2024年3月21日

パリで花開いたロシア人ファッション写真家ジョージ・ホイニンゲン=ヒューン

Bas-relief Frieze
Madeleine Vionnet 'Bas-relief Frieze’ Dress, Paris, 1931

George Hoyningen-Huene

ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンは1920年代から1930年代にかけて活躍した、ロシア出身のファッション写真家である。エレガントで無駄をそぎ落としたスタイルは、世界中の写真家に劇的な影響を与え、彼の作品は、20世紀で最も印象的な写真のポートレートや構図を生み出したアーティストとして、今日もなお関連性を持ち続けている。バルト系ドイツ人とアメリカ人の両親のもと、1900年9月4日、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。1917年のロシア革命の最中、ホイニンゲン=ヒューン夫妻は最初はロンドン、後にパリに逃れた。パリに移り住んだ彼は、そこで有名なシュルレアリスムの写真家、マン・レイ(本名エマニュエル・ラドニツキー)の助手となり、1924年には彼と共同でファッション写真のポートフォリオを制作した。この頃のパリは芸術表現の巣窟であり、偉大な作家や芸術家たちはみな、自分たちの考えを表現する新しい方法を積極的に取り入れていた。ヒューンの仲間には、サルバドール・ダリ、リー・ミラー、ココ・シャネルをはじめ、パブロ・ピカソ、シュルレアリストのポール・エリュアール、ジャン・コクトーらがいた。ヒューンは、ファッション・イラストレーターとして名を馳せるようになる。彼の絵の師はフランスのキュビズム画家アンドレ・ロートだった。そのユニークで革新的、芸術的なビジョンにより、ファッション写真界のリーダー的存在となった。

Virginia Kent and Peggy Leaf
Fashion by Virginia Kent and Peggy Leaf, Paris, 1934

シャネル、バレンシアガ、宝石商カルティエなど、パリのオートクチュール・メゾンのスタイルをいち早く撮影。瞬く間にコンデナスト社のフランス版『ヴォーグ』のチーフ・フォトグラファーにまで上り詰めた。エレガンスと洗練を見抜く彼の鋭い目と、貴族社会での動きやすさから、彼は当時最も美しい女性たちを紹介され、その多くが彼のモデルとなった。その中には、世界初のスーパーモデルであり、後にアメリカ人写真家アーヴィング・ペンと結婚したスウェーデン人ダンサーのリサ・フォンサグリーブスも含まれている。1935年、ホイニンゲン=ヒューンはニューヨークに移り、自分の名前をジョージと英語化して、コンデナストを退社し、ライバル誌のハーパーズ・バザーに入社した。彼は広範囲を旅し、訪れた多くの国について日記を書いた。

Thérèse Dorny
Film and Stage actress Thérèse Dorny, Paris, 1931

この頃、彼の落ち着きのないエネルギーと生来の創造力が、ファッション写真から映画の世界へ移ることを考えさせた。1946年、ジョージ・キューカー監督に説得され、ハリウッドで働くことになった。彼はイングリッド・バーグマン、チャーリー・チャップリン、グレタ・ガルボ、エヴァ・ガードナー、キャサリン・ヘプバーンなど、20世紀を代表する多くの映画スターを撮影した。ヒューンとキューカーは親しい友人となり、キューカーがテクニカラーという新しいメディアで初めてジュディ・ガーランド主演映画『スター誕生』(1954年)を撮影する際には、ヒューンにカラーコンサルタントを依頼したほどだ。なぜヒューンを選んだのかと尋ねられたキューカーは、写真術におけるヒューンの幅広い専門知識が、映画の技術的な問題、特に色の美学に関する問題の解決に応用できると直感的に感じたからだと説明した。

Hammamet, Tunisia
Mr. George Sebastian and his wife next, Hammamet, Tunisia, 1934

ジョージ・ホイニンゲン=の貢献は実に貴重であり、ジョージ・キューカー側の抜け目のない決断を反映したものであった。ヒューンは新しい媒体の初期の進化を開拓しただけでなく、それを完成させることにも貢献したからである。その結果、ヒューンはキューカーにとって大きな財産となり、彼らはその後、高く評価されたいくつかの映画で共に仕事をした。ヒューンはカラー・コーディネーターという肩書きを与えられていたが、実際には、ファッション撮影の生涯で身につけたスキルが活かされ、撮影プロセス全体に大きな影響を与えた。ヒューンは映像詩の形で何冊かの本を出版した。『アフリカの蜃気楼:旅の記録』(1938年)では、彼はアフリカ大陸の先住民コミュニティとつながり、尊敬の念を抱いただけでなく、彼らの文化の幅広さと複雑さを理解するという点で、従来の態度を先取りしていた。

