2023年3月28日

高音質デジタル音楽プレイヤー JetAudio の魅力

JetAudio Basic 8.1.7

スマートフォンやタブレットで音楽を聴くときは韓国の Cowon が開発した Android版の JetAudio を使っている。内蔵されている音楽プレイヤーでも構わないのだが、AGC(Automatic Gain Control)と呼ばれる自動利得制御、すなわち信号が強くなると出力が大きくならないようにし、信号が弱くなると出力が小さくならないようにするシステムが欲しい。アルバム単位で聴く場合は最初の曲の音量調節すればよい。しかし複数のアルバムを順番をばらばらにして聴くシャッフル再生の場合、曲ごとに音量調節が必要なのでイライラするからだ。外付け HDD にリッピングした約 3,000 曲の MP3ファイルをストレージしてあるのだが、これを聴く場合は foobar2000 を愛用しているが、JetAudio の Windows 版もなかなかの優れものでお薦めである。JetAudio は幅広いマルチメディアファイル形式のための高度な再生オプションを提供している。

jetAudio Logo

1998年にリリースされた JetAudio は Windows プラットフォーム用の現存する最も古いメディアプレーヤーのひとつである。音楽や動画再生のほか、メタデータ編集、CD リッピングおよび書き込み、データ変換、音声録音などの機能を持っている。多数のサウンドエフェクトも搭載している。JetAudio Basic は、総ダウンロード数が 3,000 万を超え CNET Download.com の「音楽管理ソフトウェア」カテゴリで最もダウンロードされているアプリケーションである。オーディオファイルでは MP3、AAC、FLAC、Ogg Vorbis、ビデオでは H.264、MPEG-4、MPEG-2、MPEG-1、WMV、Ogg Theora といった主要なオーディオおよびビデオファイル形式をすべてサポートしている。また、Mo nkey's Audio、True Audio、Musepack、WavPack など、あまり一般的ではない「オーディオマニア」向けのフォーマットもサポートしている。なおインターネットラジオ放送を聴けるとあるが、ダウンロードしたファイルに放送局のリストがなく、受信ができないのが残念である。

audio  JetAudio for Windows, Android and iOS | Download | News | Supprt | Development

2023年3月25日

写真家フランク・ラインハートのアメリカ先住民のドラマチックで美しい肖像写真

Spokane tribe
Group Portrait of two Spokane men and two women, 1898
Frank Rinehart

ドイツ系アメリカ人の写真家フランク・ラインハート(1861-1928)は、イリノイ州ロディ(現メイプルパーク)に生まれた。1870年代に兄のアルフレッドとともにコロラドに移住し、デンバーのチャールズ・ボーム写真館に就職した。1881年、ラインハート兄弟は、西部劇の写真で広く知られるようになった写真家ウィリアム・ヘンリー・ジャクソン(1843–1942)とパートナーシップを結ぶ。ジャクソンの教えを受け、ラインハートはプロの写真技術を完成させ、アメリカ先住民の文化にも強い関心を持つようになった。1885年9月5日、ジャクソンのスタジオの受付嬢だったアンナ・ランサム・ジョンソン(ウィラード・ベミス・ジョンソンとフェベ・ジェーン・カーペンターの娘)とコロラド州デンバーで結婚した。同年ネブラスカ州オマハに移住、ダウンタウンのブランデイス・ビルにスタジオを開いた。二人の間にはルースとヘレンという二人の娘が生まれた。1898年、トランス・ミシシッピ万国博覧会と同時に開催されたインディアン会議に際し、ラインハートはこのイベントとそれに参加したアメリカ先住民の人々を撮影するよう依頼された。後に写真家エドワード・カーティス(1868–1952)に雇われることになる助手のアドルフ・ムアー(1860-1913)とともに「世紀末のインディアン指導者を撮影した最も優れた写真のひとつ」とされる作品を作り上げた。

Bull Ghost
Portrait of standing Bull Ghost wearing feather bonnet, 1900

カンザス大学スペンサー美術館の元写真学芸員であるトーマス・サザール(1951-)はラインハートのコレクションについて次のように語っている。

そのドラマチックな美しさは、それまでの繊細さに欠けるアメリカ先住民の写真とは一線を画すものであった。ラインハートの写真は、剥離した民俗学的な記録ではなく、表情の強さを重視した個人の肖像画である。ラインハートとムアーは、インディアンの被写体をこのように威厳をもって描いた最初の写真家ではないが、広く見られ、配布されたこの大きな作品群は、その後のアメリカ先住民の描写を変える重要な影響を与えたと思われる。

