2012年6月28日

女性バンジョー弾きサマンサ・バムガーナーをご存じですか


5年ほど前になるだろうか、Flickr で上掲のような写真が目に止まった。アパラチア山系の伝承音楽に慣れ親しんできたが、この写真を見るのは初めてだった。このタイプの古写真は複写を繰り返すせいか不鮮明なものが多いが、鮮明でオリジナルプリントからのスキャンと想像される。そこで是非自分のウェブページに掲載したいと投稿者に尋ねたところ、ノースカロライナ州アーカイブと歴史局のクレジットを付記すれば良いという返事があった。先日Facebookにアメリカンルーツ音楽のページを作った話を書いたが、古写真のアルバムにこの写真を転載したところ、バンジョーを持ってるのはサマンサ・バムガーナーじゃないかというコメントがあった。
Samantha Bumgarner
1878-1960
On a trip to New York City in 1924, banjo player "Aunt" Samantha Bumgarner of Jackson County became the first female country music artist in the nation to have her music recorded. Her father discouraged her from the fiddle, the "devil’s box," so Bumgarner picked up a banjo as a teen and played until a year before her death at age 82. At a 1935 folk music revival in Asheville, a young Pete Seeger caught a Samantha show and said of it, "I lost my heart to the old-fashioned, five-string banjo played mountain-style." Pam Meister of Western Carolina University’s Mountain Heritage Center curated an exhibit, Women’s Work: Stories from the Appalachian Women’s Museum, which features Bumgarner and runs through June. (Photo courtesy of Special Collections at the Hunter Library at Western Carolina University)
さっそくウェブ検索してみると「西ノースカロライナ史で最も魅惑的な10人の女性」というページにたどり着いた。小さな写真を見ると、例の古写真と同時に撮られた写真ということが分かる。1878年生まれ、1960年に他界したという。1924年に女性として初めてカントリー音楽の商業レコードに足跡を残した人なのである。ノースカロライナの人たちに限らず、アメリカンルーツ音楽ファン有名な女性らしい。この分野に関しては少しばかりの知識をを有してると自負していたが、恥ずかしい限りである。そして気になり始めたのが左のフィドラーのことであることは言うまでもない。

2012年6月26日

日本は遠洋の「調査捕鯨」をやめ沿岸捕鯨のテコ入れをすべきではないだろうか

葛飾北斎「千絵の海・五島鯨突」1830(文政13)年ごろ

いささか旧聞めくが6月14日付AFP電子版によると、北西太平洋で捕獲した鯨肉が入札で4分の3が売れ残ったという。入札にかけられたのは、昨夏実施した調査捕鯨で得た冷凍鯨肉だった。この記事を読んで、改めて南極海を含めた調査捕鯨に疑問を持った。まず素朴に感ずるのは、クジラの棲息数などを調べるのに何故1000頭といった数の捕獲をしなければならないかという疑問である。調査捕鯨は英語でscientific-researchと呼ぶが、まさに科学調査なら大量の捕獲は必要なく、反捕鯨団体が「商業捕鯨」と指摘するのも頷ける。国際捕鯨委員会(IWC)の商業捕鯨モラトリアム決議に対してとった逃げ道の感は拭えない。そしてもう一つの疑問は、万が一モラトリアムが解除されても、遠洋の商業捕鯨が成り立つかという点である。どう考えてもノーである。記事にある通り、鯨肉は市場で供給過剰になっていて、採算は取れないだろう。調査捕鯨は莫大な税金の支出によって成立しているが、民間の漁業会社が手を出すとは考えにくい。河北新報の記事「便乗予算/震災名目、支出に疑問符/省庁主導、構想力欠く」によると、南極海で操業する調査捕鯨船を反捕鯨団体の妨害から守る費用として国は昨年度、22億8400万円の予算を付けたそうである。

