヨークの 3A ギャラリーにはボードリヤールの作品に関連した閲覧スペースが設けられていた。彼は写真や文章において、現実の幻想がひび割れたヴェールを通して明らかになるという明確な意識を持っていた。

Luxembourg 2003
Luxembourg 2003

1998年に発表された "Sao Palo" は、彼の仕事を表現したものである。この写真は現実は隠されており、人々は現実が隠れているファサードしか見ていないというボードリヤールの考えを補完する視覚的な詩として機能している。この写真は、神秘的で理解しがたい世界を映し出している。ラスベガスの真っ白な看板(1996年)もボードリヤールの作品で、何が表示されているのか知らない素人はきっと混乱するだろう。看板のような媒体は何も語らないのである。

university  Jean Baudrillard (1929-2007) | Department of Philosophy, Stanford University, 2019

2023年12月18日

ヘンリー・デイヴィッド・ソローの森の生活とターシャ・テューダーの田舎暮らし

"Walden; or, Life in the Woods" by Henry David Thoreau 1854
真崎義博訳(宝島社)

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817-1862)の『ウォールデン;森の生活』を初めて手にしたのは、神吉三郎訳の岩波文庫版で、1970年代末に遡る。これは絶版となり現在は飯田実訳が出ている。同じころギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』やW・H・ハドソンの『ラ・プラタの博物学者』(いずれも岩波文庫)など、自然史に関する本を読み漁ったことを憶えている。1979年に出版された稲本正著『緑の生活』(角川書店)に写真を寄稿したが、そのときこの書籍に関連づけて言われていたのが 『ウォールデン;森の生活』 だった。ずいぶん昔、その飛騨高山オークヴィレッジを再訪したが、斜面に小さな丸太小屋があった。ソローが建てて住んだ小屋を模したものだという。一種のバーチャル空間とはいえ、こんな所に住んだのかと驚いたものである。ソローの "Walden; or, Life in the Woods" は、1854年、すなわち安政元年に刊行された。アメリカのペリーが浦賀に再び来航、横浜村で日米和親条約が調印され、日本が開国した年である。マサチューセッツ州コンコード近くのウォールデン湖畔に自ら建てた小屋に、2年余り暮らした経験を元に書かれたものである。世間と交際を絶つ隠遁生活を目指したのだが、実際には完全な世捨て人になったのではなかったようだ。

Corgiville Fair by Tasha Tudor

それはともかく、今日の環境保全運動の礎を築いた書となったことは、万人が認めるところである。上掲、真崎義博訳のキャプションは2005年刊となっているが、新装版のことで、掲載写真は1981年に刊行され、その後絶版になった本の表紙をコピーしたものである。あとがきによると、訳者は1970年代、ボブ・ディランに心酔し「ボロ・ディラン」のニックネームで知られたシンガー&ソングライターだった。オークヴィレッジと同様、ある時代の雰囲気をそこに感ぜざるを得ない。翻訳にあたって、神吉三郎訳の岩波文庫を参考にしたという。ターシャ・テューダー(1915-2008)について強い興味を抱き始めたきっかけは、NHKが衛星放送で2005年に放映した「喜びは創りだすものターシャ・テューダー四季の庭」だった。絵本作家そして造園家の彼女について、多少の知識はあったものの、その思想のルーツを最初に知ったのはこの放送を通してだった。絵本作家として成功したテューダーは57歳にして、カナダ国境のバーモント州南部の小さな町はずれマールボロに広大な敷地を手に入れた。そこに古風な家を建てて移り住み、19世紀風の田舎暮らしを始める。

I have learned, that if one advances confidently in the direction of his dreams, and endeavors to live the life he has imagined, he will meet with a success unexpected in common hours.
自分の夢に向かって確信を持って歩み、 自分が思い描く人生を送ろうと努めるならば、 きっと思いがけない成功にめぐり合うだろう。
Private World of Tasha Tudor