Portrait of the Dali's
Portrait of the Dali's in L'Instant Sublime, 1939

彼の写真集『ラミー砦の女』(1938年)には、並外れた共感と人間的関心が表れている。彼は出会った無数の服装の文化的意味を理解し、その隠された象徴性を十分に認識していた。著書の序文で彼は「いつの日か、黒い大陸全体が衣服に包まれ、比較的に平凡なものになったとき、これらの文書は、組織化された人工的な世界では決して見られない形や動きの自然さを明らかにし、興味を引くかもしれない」と書いている。1947年、カリフォルニア大学で教鞭をとることになり、亡くなるなるまでその職を務めた。1968年9月12日、ロサンジェルスで他界、68歳だった。現在、彼の写真はロサンゼルスのJ・ポール・ゲティ美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ボストン美術館などに収蔵されている。なお日本初の大がかりな個展が、東京・銀座のシャネル・ネクサス・ホールで3月31日まで開催中である。下記リンク先の記事は同展をキュレーションしたジョージ・ホイニンゲン=ヒューン・エステート・アーカイブス学芸顧問スザンヌ・ブラウンへのインタビューである。

gallery インタビュー:光を駆使したジョージ・ホイニンゲン=ヒューンはファッションアート写真の先駆者

2024年3月18日

マーガレット・バーク=ホワイト撮影のライフ誌創刊号カバーストーリー

Ruby's Place
Ruby's Place, liquor was also sold at a back bar, Fort Peck, Montana, 1936
liner
One-fourth of the Missouri River would run through this steel "liner"
bar Finis
Drinking at the bar Finis, Montana, 1936
Workers
Workers in one of the several frontier towns near the site of the Fort Peck Dam, Montana, 1936
>Bar X
Bar X, Fort Peck, Montana, 1936
worked on the construction
Men worked on the construction of Fort Peck Dam, Montana, 1936
Construction
Construction of Fort Peck Dam, Montana, 1936
>First LIFE cover November 23, 1936
First LIFE cover November 23, 1936 ©Margaret Bourke-White / LIFE

Margaret Bourke-White

アメリカのライフ誌(LIFE)は1963年11月23日に創刊された。創刊号といえば女性写真家マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971)が撮影した表紙の写真を思い起こす人が多いと思われる。ニューディール政策のひとつの事業として、ミズーリ川に建設されたフォート・ペック・ダムある。余りにも有名だが、創刊号の実物を手にしたことがないので、肝心のカバーストーリーの内容については全く不案内であった。しかし幸いなことにタイム社のページに41葉の写真と共に、マーガレットの述懐などが掲載されている。フォート・ペック・ダム建設は失業救済事業だったわけだが、活写された酒場に集う労働者の写真が興味深い。なお小型カメラによる撮影のようだが、ジゼル・フロイント著『写真と社会』(お茶の水書房)によると、ライフ誌は当初大判カメラによる撮影しか認めなかったという。この辺りの真相については再度調べてみようと思う。蛇足ながら私はかつて日本のグラフ誌の草分け、ライフ誌よりも歴史が古い『アサヒグラフ』の末席で写真を撮っていた時代があった。同誌は朝日新聞社が1923年1月25日から2000年10月15日まで刊行していた週刊グラフ誌(画報誌)である。日本における写真誌の草分け的存在で、数々の歴史的な報道や、その時代に代表される世相や風俗の特集記事を多数掲載、資料的価値も高い。大正デモクラシーから、戦前、戦中、戦後、高度経済成長、オイルショック、バブル崩壊、そして21世紀の幕開けまで、77年間の長期にわたり刊行を続けた日本を代表するグラフ誌の一つだった。しかし残念ながデジタル化されていない。自分が撮った写真がこのようにアーカイブされているライフ誌に関わった写真家たちが本当に羨ましいと思う。下記リンク先が同誌創刊号を飾ったマーガレット・バーク=ホワイトの作品アーカイブである。

LIFE  LIFE's First Cover Story: Building the Fort Peck Dam, 1936. Written by Ben Cosgrove