こうなると調査捕鯨の正当性にまで疑いの目が向けられるても仕方ないのではないだろうか。調査捕鯨をやめると例の反捕鯨団体シーシェパードに屈すると考える人がいるかもしれないが、実は逆である。彼らが日本の捕鯨船と派手な立ち回りをすればするほど喝采を送るシンパが世界には山ほどいることを忘れてはならない。それを巧みに利用、資金稼ぎをしているわけで、シーシェパードを育てたのは日本と言い換えても差し障りがないだろう。逆に彼らの妨害行動ゆえに、鯨肉は食べなくても調査捕鯨を支持する日本人がいることも注視すべきだろう。南極海での捕鯨をやめれば、シーシェパードは運動の大義を失い衰微するだろう。理不尽な調査捕鯨をやめ、細々と続いている沿岸捕鯨のテコ入れをすべきではないだろうか。蛇足ながら私は鯨肉料理が好きで、大阪・道頓堀にある「たこ梅」のサエズリ(舌)のおでんは絶品だと思うし、オノミの刺身やベーコンを食べたい衝動に駆られることがしばしばだ。いずれも今や高級食材で簡単に食べられるというものではないが。というわけで反捕鯨論者でないことを付け加えておきたい。

2012年6月24日

上野千鶴子「大阪府・市制の共通点」の鋭い指摘

東京新聞「談論誘発」2012年6月20日

読売新聞電子版によると昨23日、大阪市内で開かれた地域政党「大阪維新の会」の入塾式で東京都の石原慎太郎知事が講演、出席者によると東京も一緒にやるので、この国を再生させ、国民が納得できる政治を実現しよう」と述べたという。新党を結成して次期衆院選で維新と連携することに意欲を示したそうだ。もし国政に進出したら大量得票する可能性があり、実にいやな時代になったものだと感ずる。いささか鬱陶しい気分に襲われたが、Facebookにやまなかけんじさんがアップロードした、東京新聞「談論誘発:都政と大阪府・市制の共通点」が目に止まった。筆者はNPO法人WAN(ウィメンズアクションネットワーク)理事長で、立命館大学教授の上野千鶴子氏で、まさに私が思ってることを見事に代弁してくれている。上野氏といえば京都精華大学教授時代から優れた学者だと思っていたが、東京大学に移ったときは京都からひとつの英知が消えたような気がしたものである。さて東京新聞への投稿記事だが、流石である。ぜひご一読を。

2012年6月22日

セコニックの真っ赤な単体露出計がニューヨークからやってきた


Analogue and Digital Exposure Meters: Sekonic L-398M and L-308S

単体露出計ミノルタオートメーターIIIの動作が不安定になってしまった。おそらく20年以上も前に購入したものなので仕方ない。アナログ式のセコニックL-398Mが健在だが、老いた目には細かい字が辛い。そこで新しくセコニックのメーターをネット通販アマゾンで検索したところ、赤いL-308Sが見つかった。同社創業60周年記念モデルで、赤、青、緑、それぞれ60台ずつ国内出荷したようだ。今どき単体露出計なんて売れないだろうとタカをくくっていたところ、次にアクセスしたら売れ切れていた。仕方ないスタンダードの黒を買おうと思っていたら、Facebookに銀塩モノクロ写真ウェットプロセスに関する技術情報サイトtokyo-photo.netを主宰している苅尾邦彦氏の「この限定色モデルはまだ売ってるんかな?」というメッセージが目に飛び込んきた。さっそく入手困難のようだとコメントしたところ、米国のB&Hに在庫があるという。

