2021年4月25日

ステレオ写真は幕末時代からあった

磯邸から見た桜島
磯邸から見た桜島(鹿児島市「尚古集成館」所蔵)
島津忠義(1840–1897)

ステレオ写真(立体写真)は、両眼視差に基づく二眼式の表示方法だが、その原理は写真術の発明以前から知られていた。1832年にイギリスの物理学者、チャ―ルズ・ホイートストーン卿(1802–1875)によって発明されたステレオスコープは、フランスの光学機器商デュポスクが商品化、1851年のロンドン万国博覧会で公開された。ステレオ写真の撮影には、僅かにアングルが違うふたつのレンズがついたカメラが使われた。できあがった10センチ四方程度の小さな2枚の写真をステレオスコープで見ると、画像が重なり合い、立体的に見えるという仕掛けだった。ステレオ写真はサイズが小さく安価だったため、1860年代には爆発的ブームになった。このブームは写真趣味の一分野として定着、少なくとも1世紀にわたって継続したのである。若い世代にとって 3D 映像は新しい技術と思われがちだが、実はステレオ写真の歴史は日本でも古く、幕末時代に遡る。上掲した桜島のステレオ写真は薩摩藩十二代、最後の藩主だった島津忠義(1840–1897)が撮影したもので、写真集『読者所蔵「古い写真」館』(朝日新聞社1986年)にも掲載されている。

朝日新聞社1986年

日本に銀板写真カメラが渡来したのは1848(嘉永元)年で、上野俊之丞(1790-1851)がオランダから輸入したものだった。そして日本人が日本人の撮影に最初に成功したのは1857(安政四)年、市来四郎など薩摩藩の若い研究者たちが撮影した藩主島津斉彬(1809–1858)の肖像写真だった。斉彬は藩の科学者たちを主導して銀板写真技術の研究を推進させたが、藩主を継いだ島津忠義も無類の写真好きであった。維新のとき、27歳という男盛りだったが、後見として仕切る父、久光(1817–1887)の影にあった悶々の日々を送った彼には、写真機を持って各地探訪が最大の憂さ晴らしだったのだろう。最後の藩主となったが、フランスから輸入された暗箱カメラやステレオカメラ、慶応末にはイギリス留学の藩士から送られてきた暗箱カメラを愛用していた。幕末から明治時代にかけて彼が写した島津家の人々や、鹿児島をはじめ各地の風景写真が残されているが、その中にステレオカメラによる立体写真が多く含まれてることは、案外知られてないかもしれない。ステレオ写真が多いのは、この時代に一世風靡したという背景にあったからだろう。

PDF  The History of Stereo Photograph by The Chicago Stereo Camera Club (PDF File 261KB)

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