2026年8月6日

根源的な問いに向き合う日本を代表するストリート写真のレジェンダリー森山大道

三沢の犬
写真集『狩人』より三沢の犬(青森)1967年
森山 大道

森山大道(もりやまだいどう)は大阪府池田町(現在の池田市)に生まれた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領、急速な西洋化、産業化、そして経済成長と、変化を余儀なくされた激動の戦後日本で歳を重ねる。森山は写真を民主的なメディウムとし、日々の現実と日本の伝統と西洋的影響のせめぎ合いをとらえた。ウィリアム・クライン(1926-2022)やアンディ・ウォーホル(1928-1987)といったアメリカのアーティストに触発されながら、森山もまた、活気に満ちた資本主義社会が内包する矛盾を写し出してきた。日本を代表する現代写真の巨匠として数少ない存命の一人である。1960年代の日本の「プロヴォーク」運動の一員として、森山は写真を通して政治的、文化的な対話を生み出そうとした。彼の写真や写真集は、著名なコレクターの間で最も人気がある。大阪では写真家岩宮武二(1920–1989)のスタジオで働いた後、1961年に東京に移り住んだ。 東京では写真家の細江英公(1933-2024)のアシスタントとして働き、故郷の忘れられた地域や暗い側面を描いた自身の写真集を制作した。その後まもなく、日本写真評論家協会から新人賞を受賞た。これは生涯にわたる数々の賞の最初のものである。森山の初期の写真の多くは、ほぼ写真だけで構成された3つの雑誌を発行したグループの「プロヴォーク」の影響を受けている。

アクシデント
写真集『アクシデント』シリーズより(東京)1969年

森山は、政治的な目的に加えて「ざらざらしていて、ぼやけていて、ピントが合っていない」イメージに対する日本的な美学を確立し、実験的なイメージ制作の伝統を受け入れ、当時の文化が推進していた技術的な精密さに反抗するようになった雑誌の第2号からこの運動に参加した。森山の作品は主にモノクロであり、ざらざらした美学は戦後の社会構造の不安定化に対する彼の感情を強く反映している。彼の作品は主に実験としての写真の使用に関するものである。彼の写真は、記録と可能性、事実とフィクションの領域の間を漂っている。

雑誌『プロヴォーク』第3号より
雑誌『プロヴォーク』第3号より(東京)1969年

彼の初期の作品は、第二次世界大戦後の日本のアメリカ占領中とその後の生活を捉えている。特に、工業化の影響と、急速に変化する都市に取り残された地域があるという結果としての都市生活の変化。 森山はさまざまなアーティストから影響を受けたが、アンディ・ウォーホルが最も重要な人物かもしれない。森山は1969年、ニューヨークを訪れた際に初めてウォーホルのシルクスクリーンを目にし、そこに写真に不可欠な複製、反復、大量生産の本質を見出した。

写真集『光と影』
写真集『光と影』より(大阪) 1982年

森山自身もシルクスクリーンを制作するようになったが、複製と複写を作品の主要な焦点とし、しばしば街路標識を撮影したり、類似したイメージを複数制作して一つの作品として見せることもあった。このテーマを反映した森山大道の最も象徴的なモチーフは、タイツと唇を写した作品である。これらのゼラチンシルバープリントは、クローズアップと、森山の複製への嗜好、そして街路標識の撮影を組み合わせたものである。どちらのテーマも、日本文化のアメリカ化と、街頭広告におけるエロティシズムの増大を暗示している。

プリティ・ウーマン
写真集『プリティ・ウーマン』シリーズより(東京)2017年

森山は、現実の客観的な捉え方よりも、メディアそのものの反映、マスメディアの役割、そして現実の記号としてのイメージ消費に関心を寄せる、反体制的で水平的なアプローチ、つまり写真に対する独自の理解を追求していった。森山大道の回顧展が2026年4月18日~5月17日、「KYOTOGRAPHIE(京都市内各所)」で開催された。下記リンク先は森山大道の公式ウェブサイトです。