一昨日夜のことで、日本製を輸入?と一瞬迷ったが、発注した。円高のせいだろう、送料込みで約2万円、送料無料の国内と差がなかったからだ。今日午後帰宅したところ、なんともう配達されてるではないか。ニューヨークから京都まで2日弱、驚くべき速さである。このメーターの長所は、入射光式と反射光式の測定をワンタッチで切り替えられることだ。また単三電池で動くこともありがたい。デジタルカメラなど、さまざまな形式の電池に辟易とするが、これは大事な要素である。強いて欠点をあげるなら、受光部分が回転しないこと。反射光式で測るときは液晶画面と反対側に回ったほうが使いやすいからだ。ところでセコニックのサイトを改めて覗いたところ、この記念モデルが発売されたのは昨年の7月20日、逆輸入とはいえ1年後にレアアイテムが入手できたことになる。やはり単体露出計を必要とする人は稀少なようだ。

2012年6月19日

最初の科学者アラビアのイブン・アル=ハイサム

カメラオブスクラでカイロの市街を映し出すイブン・アル=ハイサム

科学雑誌サイエンティフィック・アメリカンが「ムスリム科学者の忘れられた歴史」と題し、画像スライドショーを含め、イスラーム科学の特集していた。副題には「過去のイスラム教徒の土地で科学の繁栄がなければ、現代世界で、アルゴリズムや代数を持っていない可能性が」とある。8世紀から15世紀にかけて、イスラーム世界がおいて科学、特に数学、光学、化学が発展、世界の先駆的存在であったことは、ともすると忘れがちでないだろうか。アメリカでは無論ムスリムが多数住んでいるのだが、2001年9月11日の同時多発テロ事件以来イスラームへの敵意が増し、現在でも収まっていないのはご存知の通りである。引用したブラッドレイ・シュテフェンス著『イブン・アル=ハイサム:最初の科学者』は9歳から12歳向け児童書だが、アメリカ人に対する啓蒙書といえるかもしれない。上掲画像は同誌のサイトにも掲載されているが、光学の父と呼ばれるイブン・アル=ハイサム(965-1040)がカメラオブスクラを操っている様子である。彼は目から出た光が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るという、ユークリッドやプトレマイオスの視覚論を批判した。太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出し、現在から見てもかなり正確な眼球の構造を記している。彼はカメラオブスクラを作って視覚の研究をした。3本の蝋燭を一列に並べ、壁との中間に孔を開けた衝立を置いた。彼は右側にある蝋燭の光が壁の左側に像を結び左側の蝋燭の像は右に出ることに気が付いた。このことからイブン・アル=ハイサムは光の直進性を導き出したが、像を結ぶのが小さな孔だけであることに注目したのである。ピンホールカメラの原理について聞かれると、私は「光の直進性を利用したもの」と答えることにしている。これまでの経験だと、これで相手は何となく納得してしまうらしく、例えば「どうして光は直進するのか」という突っ込みを受けたことがない。この点を解明した彼はまさに最初の科学者の形容詞に値する、史上最も偉大な科学者のひとりなのである。日本でも近代科学はヨーロッパに起源があると誤解している向きがあるかもしれないが、もしそうならそれはぜひ払拭して欲しい。

2012年6月18日

原子力村を守るため再稼働するぜ!


「国の責任で原発を再稼働する」と政府は言っている。だが福島の原発事故で誰が責任を取ったのか。いま大量の放射性物質がバラまかれ、広い地域で「放射線管理区域」(震災前の基準)になっている状態だ。文科省の航空モニタリング調査の結果から、放射線管理区域と同等の放射線量の地域が判明している。本来なら国の責任で、全ての放射線管理区域と同等の線量の地域の住民を、生活を保証した上で「避難させる」べきだ。それが国策で原子力を推進して来た国の責任の取り方ではないのか。それすらも出来ないのに「責任を取る」と云う言葉を軽々しく使って欲しくない。(石川あきら

(ソース: 脱原発ポスター展

2012年6月17日

写真記録された19世紀ニュージーランドのバンジョー夫妻


Lydia and William Williams with their banjos
Photographer: William Williams
Reference number: 1/1-025684-G
Stereographic dry plate glass negative
Photographic Archive, Alexander Turnbull Library
See a zoomable image on our Timeframes website

