2021年4月18日

アフリカ系アメリカ人二重リンチ事件から100年

Scott and Violet Arthur family
シカゴのポーク・ストリート・デポに到着したアーサー一家(1920年)

1877年から1950年までの間に行われたアメリカの人種的恐怖のリンチで、何千人ものアフリカ系アメリカ人が殺された。そして政治的、経済的、社会的に有色人種が疎外され、南部からのアフリカ系アメリカ人難民の大移動に拍車がかかった。リンチと人種的恐怖の時代は、生存者、家族、そしてコミュニティ全体に深いトラウマと心の傷を与えた。1893年、テキサス州パリスで、17歳の黒人ヘンリー・スミスが3歳の白人少女を殺害した容疑で逮捕された。2月1日、州内から1万人の白人が集まり、ヘンリーをカーニバルの山車に乗せて町を練り歩き、1時間近く残酷な拷問した後、生きたまま焼き殺した。さらに1920年、パリスの白人経営の農場で、アーヴィングとハーマン・アーサー兄弟がリンチされた。7月6日、3,000人の暴徒が彼らをフェアグラウンドの旗竿に縛り付け、拷問した後、焼き殺した。この事件は正義を求める地域や国の火種を拡大し、増幅させるものだった。家族は町の一部の白人に襲われ、北部への逃亡を余儀なくされ、シカゴに移住した。

アーサー家の子孫たち(シカゴトリビューン紙)

ふたりの息子が生きたまま焼かれた2ヵ月後の1920年8月30日、シカゴのポーク・ストリート・デポに到着したスコットとヴァイオレット・アーサー夫妻の写真は「大移動」の象徴となったのである。着飾った一家とボロボロのスーツケースは、1900年代にアフリカ系アメリカ人が南部の危険から逃れるために北部や西部に移動したことを象徴している。パリスではアーサー兄弟の遺産がいまだに大きく残っている。この町はアメリカの多くの町と同様に、人種差別の過去を受け入れていない。この歴史上の決定的な瞬間を、表に出して和解するよりも、埋めてしまう方が簡単だったのだ。しかし小さなグループが、この茶番劇を認め、アーサー家に謝罪し、町を前進させる時が来たと考えた。彼らはリンチ100周年を記念して昨年、地域の戦没者慰霊碑に集まり、アーサー兄弟の子孫20人以上も参加した。南部の綿花畑から遠く離れた中西部で、アーサー家の子孫は冨と繁栄を得ることができた。そして一家を引き裂き、存続を脅かしたリンチの重荷から解放されたのである。一連の事件に関し興味あるかたは下記リンク先のシカゴトリビューン紙の記事「南部に回帰:100年前にシカゴに逃れてきた一家の二重リンチ事件を振り返る」(英文)をお読みください。

news  A family revisits a double lynching that forced them to flee to Chicago 100 years ago

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