ソローの『ウォールデン;森の生活』の最後の章に現れる上記の一節は、彼女のいわば座右の銘であり、これは放送の中でも語られていた。夢を持ち、それを追う生活をすれば、思いがけ ない成功にめぐり会えるという。まさにこの言葉通り夢を求め、それを獲得した人生を彼女は送ったと言えるだろう。ところでソローは凍結した湖面の氷の切り出し作業を目撃する。天然氷を冬場に採取し保冷しておき、夏場に南方の都市部で販売するという事業だったが、これを仕切る豪農の名をソローは知る。フレデリック・テューダー(1783-1864)という名前で、ターシャの曽祖父にあたる人物であった。ふたりはこのように氷面下、いや水面下の糸で結ばれていたのである。彼女が俗界から逃れたのは、ソローの強い影響によるものと想像できる。造園については、多くの日本人がよく知っているようだ。ブログ等に余りにも記述が多いので饒舌を控えたい。単に草花が美しいという以上のもの、つまり哲学が、彼女の造園に隠されていると強調することに留めておこう。紹介した図書はいずれも原書英語版だが、特に語学を必要としない幼児用絵本や写真集であるし、英文のほうがフォントが美しいという、私の勝手な好みによるものだ。"Private World of Tasha Tudor" はテューダーの農場生活を、写真家のリチャード・ブラウンが1年間追った記録で、彼女自身の言葉と、100点以上の美しい写真が掲載されている。絵本は『コーギビルの村まつり』、写真集は『ターシャ・テューダーの世界:ニューイングランドの四季』という表題で邦訳出版された。

travel  Walden Pond in the Walden Pond State Reservation, Massachusetts | Nationa Park Service

2023年12月16日

冷戦時代を歌ったカントリー歌手たち

IMAR 117

ジャケットに放射能の警告を表すマークをあしらった、かなり珍しいカントリー音楽のレコードを見つけた。"Cold War Countdown: Country Music Goes To Cold War (1952-1972)" とタイトルされたビニール LP 盤で、2019年にリリースされた。朝鮮戦争からヴェトナム戦争、そして冷戦時代の不安要素を含んだ、オフビートなカントリーミュージックを集めている。トラックリストを見てみよう。

A1 God Please Protect America: Moore & Napier (2:34)
A2 I'm No Communist: Grandpa Jones (2:28)
A3 Ain't I Right: Johnny Freedom (3:14)
A4 Freedom Monkey: Doc Williams (2:40)
A5 The Bearded Bandit of Cuba: Art & Glenda Davis (2:10)
A6 The Bay of Pigs: Red River Dave (2:22)
A7 Ballad of Two Brothers: Autry Inman (3:30)
A8 Fall-Out: Red Castle (2:02)
B1 Little Boy Soldier: Wanda Jackson And The Party Timers (2:36)
B2 Crazy Viet Nam War: Stringbean and His 5 String Banjo (2:42)
B3 Ruby, Don't Take Your Love To Town: Mel Tillis (2:46)
B4 Congratulations (You Sure Made A Man Out of Him): Arlene Harden (4:00)
B5 One More Time, Billy Brown: The Shacklefords (4:02)
B6 The Patriot: Marie Roberson (2:14)
B7 The Craziest War of the Universe: Jefferson County Bluegrass Boys (2:34)
B8 The War Keeps Draggin' On: The Wilburn Brothers (2:54)

オープニングはムーアとネイピアの「神よアメリカをお守りください」で、これに続いてグランパ・ジョーンズが「私は共産主義者ではない」を演奏。さらに、アート&グレンダ・デイビスの反カストロソング「キューバのヒゲの盗賊」、そしてカントリー&ロカビリーミュージシャン、オートリー・インマンの「ふたりの兄弟のバラード」と続く。ワンダ・ジャクソンの「リトル・ボーイ・ソルジャー」がB面のオープニングを飾り、ストリングビーンの1966年のシングル「狂ったヴェトナム戦争」が続く。ヴェトナムで起こっていたことへの不信感や絶望感さえも溢れている。おなじみの曲では、メル・ティリスが歌う「ルビーよ息子を町に連れて行くな」である。マリー・ロバーソンの「パトリオット」はこのレコードが初出ではないだろうか。

Disk

ジェファーソン・カウンティ・ブルーグラス・ボーイズの「宇宙で最もクレイジーな戦争」やウィルバン・ブラザーズのアルバム・クロージング曲「戦争は続く」も同様に反戦歌である。このコンピレーションは「レコードストアデイ2019」のためにリリースされたもので、500枚の限定版となっている。ブラック・ビニールにプレスされたものが250枚、残りの250枚はイエロー・ビニールにプレスされたものだ。このレコードは、これまでのレコード発掘者やキューレーターが見過ごしてしまった隠れた逸品をより深く掘り下げている。そうは言っても、お馴染みの人たちの曲や、多くのカントリーミュージックファンが知っている曲もある。新しいもの、馴染みのあるもの、隠れた名曲が混在しており、国を二分したアメリカ史の重要な時期を記録しているため、カントリーミュージックのファン以外にもアピールできるコンピレーションとなっている。

University  Country Music Goes to War | The University Press of Kentucky | ISBN: 9780813192048