昨日のエントリーで、Flickrの写真アーカイブCommonsについて触れたばかりだが、同プロジェクトに参加しているニュージーランド国立図書館のページで興味深い写真を見つけた。ガラス乾板によるステレオ写真で、バンジョーを手にした人物が写っている。説明によればニュージーランドの北島の東岸にあるネーピアで撮影されたもので、写っているのはウィリアム&リディア・ウイリアムズ夫妻である。ふたりはこの地域で「ミスター&ミセス・バンジョー」と呼ばれていたらしいのだが、ウィリアム(1859-1948)がウェールズ生まれで、ニュージーランド鉄道局で働いていたアマチュア写真家であったこと以外は詳細不明である。別の写真、ふたりが大きく写っている写真を見ると、リディア夫人のバンジョーは市販品だが、ウィリアムのはどうやら手作りのようだ。バンジョーのルーツはアフリカだが、米国の黒人コミュニティで育まれた「民俗楽器」である。19世紀に顔を黒く塗った白人によって演じられミンストレルショーで使われ、東南部アパラチア山系に広まり、現在の形になったと想像される。ヨーロッパ人がネーピアに入植したのは19世紀半ばであるが、この写真は1890年撮影となっている。リディア夫人が手にしているバンジョーはおそらくアメリカから輸入されたものだろう。しかしいったいどうしてこの楽器を演奏するようになったか興味は尽きない。さらに詳細を調べれば小論文を書くことができるだろう。

2012年6月16日

時代に迎合した表面的なFlickr批判記事に疑問


最近 "How Yahoo Killed Flickr and Lost the Internet" という記事を読んだ。写真共有サイトFlickrがYahoo!の買収によってどのようにしてダメになってしまったか、という内容である。長文で要旨を簡略化するのは難しいけど、Yahoo!のIDでないとログインできなくなった、Instagramのようなモバイル写真共有サイトに凌駕されてしまった、SNS(ソーシャルナットワークサービス)時代に対応していない、などなどをあげている。いわばネットワークサービス運営を問題にしたもので、ここでYahoo!の肩を持つ気はないが、私からみれば何か的外れの感じがしてならない。今では例えばFacebookのアカウントでログインできるし、Flickr上でAviaryというアプリも使える。確かにネットの世界はモバイルが主流になっていて、Flickrでも一番使用が多いカメラはiPhone4で、これにiPhone4sを加えればダントツである。Facebookは巨額の金でInstagramを買収したが、私はあのシステムはやがて飽きられると踏んでいる。Flickrは創設当初からSNSの要素を持っていたが、本質的にFacebookとは趣が違う。その上層あるいは中層部分は銀塩フィルムを含めたシリアスな写真愛好家が支えているからだ。もうひとつは、Commonsといった素晴らしいページを持っている強みである。世界の公共機関、例えば米国国会図書館など所持する写真アーカイブが登録されてる。これらの写真資料は、歴史その他の学術資料として、写真愛好家を超え、多くの研究者に多大な恩恵を与えると想像する。くだんの記事はこのような実際のコンテンツを知らずに、時代に迎合した表面的な批判だと言わざるを得ない。

WWW
邦訳:ヤフーがどのようにFlickrをダメにしたのか? スタートアップが大企業に買収されるということ

2012年6月15日

映画 『シェーナウの想い』上映会&講演会


~人口2500人の小さな村が、世界を変えた~

日時:6月23日(土) 14時~16時(13時半開場)
場所:ひと・まち交流館 京都 大会議室(2F)
参加費:500円(中学生以下無料)託児有り(3歳~就学前まで)/無料・要予約
場所:ひと・まち交流館 京都 大会議室(2F)
申込み・問合せ:TEL/070-5650-3468(内富) E-Mail/midori.no.kyoto@gmail.com
主催:「シェーナウの想い」上映会&講演会実行委員会
協賛:京都・水と緑をまもる連絡会、市民環境研究所、使い捨て時代を考える会、「緑」の京都・準備会