ラインハートとムアーは、博覧会会場のスタジオで、ドイツ製レンズ付きの8×10ガラス乾板カメラを使って、インディアン会議に出席するアメリカ先住民を撮影した。

Sauk tribe family
Sauk tribe family, Omaha, Nebraska, 1899

プラチナプリントは、この媒体の持つ幅広い階調を実現するために制作されたものである。インディアン会議の後、ラインハートとムアーは2年間インディア居留地を回り、会議に出席していないアメリカ先住民のリーダーを描くとともに、先住民の日常生活や文化の一般的な側面を描いていった。ラインハートンの写真コレクションは、現在ハスケル・インディアン・ネーションズ大学に保存されている。1994年以来、このコレクションは、インディアン局およびホールマーク財団の資金援助を受けて、整理、保存、複写、コンピュータデータベースへの目録作成が行われている。1898年の博覧会、1899年の大アメリカ博覧会の画像、1900年のスタジオポートレート、同じく1900年にモンタナ州のクロウ機関で撮影された写真などが含まれている。

Smithsonian Frank A. Rinehart (1861–1928) Biography and Works | Smithsonian American Art Museum

2023年3月21日

きみには終りがあるのかい ぼくにもあるのかい

京阪電車の特急にはプレミアムカーと呼ばれる特別車両が一両連結されている。JR のグリーン車に相当、座席指定で追加料金が必要である。当初はは8000系車両のみだが、2021年に3000系にも導入された。

京阪エクスプレス

市バスを降りて 三条を東へ
あの娘はまだこない 鴨川プカリ
線路はクネクネ 淀川ノロノロ
京阪特急はウロウロ 夢路をウトウト
冬はユリカモメ 春は桜
夏は鮎釣りだけど 秋はなんだっけ

太陽は右左 雲が揺れる
川辺の兎が飛んで 鳥とジョッギング

おじさん何処へ おばさんどちらまで
四角いビルを見上げ ぼくはフラフラ

淀屋橋に滑り込み 終着駅とアナウンス
きみには終りがあるのかい ぼくにもあるのかい

これは京都から京阪特急に乗って仕事場の大阪に通っていた頃、1986年3月に作った歌である。作曲能力がないのでメロディはアメリカの伝承歌謡 "New River Train" のそれを借りている。京阪電車が東福寺~三条間の地下化をしたのは翌1987年5月で、自動車交通の混雑が大幅に緩和された。同時に出町柳まで延長され、大阪への通勤圏が広がった。ただし車窓からの風情ある眺めが消え、大いに落胆したものである。歌では淀屋橋が終着駅となっているが、現在は中之島である。2017年8月、それまで追加料金なしで乗れていた特急8両編成のうち1両に、有料指定座席車であるプレミアムカーを導入した。自分で書くのも気が引けるが、この歌は好きだし、思い出も多い。だから歌詞はこのままにしておこうと思う。

YouTube  "New River Train" performed by Bill Monroe (mandolin) and Charlie Monroe (guitar) 1936

2023年3月19日

サチーン・リトルフェザーがアメリカ先住民と偽っていたと姉妹が証言

Sacheen Littlefeather marching in a street parade, San Francisco, 1990
Sacheen Littlefeather adorned w. tribal, beaded pigtail decorations & feather in her hair as she wears a down jacket over squaw dress while marching in a street parade; San Francisco, 1990.

ウィキペディアによると、サチーン・リトルフェザー(1946–2022)はアメリカ先住民の女優、活動家で、カリフォルニア州サリナス出身、アパッチ族とヤキ族の血を引く父と白人の母の間に生まれたという。女優としては主に端役で『誇り高きインディアンの英雄・ウィンターホーク』など数本の映画に出演したほか、アメリカ先住民の権利尊重の活動家として活動した。中でも注目を浴びたのは、1973年の第45回アカデミー賞授賞式であった。マーロン・ブランド(1924–2004)は『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞を受賞したが、 彼はハリウッドのアメリカ先住民に対する扱いが不当であるという理由で受賞を拒否、授賞式にも席せず、代わりに自分の書いたスピーチをアメリカ先住民の衣装を着た彼女に読ませようとした。ブーイングを受けたため、彼女はブランドのスピーチを壇上で読むことは出来なかったが、後に報道陣に対して読み上げた。このことで彼女は映画界でブラックリストに載せられ、芸能界からも締め出された。以上がウィキペディアの説明で、私もマーロン・ブランドのアカデミー主演男優賞拒否の件はよく憶えている。2022年10月、ニューヨーク・タイムズ紙は、長年にわたる何千もの記事で紹介された「アパッチの活動家であり女優」を無批判に悼んだ。ところが最近 Sacheen Littlefeather was a Native American icon. Her sisters say she was an ethnic fraud(サチーン・リトルフェザーはアメリカ先住民の象徴だった。彼女の姉妹は、彼女は民族的な詐欺師であったと言う)と題した、2022年10月25日付けサンフランシスコ・クロニクル紙電子版の衝撃的な記事に出くわした。

At the 1973 Academy Awards ceremony
At the 1973 Academy Awards ceremony, Sacheen Littlefeather refuses the Oscar for Best Actor on behalf of Marlon Brando, who won for his role in "The Godfather."