2023年12月15日

同時代で最も有名で最も知られていないストリート写真家のヘレン・レヴィット

hree Girls Playing Dress U
Three Girls Playing Dress Up, New York City, ca. 1940

Helen Levitt

ヘレン・レヴィットは1913年8月31日、ブルックリンのベンソンハーストで、メイとサム・レヴィットの娘として生まれた。 彼女の父親と母方の祖父母はロシア系ユダヤ人移民であった。ニュー・ユトレヒト高校に通ったが、1931年に中退した。ブロンクスの肖像写真家ジェイ・フローリアン・ミッチェル肖像写真スタジオで働き、暗室での現像方法を学び、写真家としてのキャリアをスタートさせた。フランスの写真家アンリ=カルティエ・ブレッソンの作品を見て触発され、35ミリのライカを購入した。1937年、ニューヨークのフェデラル・アート・プロジェクトで子どもたちにアートクラスを教えていたとき、レヴィットは、当時のニューヨークの子どもたちのストリートカルチャーの一部であった、路上に描かれたチョーク画に興味を抱くようになる。1938年頃、彼女は写真家ウォーカー・エヴァンスのスタジオにポートフォリオを持って行き、そこでエヴァンスと共同で "Let Us Now Praise Famous Men"(有名人を讃えよう)を執筆した小説家・映画評論家のジェームズ・エイジとも出会う。彼女はこの2人と親交を深め、時々「エヴァンスの撮影に同行した。この時期、レヴィットはしばしば子どもたち、特に恵まれない子どもたちを被写体に選んだ。

children with masks
The three children with masks, 1939

路上で遊ぶ子供たちを映し出し、ストリート写真を探求する彼女の選択は、当時起こっていたことに抗うものだった。当時のニューヨークでは、労働者階級の多くが公共スペースに出入りすることを制限する法律が制定されていた。これらのコミュニティを統制しようと、直接的にターゲットにした法律が可決されたのだ。騒音に関する新たな禁止事項は、労働者階級やマイノリティのコミュニティをターゲットにしたものであった。その代わりに、安全な新しいエリアが奨励され、それは通常、上流階級や中流階級のエリアに多く建設された。ヘレン・レヴィットはその代わりに、写真の被写体に力を与える方法として、これらの地域に住み、これらの通りで遊んでいる人々の物語を探った。

Untitled
Untitled, New York City, 1940s

1943年にニューヨーク近代美術館で開催された初の個展 "Photographs of Children"(子どもたちの写真)では、レヴィットの作品の多くに見られる人間性が紹介された。この展覧会には、1941年にメキシコ・シティを訪れ、街の生活を撮影した写真も含まれている。エイジは "A Way of Seeing"(見る方法)と題されたレヴィットの写真集の序文を執筆した。その中でエイジはレヴィットの写真を「"私が知っているどんな叙情的な作品よりも美しく、鋭敏で、満足感があり、不朽の作品である」と称賛している。

Boys in the stret
Boys in the street, New York City, ca. 1940

1940年代半ば、レヴィットはエイジ、映画監督のシドニー・マイヤーズ、画家のジャニス・ローブと共同で、アフリカ系アメリカ人の少年を描いたドキュメンタリー "The Quiet One"(静かなるもの)を制作し、賞を受賞した。また、エイジとローブとは、イースト・ハーレムの日常生活を捉えた映画 "In the Street"(街角で)を制作。その後10年間は映画編集と監督業に専念。1959年と1960年にはグッゲンハイム・フェローシップを受け、カラー写真の技術を研究。このプロジェクトから生まれたスライドは、1963年にニューヨーク近代美術館で展示されたが、複製される前に彼女のアパートから盗まれた。

Dog and Girl
Dog and Girl, New York City, 1970

レヴィットは1960年代の残りはフィルム作品に専念し、1970年代に写真を再開、1974年にはニューヨーク近代美術館で大規模な個展を開催した。坐骨神経痛のため、1990年代には自身のプリント制作を断念せざるを得なくなり、ライカを立って持ち歩くことも困難になったため、小型の自動コンタックスに乗り換えた。また、1950年代に肺炎で瀕死の重傷を負ったこともある。インタビューにはめったに応じず、非常に内向的だった。2009年3月29日、ニューヨークで眠るように他界、95歳だった。

MoMA  Helen Levitt (1913–2009) | Works | Exhibitions | Publications| The Museum of Modern Art