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世界史遠望(24)三島由紀夫の割腹自殺 と楯の会

三島由紀夫
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説する三島由紀夫 ©1970 日本経済新聞

1970年(昭和45年)11月25日、市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で作家の三島由紀夫が割腹自殺を遂げた。益田兼利東部方面総監の身柄を拘束、自衛隊員の集合を求め、その前で演説をした後のことだった。三島は1968年(昭和43年)10月、保守系の学生を集めて、私兵組織ともいわれた「楯の会」を結成した。定員は100名。当時は、多くの人々が革命を呼号し、学生運動が吹き荒れた時代だった。彼らは自衛隊で軍事訓練を行なうなどの活動を積みつつ、左翼運動と対峙していく。そして三島は、この「楯の会」から森田必勝をはじめ。4人のメンバーを選抜し、事件へと向かったのである。正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀「関孫六」の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った。日本刀が見えたのは一瞬のことだった。

楯の会
三島由紀夫が結成した楯の会 ©1970 柿沼 隆

三島はなぜこの事件を起こしたのか。そして想いはどこにあったのか。様々なことが言われているが、この事件の時、三島は檄文を配布していた。以下に抜粋してみよう。

われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

この日は朝から快晴で正午の気温は11.4度だった。三島の頭には「七生報國」(七たび生まれ変わっても朝敵を滅ぼし国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。

三島由紀夫の棺
陸上自衛隊の駐屯地から運び出される三島由紀夫の棺 ©1970 時事通信

右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた。12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた]。そして益田総監の前に立ち「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。割腹した血で「武」と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして「うーん」という気合いを入れ「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。

ペン  井上隆史(白百合女子大学教授)「割腹自殺によって“作品”を完成させた三島由紀夫」nippon.com

2026年8月4日

芸術を通して時代の記憶を構築したアルゼンチンを代表する写真家サラ・ファシオ

Enfoque de la vida,
Aproximación a la vida, 1963
Sara Facio

サラ・ファシオは1932年年4月18日、アルゼンチンのサン・イシドロで生まれた。1953年に国立美術学校を卒業した。その後、フランス政府から奨学金を受けパリに住み始めた。この旅には、友人であり写真家仲間でもあるアリシア・ダミコも同行した。1957年から1960年にかけて、アルゼンチンとヨーロッパで、プロの写真家向けワークショップに参加したり、ハインリッヒのスタジオでアシスタントを務めたり、アメリカでカラー写真のコースを受講したりして、研鑽を積んだ。ファシオはレズビアンだった。彼女のパートナーはマリア・エレナ・ウォルシュで、1978年から2011年に亡くなるまで交際した。ファシオはアンネマリー・ハインリッヒのアシスタントとして働き始め、1957年に自身の写真を撮り始めた。1960年、ファシオとアリシア・ダミコは一緒に写真スタジオを開設した。ファシオは1973年にマリア・クリスティーナ・オリベとラ・アソテアを共同設立した。ラ・アソテアはラテンアメリカで初めて写真集を出版した出版社だった。1978年にメキシコシティで開催された "Latin American Colloquiums of Photography"(ラテンアメリカ写真コロキウム)に続いて、仲間のアーティストたちと協力して "Consejo Argentino de Fotografía"(アルゼンチン写真評議会)を共同創設した。1985年、ファシオはサン・マルティン市立劇場にフォトギャラリーを設立し、そこはアルゼンチンで最も著名な写真展示スペースの1つとなった。彼女は1998年までギャラリーのディレクターを務めた。

Sin título
Sin título, de la serie Buenos Aires Buenos Aires, 1965

2000年に『パヒナ12』(12頁)紙のマリア・モレノによる問に対して「私が写真を通して伝えたいことは、私が死んだ日に『牛が死んだ』ではなく『それを見た人が死んだ』と言われるようにすることです。そして、私が見たものは私の写真の中にあります。まるで『これが私の街、私の人々、私が尊敬する人々、私が愛する人々だ』と言っているかのようだ。 それが私の信条です」と答えている。 彼女の最も注目すべきフォトジャーナリズム作品の1つは、 1970年代のアルゼンチンにおけるフアン・ペロン元大統領提唱の「ペロン主義」の報道である。