リトルフェザーはクロニクル紙の最後のインタビューで、アカデミー賞のステージに立った理由を「インディアン女性である私自身のためではなく、私たち、すべてのインディアンの人々のために心を語った...。私は真実を語らなければならなかったのです。それが受け入れられるかどうかは別として、ネイティブの人々の代表として話さなければならなかったのです」ととクロニクル紙に語った。しかしリトルフェザーはその夜、真実を語らなかった。実の姉妹であるロザリンド・クルスとトゥルーディ・オルランディは、リトルフェザーがアメリカ先住民ではないと暴露したのである。「嘘だ」とオルランディは同紙独占インタビューに答えた。「私の家族はメキシコから来た。そして父はオックスナードで生まれたんだ」。そして「詐欺だ」とクルスも同意した。「部族民の遺産に嫌悪感を抱く。それに......私の両親を侮辱するものです」と。姉妹は別のインタビューで、自分たちはネイティブ・アメリカン/アメリカン・インディアンの末裔ではないと語っている。彼女たちは父方の血を引くヒスパニックであり、自分たちの家族は部族のアイデンティティを主張することはないと語っている。

sisters
Trudy Orlandi (left) and Rosalind Cruz pose with family photos that include their sister Marie Louise Cruz, who later took the name Sacheen Littlefeather.

オルランディは、姉が詐称したことについて「つまりメキシコ系アメリカ人ではプリンセスにはなれないということです」「彼女の中では、ヒスパニックであることよりも、アメリカン・インディアンであることの方が格上だったんです」と分析している。個人的な利益のためにネイティブであることを捏造したプレテンディアンと呼ばれる人々がいて、リトルフェザーはその中の一人であるようだ。アリゾナ州にある連邦政府公認の部族で、スペイン植民地支配から隔離された長い歴史を持つホワイトマウンテンアパッチの血を引くという彼女の主張は興味深い。リトルフェザーは1946年『怒りの葡萄』の著者ジョン・スタインベックの故郷であるサリナスで、マリー・ルイーズ・クルーズという名前で生まれた。両親はマヌエル・イバラ・クルスとジェロルディン・バーニッツである。妹たちは、自分たちの家族はこの遺産を主張することなく育ってきたと話してくれた。姉の話を聞いて、クルーズはホワイトマウンテンアパッチ当局に、自分や家族の誰かが部族に属しているかどうか確認した。しかし登録の記録はなかったという。またリトルフェザーが語った自分たちの暴力的で貧しい生い立ちについても、明らかに虚偽であると主張している。彼らの家族には、何百年も前の先住民の血が混じっているのだろうか? メキシコ系住民の多くはそうである。しかし先住民のアイデンティティはそれ以上に複雑である。

Sacheen Littlefeather
Sacheen Littlefeather took part in "An Evening with Sacheen Littlefeather" at the Academy Museum of Motion Pictures on Sept. 17, 2022 in Los Angeles.

遠いフランス人の血を引く米国市民が、フランス国籍を主張することはできない。そしてその人がアカデミー賞のステージでベレー帽をかぶり、フランス国家を代表して発言することは馬鹿げている。ホワイトマウンテンアパッチは、非常に特殊な部族であり、メンバーシップのルールも非常に特殊である。その遺産を偽り、スポークスパーソンになるために利用し、その寓話を補強するために、虐待するインディアンの父親に関する危険な表現に頼ったことは、実際に損害を与えたのである。リトルフェザーがアメリカン・インディアンであることを主張しなければ、リトルフェザーの人生やキャリアはもっと良くなっていたと思うかと尋ねると、オルランディは「サチーンは自分のことが好きじゃなかった。メキシコ人であることが嫌だったんです。だから、そう、他の人を演じた方が彼女にとって良かったんだ」と語りは「彼女はファンタジーの中で生き、ファンタジーの中で死んでいった」と続けた。なお英国ガーディアン紙がクロニクル紙のインタビュー記事を転載して ‘I promised Brando I would not touch his Oscar’: the secret life of Sacheen Littlefeather(ブランドと約束したんだ、オスカーには触れないって」:サチーン・リトルフェザーの秘密の生活)という記事を掲載している。現代史こそ実は複雑で理解が難しいと言われるが、サンフランシスコ・クロニクル紙のインタビューの内容を見ると、誠に残念ながらサチーン・リトルフェザーの出自に疑問を持たざるを得ない。