2023年12月13日

孤高の詩人エミリー・ディキンソンの難解な作品

Emily_Dickinson

海外文学ではアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)が最も好きで、邦訳されている全作品を読破している。ジャーナリストの文章なので、表現が簡潔、翻訳でもそれが伝わってくる。小説を除けば、自然観察の書籍を愛読、ウィリアム・ハドソン(1841–1922)の『ラ・プラタの博物学者』『鳥と人間』などは繰り返し読んだ。ギルバート・ホワイト(1720–1793)の『セルボーンの博物誌』も好きだが、観察記録ゆえか記述が詳細過ぎる余り、冗長の感は否めない。最たる著書がジャン・アンリ・ファーブル(1823–1915)の『昆虫記』だろう。岩波文庫の10冊セットを購入したが、読み切れず途中下車、結局手放してしまった。その点では詩歌は短いので、何となく読破できそうな気がしないでもない。しかし短いゆえに、その深遠に触れることがかえって難しいと言えそうだ。私はウィリアム・ワーズワース(1770–1850)ウォルト・ホイットマン(1819–1892)ラングストン・ヒューズ(1901–1967)などの詩集を持っている。

I'm Nobody! Who are you?

I'm Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there's a pair of us?
Don't tell! they'd advertise — you know!

How dreary — to be — Somebody!
How public — like a Frog —
To tell one's name — the livelong June —
To an admiring Bog!
岩波文庫(1998年)loupe
わたしは誰でもないひと! あなたは誰?

わたしは誰でもないひと! あなたは誰?
あなたも — わたしと同じ — 誰でもないひと?
だったら わたしたちふたりでひと組ね?
口には出さないで! みんなに知られてしまう — いいわね!

退屈なものね — [ひとかどの]誰かである — っていうのは!
よくご存じの — カエルみたいに —
六月のあいだはずっと — 自分の名前を告げている —
うっとりしている沼地にむかって!

これはアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830–1886)の作品で、亀井俊介(1932-2023)編集の岩波文庫からの引用である。亀井は日本の比較文学者、アメリカ文学者で、研究者ゆえか、ディキンソンについての解説が本書に詳しい。時代とジャンルも違うが、ニューヨークを写した15万点以上の作品を遺しながら素性を明かさず、生前に1点も公表することがなかった女性写真家、ヴィヴィアン・マイヤー(1926–2009)を私は思い出す。ディキンソンはマサチューセッツ州アマーストの上流家庭に生まれ育ったが、無名の詩人として人生を終えた。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、死後にクローゼットに眠る数千の詩が妹によって発見され、編集出版されて広く読まれるようになった。ディキンソンの詩はダッシュを多用、一目で他の詩人作品と異なっていることが分かる。いずれも短いので、一日一編ぐらいのペースで拾い読みしてきた。ただその内容はかなり難解であるし、中国や西洋文学の特長である、韻を踏んでいることが邦訳では伝わってこない。だから完全に理解したとは言い難い。

Blogger  詩人エミリー・ディキンソンの新発見肖像写真の真偽(写真少年漂流:2013年2月8日)

2023年12月11日

幼いヘミングウェイに刻まれた死の実感

Young Hemingway
ミシガン州ワルーン湖近くのホートンズ・クリークで釣りをする若きアーネスト・ヘミングウェイ

写真はボストンのジョン・F・ケネディ図書館&博物館蔵で、1904年7月撮影という説明がついている。アーネスト・ヘミングウェイ(1899年7月21日-1961年7月2日)が5歳の時の貴重写真で、撮影は父親のクラレンス。場所はミシガン州のウォルーン湖近く、ホートン・クリークとある。ヘミングウェイは釣りを題材にした優れた作品を残しているので、この時代について書かれたものがあるか探してみた。まず短編集『ニック・アダムズ物語』の原書を紐解いてみた。ニック・アダムズはヘミングウェイの分身で、物語はいわば伝記的小説集といえる。年代順に作品が並べられていて、ヘミングウェイの成長記録にもなっている。このタイトルでの邦訳本はないようだが、秋山嘉/谷阿訳『ヘミングウェイ釣り文学集(上巻)鱒』(朔風社1982年)や高見浩訳『われらの時代・男だけの世界』(新潮文庫1995年)に収録されている。最初期の「三発の銃弾」では、初めて死に魅入られたときのことと、初めて釣り旅行の記憶が重ね、綾織られて語られている。傑作という評判が高い二番目の作品「インディアンの村」を久しぶりに手に取ってみた。