1986年、チェルノブイリ原子力発電所で大事故が発生。「外で子どもを遊ばせてもいいの?牛乳は?庭の野菜は…?」南ドイツ小さな村・シェーナウでも、不安を抱いた10人の母親が「原子力のない未来を求める親の会」を結成。自宅や公民館での勉強会、チェルノブイリの子どもたちへの支援、村中を巻き込んでの節電キャンペーンなどに、懸命に取り組んだ。しかし、村は原子力を推進する独占電力会社との契約更新を決定。スラーデクさんたちは、原子力も石炭も使わない、再生可能エネルギー中心の電力会社設立を決意。独占電力会社から、数億円の送電網を買い取ろうと立ち上がった―。シェーナウの町で数人の母親たちがはじめた、ささやかな活動。しかし、「子どもたちを守りたい」という強い想いは、巨大な独占電力会社を打ち破って、「原発も化石燃料も使わない」電力会社を実現した。人口2500人の小さな村が、ドイツを、そして世界を変えた希望のドキュメンタリー映画。

講演:朴勝俊(関西学院大学准教授)『シェーナウの想い』に寄せて
ドイツ・市民主体の政治が選んだ社会とは?脱原発を実現するための切り札「節電所」とは?日本でもドイツのように脱原発は可能なのか…? ドイツと日本について、異なる点と共通する点を示しながら、分かりやすく解説!

<講師紹介>神戸大学博士課程修了。在学中にドイツに留学し環境政策について学ぶ。01年、へニッケ&ザイフリートの著書を翻訳、『ネガワット』として出版(ネガワット=節電所)。02年より京都産業大学講師、05年より同大学准教授。03年、国内で唯一、原発に批判的な立場から原発事故に伴う被害額の試算を発表。大きな議論を巻き起こした。2011年より関西学院大学准教授。ドイツ語をはじめ5カ国語に堪能。特技は落語で、京橋花月に出演経験あり。

2012年6月12日

ライカが黒白専用のデジタルカメラを発売するそうだが


ライカが黒白専用デジタルカメラ「ライカMモノクローム」を8月に発売するという。カラーからモノクロに変換できるのに何故という疑問を持ったが、デジカメWatchに掲載された「ライカ開発責任者に聞く」を読んでその謎は直ぐに解けた。製品開発のきっかけは「カラーフィルターを外したら高い解像度が得られる」という技術者からの提案だったという。通常のカラーフィルターを持つセンサーのようにRGBの3色から演算を行なう必要がないため、各ピクセルからダイレクトな情報を得られてそれが解像感の向上に繋がるそうだ。なるほど。今は新しいデジタルカメラに食指を伸ばす気持ちはないのだが、デジタルカメラのシャープネスに若干の疑問を持ってるので、この点は大いに気になる。それにしても本体84万円、同時発売のアポ・ズミクロンM f2.0/50mmASPH.は69万3,000円也、食指どころか、初めから手の出しようがない。懐にこの金額の余裕があるなら、むしろ銀塩フィルム式ライカを買う、と思うのは私だけだろか。M型ライカはM7で終わったのではないだろうか? 大きなお世話と言われそうだが、M8以降はニコンのようにD1、D2と名付けるべきだったという感想を持っている。

