2015年1月16日

イスタンブル金角湾の午睡

スルタン・アフメット・ジャミイ(イスタンブル)2001年

フランスの風刺新聞「シャルリー・エブド」編集部襲撃事件以来、イスラームへの関心が日本でも高まってるようだ。私はトルコ、チュニジア、セネガルなどのイスラーム諸国を訪問した経験があるが、かつてオスマン帝国の首都であったイスタンブルが一番印象に残っている。確か2001年だったと記憶しているが、三度目のイスタンブル旅行から戻った私は、30回に渡ってネットで「金角湾の午睡」と題したエッセーを連載した。ここにその一篇を引用したい。
オスマン帝国の歴史を一瞥すると、どうもアフメット一世の存在感というのは危弱なような気がする。イスタンブルに限って言えば、まず第一に浮かぶのはビザンツ帝国からこの都市を奪ったメフメット二世。そして帝国の絶頂期を築き上げたスレイマン一世である。メフメットはコンスタンテノープルを陥落させたあとビザンツ帝国の大聖堂アヤ・ソフィアをイスラーム寺院にしたことで知られている。また預言者ムハンマドの教友エユップを偲ぶ廟と寺院を建立した。

かれはファーティフ(征服者)と呼ばれたが、この異名を冠した寺院を自身で創設している。一方スレイマン大帝は巨大なドームを持つスレイマニエ・ジャミイを建立したが、これはイスタンブルにおけるオスマン帝国の代表的イスラーム寺院として知られているものだ。設計・監督はオスマン建築の巨匠であった帝室造営局長ミマール・シナンである。ついでながらイスラーム寺院は寺院として単独に建立されたわけではない。学校や救貧給食施設、病院など非営利施設が作られ宗教寄進によって維持されたのである。

これらの施設複合体はメフメット一世の時代に始まったもので、寺院が街の核となったのである。公共施設の運営費はハマーム(銭湯)、賃貸住宅、有料商人宿、カパル・チャルシュ(屋根つき市場)などで賄われたそうだ。イスタンブルは当初から都市の容体を持していたのである。イスラームにとっては死者の墓標は極めて簡素である。いや、本来そうあるべきであって、墓に壮大な廟やドームを営むことはご法度とされる。その極めて簡素なるものが時代が下がるに従ってイスラーム世界周辺部では壮麗な墓廟が作られるようになった。

イスラーム圈東辺ともいうべきインドに建立されたタージ・マハル廟がその典型に違いない。タージ・マハル廟はムガル帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンが亡き愛妻ムスターズを偲んで造営したものだ。詳細は後述することにするがこのムスターズといい、アフメット一世といい、建築物ゆえに名が残ったと言える。タージ・マハルは一六三二年に着手され、完成までに二十二年の歳月が費やされた。一方、スルタン・アフメット・ジャミイは一六O九年に着工され一六一六年に完成している。悠久の時間の流れの中では両者はほぼ同時代と言えなくもない。
壁や柱に青を基調にしたタイルがびっしり貼られているので、スルタン・アフメット・ジャミイのことを欧米人はブルーモスクと呼ぶ。しかしやはりスルタンの名前を冠した正式名称で呼ぶべきだろう。路面電車やバス、そして金角湾を行き交う船を交通手段として利用、あとは徒歩だった。歩き疲れると私はジャミイ、すなわちモスクに逃げ込んで、温かい絨毯の上で何度もうたた寝をしたものだ。異教徒を拒まないし、必ず公衆トイレがあるのも助かった。懐かしき古都の思い出である。

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