2024年3月15日

アイルランドの豊饒なフィドル音楽の原風景

The Enduring Magic
Robin Williamson  loupe

弦を弓で擦って音を出す、いわゆる擦弦楽器の起源に関しては諸説があるが、ブリテン諸島に現れたのは紀元前数百年、クリュース(crwyth)というハープを原型にしたものといういわれている。しかしながらこの楽器が歴史の中でいつまで受け継がれたかは不明である。一般に擦弦楽器はアジアの騎馬民族によってヨーロッパにもたらされ、各地方の民族楽器として浸透し、その後地域ごとに多種多様な発展をし多くの楽器群が出現したというのが定説のようである。フィドル(fiddle)とヴァイオリン(violin)は今日では楽器としては全く同じものを指すが、フィドルのほうが歴史が古く、ヨーロッパではレベック(rebec)あるいはレバブ(rebab)などを経てヴィオール属、ヴァイオリン属の楽器に変遷したといわれている。16世紀にほぼ完成されたスタイルで突如出現したイタリアのヴィオリーノ(小さなヴィオラ)がヴァイオリンである。似たような楽器だったがネックが丸く単音を弾けるようになったことなどから、ヴァイオリンがフィドルにとって代わる。そしてフィドルという言葉自体は、クラシック音楽のヴァイオリンと区別する形で、民俗音楽系の総称になる。アイルランド音楽ではいろいろな楽器が使われているが、昔から使われてきた楽器は、フィドルとイリアンパイプ、それにハープの3種類である。ヨーロッパではケルト系のアイルランドやスコットランドの、そして東欧系のロマ族すなわちジプシーのふたつ奏法に大きく分けることができるだろう。アイルランドからの移植者がアメリカに持ち込んだフィドルはカントリーやブルーグラス音楽の花形楽器になる。ちょっと扇情的な響きがするからだろうか、ときに「悪魔の箱」と呼ばれたりする。それではそのフィドルはいつごろアイルランドに伝わったのだろうか。スコットランドのロビン・ウィリアムソン(1943年生まれ)の "English, Welsh, Scottish and Irish Fiddle Tunes"(イングランド、ウェールズ、スコットランドおよびアイルランドのフィドルチューン)にその背景が記述されている。フィディル(fidil)という言葉がアイルランドの詩 "Fair of Carnan" に現れたのは8世紀ごろだという。

Map of Ireland

次に十字軍の時代(1096-1291)に現れたのが冒頭に上げたレベックである。別の史料としてアイルランドの放送ジャーナリストのフィオヌアラ・ウィルソンがアルスター・スコッチ協会のサイトにちょっと注目すべき論文を寄せている。彼女は1989年、アルスターの大学で音楽を勉強する間にアントリムで録音を含めたフィドルに関するフィールドワークをしている。論文の中で彼女は、現在とは形や大きさが違うだろうが、この地域にフィドルあるいはフィドラ(fidula)が11世紀に入ったと書いている。フィドルあるいはフィドラがすぐに引っ張りだこになった理由としてダンスからの希求であったという説明は説得力がある。それまでのパイプより息切れせずに長い間演奏できたからだというのだ。英国の支配によって苦しめられたアイルランドの農民にとって、ダンスが最大の愉しみであったことは容易に理解できるし、フィドルが急速に普及した点も容易に理解できる。製作技術の向上により安価で手に入るようになったこと、そして比較的小型の楽器だったので、持ち運びに便利だったことも大きな理由になったと想像される。ジャガイモの収穫期には労働者が行き交い、スコットランドとの曲目の相互伝播も盛んになったようだ。フィドルが農民にとっていかにポピュラーな楽器だったということは、アメリカ近代絵画のジョージア・オキーフ(1887-1986)の伝記からも伺い知ることができる。父親がアイルランドの小作農で、アメリカに入植してからもフィドルを手放すことはなかったようである。

Tommy Makem and the Clancy's website
Jack Makem (pipes) Tommy Makem (piccolo) Peter Makem (fiddle) ca.1954