Fujifilm X-Pro1
ところでデジタルカメラの内部フィルターと言えばローパスフィルターを思い出す。モアレ現象を防ぐためのものだが、要するに細かい模様をボカすためにある。わざとボカすわけで、これはデジタルカメラの最大の欠点と言えるだろう。ところが富士フイルムのX-Pro1にはこれがないのである。銀塩フィルムで撮った写真ではモアレ現象が生じないが、これは銀粒子の配置がランダムであるからである。一般的なセンサーで使用されているカラーフィルターはベイヤー配列で規則的に並んでいるが、銀塩フィルムの例をヒントに生まれたのが新しい配列 X-Trans CMOS だという。ローパスフィルターがなければ当然シャープネスが向上するはずである。X-Pro1はX-100の後継機でレンズ交換ができるが、私には特に必要ない機能だ。X-100のシルバーボディが気に入ってるし、黒いボディが好きになれそうもない。ただX-100にこの新しいセンサーを付けてくれれば、あるいはシルバーのX-Pro1が出れば、たぶんグラっと気持ちが傾くに違いない。メーカーとしてはそれなりの理由があるだろうけど、ユーザーとしてはこの辺りはちょっぴり悔しい。

2012年6月5日

古写真でFacebookページに特色を持たせる試み


先月末「アメリカンルーツ音楽のFacebookページを作ってしまった」という一文を寄せたが「私はナッシュヴィルに住んでいるが、いつからこの音楽に?」といった内容のコメントをいただいた。テネシー州ナッシュヴィルはカントリー音楽のメッカ、毎週土曜日に放送される「グランド・オール・オプリー(The Grand Ole Opry)」で知られている町である。本場の人にとって私は奇異な存在かも知れないが、逆に日本文化、例えば大相撲のサイトを作っているアメリカ人もいるから、別段不思議とは思っていない。ドク・ワトソンの死に関しては、アメリカのニュースサイトや音楽関係サイトを検索しまくり投稿したりした。ただ同類のページもたくさんあり、それこそ本場のミュージッシャンなどが作ってるページには太刀打ちできないので、一計を案じた。写真である。それも古い写真である。上掲の写真がその一例だが、これは1890年ごろ、ヘンリー・モーザーと思われる男がバンジョーを手にラバに乗っているティンタイプ写真である。音楽のルーツ探検は音源を捜すことも大事だが、このような視覚的資料も重要であることは言うまでもない。少しずつ蒐集して掲載して行こうと思っている。

2012年6月3日

ドク・ワトソンの死


ドク・ワトソンが先月29日、米ノースカロライナ州の病院で死去した。すぐに当ブログに書くつもりだったが、新設したばかりのFacebookページ「アメリカンルーツ音楽」に投稿したりして忙しく、今日まで延び延びになってしまった。ドク・ワトソンは1923年生まれで、幼児に失明した。音楽一家に生まれたが、格好の先生はラジオとレコードで、ヒルビリーを聴いて育った。フラットピックを使った速弾きで知られているが、これは彼が聴き親しんだデルモア・ブラザーズ(左: Brown's Ferry Blues)の影響を少なからず受けていると想像する。スリーフィンガー奏法は、息子にマールと名付けたことで分かるように、マール・トラヴィスの影響を受けている。ドクが広く世間に知られるようになったのは、1950年代末から60年代初頭に開催された、ニューポートのフォークフェスティバルでクラレンス・トム・アシュレイと共演したことに始まる。ふたりを引き合わせたのはニューヨークのブルーグラスバンド、グリーンブライア・ボーイズのラルフ・リンズラーだった。同フェスティヴァルはアメリカのフォークリバイバル運動に呼応して始まったものだが、都会の青年がノースカロライナ育ちのドクを新しい音楽シーンに誘い込んだのである。ブルーグラスは単に商業音楽の一ジャンルではなく、アメリカンルーツ音楽に深く根ざしてる。当然のことのようにドクはブルーグラス音楽の世界に踏み入れ、ビル・モンローやアール・スクラッグスなどと共演するようになった。彼のギター奏法はブルーグラスギタリストに、言葉では言い尽くせないほどの強い啓示を与えたといえる。自宅で倒れ入院、腹部の手術を受けたが、帰らぬ人となった。89歳だった。葬儀は生まれ故郷ディープキャップのロウレル・スプリング・バプティスト教会で現地時間6月3日の午後3時に行われるという。