Festejos en el Obelisco
Festejos en el Obelisco, Plaza de Mayo, 1972

彼女はブエノスアイレスの五月広場で行進する人々や抗議者を撮影したことで知られており、これはほとんどのフォトジャーナリストがカサ・ロサダの空撮に焦点を当てていたのとは異なっていた。彼女はキャリアを通じてホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサル、アストル・ピアソラ、パブロ・ネルーダ、ガブリエル・ガルシア・マルケス、マリオ・バルガス・リョサを撮影したことでも知られている。 1996年、ファシオは作家マリア・エレナ・ウォルシュの詩集 "Manuelita"(マヌエリタ)に挿絵写真を提供した。

peronistas
Comentario sobre Los muchachos peronistas, 1974

1972年から1974年にかけて撮影され、フアン・ドミンゴ・ペロンが国に与えた影響に焦点を当てた彼女の作品の大規模な展覧会が、 2018年にブエノスアイレス・ラテンアメリカ美術館(MALBA)で開催された。彼女は1992年にアルゼンチンからプラチナ・コネックス賞を授与された。彼女の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)のコレクションに収蔵されている。ファシオは、国立美術館の写真遺産を構成する写真の25%を自身の個人アーカイブから寄贈した。

Asume Cámpora
Asume Cámpora, Plaza de Mayo, 1975

1968年に執筆を始めて以来「写真を読む」(2002年)や「フレームと焦点」(2003年)などの写真に関する理論的な論文を執筆した。また2012年と2016年にはアンソロジーも出版している。アルゼンチンの郵便公社は彼女の写真を切手に使用しており、最近ではホルヘ・ルイス・ボルヘスの生誕100周年記念に彼女が撮影した写真が切手として採用された。1982年、彼女とダミコは、文化分野で活躍する傑出した人物に贈られるコネックス財団のコネックス賞を受賞した。サラ・ファシオは2024年6月18日にブエノスアイレスで死去、92歳だった。

Museum of Modern Art  Sara Facio (Argentine, 1932–2024) | Works | Publication | Museum of Modern Art, NYC

2026年8月3日

峠三吉『原爆詩集』あの閃光が忘れえようか

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峰 三吉

詩人の峠三吉(1917-1953)は父の勤務地だった大阪府豊能郡(現在の豊中市)に生まれ、生後まもなく家族とともに父の故郷広島市に転居した。幼い頃から気管支の病気に苦しめられしばしば喀血、広島商業学校(現在の広島県立広島商業高校)在学時から詩作にいそしんだが卒業後は長期の療養生活を余儀なくされ、この病気は三吉を生涯苦しめることとなった。さらに1945年(昭和20年)8月6日、爆心地より3kmの広島市翠町(現在の南区翠)で被爆。敗戦後は広島を拠点とする地域文化運動で中心的な役割を果たし、広島青年文化連盟委員長に就任した。広島県庁での勤務や雑誌『ひろしま』の編集、1949年(昭和24年)にはサークル「われらの詩の会」を発足、詩誌『われらの詩』を創刊した。1950年(昭和21年)6月に朝鮮戦争が開戦されると「われらの詩の会」は被爆地広島における反戦反核運動の拠点ともなった。1951年(昭和26年)に「にんげんをかえせ」で始まる『原爆詩集』を自費出版、原爆被害を告発しその体験を広めた。この『原爆詩集』は岩波書店が2016年(平成28年)に文庫本化、現在も出版されており、全国の書店やオンラインストアで手に入る。

八月六日

あの閃光が忘れえようか
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え

渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂さけ、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿を踏み
焼け焦こげた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列

石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏へ這いより折り重った河岸の群も
灼やけつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり

兵器廠の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰れとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで
金ダライにとぶ蠅の羽音だけ

三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
そのしずけさの中で
帰らなかった妻や子のしろい眼窩が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!

広島在住で詩人、翻訳家のアーサー・ビナードが同書の巻末で「日本語で書かれた『戦後文学』の中から、もし最優秀詩集を一冊のみ選出するとなったら、ぼくは『原爆詩集』をノミネートしたいと思う」と書いている。アメリカ人が日本人を諭しているのである。ぜひ手に取って欲しい。

岩波文庫 峠 三吉(作)『原爆詩集』岩波文庫(緑206-1)刊行日:2016/07/15 ISBN:978-4003120613