ニック・アダムズ物語

「死ぬときって、苦しいの、パパ?」「いや、どうってこともないとも、ニック。まあ場合によるがね」。ふたりはボートに乗っていた。ニックが艫(とも)にすわり、父親が櫂を漕いでいた。山の端に日が昇りかけている。バスが一匹跳ねあがって、湖面に波紋を描いた。ニックは片手で水を切った。肌を刺すような朝の寒気に包まれていると、湖水はぬるく感じられた。これは最後の部分である。医師である父親に同行したニックはインディアンの女の帝王切開に立ち会う。父親は無事赤子を取り上げたが、ショッキングな結末をむかえる。生まれたばかりのこの子供の父親が首を切って自殺していることがわかったからだ。父親ははあわてて、一緒に来ている叔父にニックを連れ出すよう頼むが、台所からニックははっきり見てしまったのだ。「ぼくは絶対に死なないさ」という言葉でこの小説は終わる。この作品に内在するのは「死の実感」であるが、それを体験する行為を、少年期の通過儀礼として捉えるという見方もあるようだ。風景描写にニックの心理が隠されているが、幼いヘミングウェイの写真にそれが窺えると思うのは私だけだろうか。いずれにしても幼年期の体験によって、死というテーマがヘミングウェイにとっていかに関りが深くなったかが分かる。1961年、ショットガンで自らの命を絶った。

Hemingway  Ernest Hemingway Media Galleries on John F. Kennedy Presidential Library and Museum

2023年12月10日

デジタル合成されたコスティカ・アクシンテのガラス乾板写真

Dancing with Costică
Jane Long: Dancing with Costică
Fetiță by Costică Acsinte

写真共有サイト Flickr に風変わりなカラー写真が掲載されている。ジェーン・ロングの "Dancing with Costică" というシリーズの1枚で、デジタル技術を駆使した合成写真だ。ロングの画像処理の品位の高さもさることながら、その素材がルーマニアのコスティカ・アクシンテ(1897-1984)のガラス乾板写真であることに特長がある。右の写真がオリジナルである。実は Flickr には Commons という歴史的に貴重な古写真をアーカイブするプロジェクトがあり、私はアクシンテのガラス乾板写真群に注目、見惚れていた。ネット検索したところ、日本語解説ページはヒットせず、ウィキペディアも英語、ルーマニア語、イタリア語版しかない。というわけで、日本ではまだ知られていないと言ってよいだろう。公式サイト "Costică Acsinte Archive" によると、ブカレストの操縦士学校を卒業したアクシンテは、第一次世界大戦が勃発するとボランティアの戦争写真家となる。復員後、写真スタジオを開設、ガラス乾板による撮影を1950年まで続け、その後はフィルムに切り替えたという。注目に値するのはガラス乾板で、なんと5,000枚残っているという。その数に驚かされるが、技術的に優れていて、魅力ある作品群である。デジタル化のプロジェクトが立ちあがったせいか、徐々に世界中の評価を受けるようになったようだ。ロングの合成写真がその役割を果たしたかもしれない。

flickr  Costică Acsinte (1897—1984) Flickr | Photostream | Albumes | Faves | Galleries | Groups

2023年12月7日

仁王門草鞋が揺れる旅路かな

本法寺仁王門(京都市上京区小川通寺之内上る)
長谷川等伯像

旅立ちを描いたものだろう。左手に絵筆、右手で編み笠を持ち上げ、空を見上げている。本法寺塔頭教行院に寄宿した画家・長谷川等伯の像で、同じものが石川県のJR七尾駅前にもあるという。私は寺が所蔵する等伯の「佛涅槃図」を撮影したことがある。高さ10メートル、横幅6メートルもある大作で、収蔵庫が狭いので、照明に苦労したことを思い出した。本阿弥光悦作とされる書院前の「三巴(みつどもえ)」の庭を拝観したあと、境内東端の仁王門に出る。「足がよくなりますように」と書いた草鞋が下がっている。足腰の老化を嘆いた切ない願い事だが、今や杖を頼りの私の足には辛く寂しい。とはいえ老いに逆らうのも空しい。私は晴れ舞台を夢見て能登から都を目指した等伯の旅姿を連想することにした。等伯は1539(天文8)年、能登国七尾で奥村氏の子として生まれた。奥村氏は能登の大名・畠山氏の家臣だたが、等伯は幼い頃に、染物業を営む長谷川家に養子に出された。生家や養家の影響を受け、日蓮宗の熱心な信徒として育った彼は「信春」と号し仏画や僧の肖像画などを手掛ける絵仏師として活動するようになる。長い時間をかけて腕を磨き、力を蓄え、ついには永徳と彼が率いる狩野派に下克上を挑み、彼らの地位を大きく揺るがしたのである。豊臣秀吉、千利休と親しくなった等伯は、利休とふたりで狩野派を批判したという。どうやら時間旅行に耽ってしまったようだ。小さな石橋を渡り、小川通りに出ると裏千家今日庵の兜門が見えた。

Temple  日本一の絵師を夢見て豊臣秀吉・千利休魅了し狩野永徳を恐れさせた長谷川等伯 | 京都で遊ぼうART