唐招提寺金堂(国宝) |
私は突然、少年の頃読んだ『第三の眼』という本を思い出した。内容はよく覚えていないが、確か著者は英国人で、ダライ・ラマと会い第三の眼、すなわち千里眼の極意を得たというものだった。ミイラの話しとか、断片的な記憶があるのだが、今や朦朧としている。しかし、妙にその神秘性に興奮したような気がする。神秘というのは、文字通り神の秘密なのだろう。そしてその神というのは特定の宗教のものではなく、普遍的な存在、絶対的な存在を指す。キリスト教の聖堂、回教のモスク、仏教の伽藍、神道の神殿、いずれもなにがしらの畏怖を人間に与えるような気がする。夕闇迫った鎮守の森は、それが人間の手になるものであっても、何か近寄りがたい霊気が宿っている気配がする。今ここで見上げている千手観音像は、きっと『千手千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』の具現化に違いない。そこに畏怖感を抱いたとすれば、きっと造像者にとって心外なことだろう。蓮華王院とは別の形で、千手観音菩薩信仰の極致をここに見ることができる。孔雀の羽根のような千臂は、私にはマルチストロボの残像のように見える。
金堂内陣 (左から)千手観音、盧舎那仏、薬師如来 |
現在はその姿を見ることはできないが、寺伝には、像の背後の壁と柱にそれぞれ千体の仏が描かれていたと記録されているそうだ。千眼千臂にせよ、この千体の化仏にせよ、仏師たちは信仰の願いをこのような形で具象化しようとした。千百億は具体的数字だが、微分しないととらえることのできない数字である。その底流にあるのは広大無辺、無限の時空間である宇宙の表現ということなのだろう。この本尊の右側にはさらに薬師如来像が立っている。金堂に安置されたこれらの三体の巨大な像の組み合わせが、どのような教義的意味を持つのか。これに関しては定説がない。というより、金堂造像の歴史的経緯が複雑過ぎてその事情の把握が難しいということらしい。諸説紛々だが、延暦時代に薬師如来立像、千手観音立像が追加され、法量の差については薬師が貧弱に見えたから最後に千手を造ったという説が私には面白い。三尊のバランスについては、均整が取れてるようで、なんとなく崩れてるような気もする。金堂西隣の池で咲き競う蓮の花を観賞した後、売店に寄ったら、金堂内陣の三尊をプリントしたA4のクリアファイルがあった(写真左上)。これはお勧めの仏像グッズである。
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