アイルランドのダンス音楽における変遷で重要なのは、曲作りがペンおよび紙の上ではなく楽器自体で行われたことである。楽器を使った作曲は楽器そのものが持つ特性が直接影響を及ぼします。従ってパイプで作られた曲とフィドルで作られた曲はそれそれが特徴を備えているといえそうだ。クラッシックのヴァイオリン演奏家は左指をハイポジションに移動する必要があり、従って楽器を顎で支えます。ところがアイルランドのフィドラーはほぼ第一ポジションにとどまる演奏をしたため、極端な場合、楽器を腕まで下げて演奏した。がっちり確保する必要のない自由さはアイルランド特有のフィドルチューンを醸造したといえなくもない。この演奏法はアメリカのフィドルチューンに引き継がれた。アイルランドの伝承音楽は半ば閉塞状態にあった農村社会でゆるやかに蓄積されてゆく。その豊饒ともいえる伝承に変化を与えたもの、それは20世紀初頭のレコードとラジオの出現である。新しい伝達手段は居ながらにして他の地域の音楽を入手できるようになった。それはある意味では、その豊饒なる伝承の共有としては素晴らしいものがあるのだが、一方、地域独自のスタイルが斜いてしまったという弊害も否定できない。スライゴーに生まれ育たなくても、マイケル・コールマン(1891–1945)のようなスライゴー・プレーヤーを模倣するフィドラーの出現を可能にしてしまったのである。時計の螺旋を逆に巻くことは不可能だ。しかし逆にメディアの発達により、私たちは世界中の素晴らしい民俗音楽の手に入れることができるようになった。そして時系列の中でメディアが貴重な記録作業をしていることも忘れてはならないだろう。なお7下記リンク先の動画共有サイト YouTube でマイケル・コールマンの演奏を鑑賞できます。

YouTube  Michael Coleman: Bonnie Kate / Jenny's Chickens (Decca 12015) New York, Nov. 9, 1934

2024年3月12日

疲れた心に避難場所と慰安を与える英国の野鳥文学

birds
鳥たちをめぐる冒険/セルボーンの博物誌(講談社学術文庫)

フライフィッシング用の蚊鉤を巻いた経験がほんの少しあるものの、竿を手に水辺に立ったことはないのに釣り文学が好きである。カラスとヒヨドリとスズメくらいなら区別はつくものの、名前を覚えることが大の苦手なくせに、野鳥ないし博物学の本を読むのが好きだ。どうやら私は典型的なアームチェア・アングラー&バード・ウォッチャーのようだ。英国の政治家、エドワード・グレイ卿(1862-1933)の『フライ・フィッシング』を紐解くと、疲れた心に避難場所と慰安を与える本として、アイザック・ウォルトン(1593-1683)の『釣魚大全』は無論だが、ギルバート・ホワイト(1720-1793)の『セルボーンの博物誌』を挙げている。ちょっと意外に思われるかもしれないが、グレイ卿は釣りを趣味にした政治家として有名だが、鳥類学者でもあったのである。ギルバート・ホワイトは博物学者であるとともに、聖職者でもあった。セルボーンはングランドのハンプシャーにある小さな村で、アルトンの南3.9マイル、サウスダウンズ国立公園の北の境界内にある。

ラ・プラタの博物学者
ラ・プラタの博物学者(講談社学術文庫)

ここに生まれ育ったギルバート・ホワイトは牧師館に住み、村を歩いて野鳥などの生態を観察して二人の著名な博物学者ペナントとバリントンに届けた。だから『セルボーンの博物誌』はいわば書簡集で、それゆえかなり冗長な側面があるが、背後に繰り広げられる自然描写に癒される。その一方、グレイ卿は触れていないが、ウィリアム・H・ハドスン(1841-1922)の『鳥たちをめぐる冒険』に私は惹かれる。そのハドスンはアルゼンチン生まれの英国人で『ラ・プラタの博物学者』などで知られているが、鳥類学に長けていた。1978年に講談社から邦訳出版された『鳥と人間』も素晴らしい。終章のタイトルは「セルボーン」で、ホワイトの影響を強く感ずる書である。現在入手は困難のようだ。ハードカバーより持ち運びに便利な同社の学術文庫にリストアップされることを期待したい。鳥類学を含めた博物学に関しては岩波文庫版を複数所持しているが、青い背表紙の講談社学術文庫に親しみを感ずる。なお、かつては高価なハードカバーを購入していたが、昨今では文庫版のみに食指を伸ばすようになった。下記リンク先はハドスンが会員であった英国の RSPB(王立鳥類保護連盟)の公式サイトで、米国のオーデュボン協会と共にチェックを欠かせないサイトである。

rspb logo  Protection of Birds | Charitable Organisation registered in England, Wales and Scotland