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エドワード・グレイ |
エドワード・グレイ(1862-1933)は英国の政治家で、鳥類学者でもあった。祖父のジョージ・グレイ(1799-1882)は著名なリベラル政治家だった。ウィンチェスター・カレッジからオックスフォード大学ベリオール・カレッジに進んだが、学業を怠り退学させられた。学才がなかったというより、大学という枠の馴染めなかったのかもしれない。1882年に祖父が亡くなり、男爵の称号、約2,000エーカーの土地および私有財産を相続する。そして復学し、1884年に名誉学位を取得した。晩年、そのオックスフォード大学に名誉ある総長として招聘されたことは特筆に値する。1885年、バーウィック・アボン・ツイードから自由党員として当選し下院議員となった。第一次世界大戦勃発前夜の1914年8月3日、外務大臣だったグレイは執務室から暮れ逝く外の景色を眺めながら、友人だったウェストミンスター・ガゼット紙の記者、ジョン・アルフレッド・スペンサー(1862-1942)に「ヨーロッパ中のランプが消えようとしている。生きているうちにまたランプが灯るのを見ることはできそうもない」と語り、意に反して英国の参戦を決意したことで知られている。1905年から11年間外務大臣を務めたが、これは英国の外務大臣の最長在任記録となった。1916年に貴族院へ退いたが、爵位は継ぐものがいなく一代限りだった。眼を患い、大戦集結時にはほぼ視力を失っていたという。弟がふたりいたが共にアフリカでの狩猟で命を落としている。ケニアで農場を経営したデンマークの作家、イサク・ディネセン(1885-1962)の『アフリカの日々』と時代がオーバーラップする。野鳥の研究観察と共に釣りが趣味で、1899年に "
Fly Fishing" を著した。1929年にふたつの章を加えている。
むし暑い六月の日々のロンドンには、どうにもやり切れない、息苦しい一面がある。建築物の挑戦的な堅苦しさ、舗道の残酷な堅牢さ、太陽のもとにただれるような街のにおい、硬い物質に終日照りつける強い日差し、夜もなお避けることのできない息のつまりそうな暑さなどがそれである。そして、夜風も涼しさをもたらさず、寝室の窓はオーヴンに向かって開いているようだ。これらの苦難に加えて、最悪なのは、この季節に田園を奪われ、田園から閉め出されているという意識である。(西園寺公一訳)
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講談社学術文庫(2013年) |
エドワード・グレイ
『フライ・フィッシング』(講談社学術文庫2013年)は、日本の最後の貴族で、参議院議員などの要職を歴任、グレイ当時の毛鉤で鱒釣りにいそしんだ、西園寺公一の訳である。フライ・フィッシングを楽しむ英国の釣り人にとって、一年中でもっともよい季節は初夏、すなわち五月と六月だと力説している。大自然が素晴らしく、限りない変化に富んだ姿を見せ、われわれが住む世界の美しさを納得させる絶好の季節だという。政界での苦労話はこの著書では皆無である。だだ激務に耐えながら、大自然への憧憬する心情がこの下りに顕著である。
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文春文庫(1978年) |
眼の病はグレイの視力を減衰させた。しかし毛鉤が見えないにも関わらず、手の触角を頼りに釣りを続けたという。おそらく野鳥は囀り、すなわち聴覚による観察をしたのではないだろうか。釣り文学の古典的バイブル
『釣魚大全』の著者アイザック・ウォルトン(1593-1683)の生涯も多くの困難が伴うものだった。1626年に結婚したレイチェル・フラッドとの間に生まれた七人の子どもはすべて幼いうちに死んでしまい、彼女も1640年に他界した。1646年にアン・ケンと再婚したが、彼女との間に生まれた長男も、生まれるとすぐに死んでしまう。これらの苦難を『釣魚大全』は一切触れていない。開高健(1930-1989)が『フライ・フィッシング』を監修、序文を寄せているが、このふたりが著作の中では決して一身上の苦悩を語ろうとせず、弱音を洩らそうとしなかったと讃えてやまない。ふたりの現世の苦患(くげん)があってこそ、この明澄と静謐が蒸留されていると思いたい、と。グレイはもしかするとウォルトンを見倣ったのかもしれない。アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)の短編小説シリーズ「
ニック・アダムズ物語」もそうだけど、釣り文学は釣りをしないアームチェア・アングラーの読者に支えられてる側面があると思われる。そうそう、ユーモアに富んだ開高健
『私の釣魚大全』(文春文庫1978年)に底知れぬ慰安と強い感動をを覚え、何度も読み返したことが思い出される。超お薦めの一冊だ。
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