Chronicle  Sacheen Littlefeather wasn't Native American, say her sisters | San Francisco Chronicle

2023年3月17日

誰がエレクトリックギターを発明したのか

Paul Tutmarc
Paul Tutmarc (1896–1972) and his Audiovox Electric Guitars circa 1937

20世紀は「電気の世紀」であったといわれる。18世紀までの静電気時代は、電気は単にパチパチと火花のとばす好奇心の対象に過ぎなかった。ところが20世紀に入り、電信電話、電灯、電力と動力、無線、能動素子とエレクトロニクス、IT情報の順で発展してきた。音楽の世界では大音量の出力を可能にしたエレクトリックギターの出現を挙げることができる。しかし誰がエレクトリックギターを考案したのかという点は意外と分かっていない。詠み人知らずの伝承民謡を著作権登録すれば、申請者が作ったということになる。同じようなような意味で、楽器も申請して特許を取得すれば、発明者と呼ばれるようになる。1890年、アメリカ海軍の将校、ジョージ・ブリード(1864–1939)が 電気で音を出す装置の特許を取得した。

George Breed's patent for the fretted string instrument 1890

この装置はギターの上に作られ、弦からの振動を電流に変換するものだった。ブリードの発明は「非常に珍しく、ギターに似ていない」と表現される音を生み出した。音を増幅したわけではなく、弦楽器と電気を組み合わせた最初の発明者の一人だった。次に特許で知られるのがジョージ・ビーチャム(1899–1941)のラップスティールギターである。1934年に出願、1937年に特許を取得した。バンジョーに似た形で「フライパン」と呼ばれた。ピックアップには、磁界を集中させるために各弦の下に6個のポールピースを配置した馬蹄形のマグネットを採用している。ポールピースの周りに巻かれた1つの大きなコイルが、弦を弾いたときにポールピースの端から離れたり離れたりして振動し、磁束の変化を感知する。この特許には、楽器に取り付けられた電気回路と増幅器についても記載されている。

George Beauchamp's patent for the Frying Pan guitar 1937
Lorraine Tutmarc playing the #736 bass with Paul's band

ここで想起すべきはポール・タトマルク(1896–1972)だろう。テノール歌手であり、ラップスティールギターやウクレレの演奏家でもあったタトマルクは、電気増幅されたコントラバス、エレクトリックベース、ラップスティールギターなど、様々なタイプの弦楽器を開発したことで知られている。タトマルクのオーディオボックス社は、エレクトリック・ラップスティールギターを最初に製造した企業のひとつであり、タトマルク自身もしばしばデモンストレーターやプロモーターを務めていた。彼は1935年にソリッドボディのエレクトリック・アップライト「ブル・フィドル」を発明したが、それは主に宣伝ツールとしての役割を果たした。彼は独自の "ブレード" ピックアップを搭載したラップスチールギターとそれに付随するアンプを製造した。彼の真の名声は1936年に発売されたフレット付きのソリッドボディの "Audiovox Model 736 Bass Fiddle" の開発と販売であったが、これは横向きで使用するように設計されていた。この当時の革新的な楽器は歴史上最も早いエレクトリックベースであり、はるかに有名なフェンダー・プレシジョン・ベースよりも10年半も先行した楽器と考えられている。彼は演奏家であり、企業経営者だった。従って電子工学に造詣が深かったとは断言できない。もしかしたらオーディオボックス社の技術者が新しい電子楽器の開発をしたのかもしれない。右上の写真を見ると、妻のロレーヌがこのベースを弾いているが、彼女は最初のエレクトリックベース奏者と言えそうだ。標題に戻そう。誰がエレクトリックギターを発明したのか、その特定は困難である。そもそもエレクトリックギターとは何かという定義が様々で、異なった解釈が非常に多いからだ。

YouTube  Lsten to "Midget Auto Blues" by Paul Tutmarc and his Wranglers (circa 1944) on YouTube

2023年3月16日

アフリカ系アメリカ先住民の奴隷を解放したアメリカ先住民

Comanche family
The Comanche family in southwestern Oklahoma early 1900s

アメリカ先住民の古写真を捜していたところ、スミソニアン協会が発行している雑誌の極めて興味深い記事が目に止まった。オクラホマ州南西部のコマンチ族一家の写真を添えた「アフリカ系アメリカ先住民の系譜と題した記事」で、副題は「アンジェラ・ウォルトン=ラジ(Angela Walton-Raji)は政府文書を用いて、アメリカ先住民が所有していた奴隷が先祖だったと確認した」となっている。ラジは20年近くアフリカ系アメリカ先住民の系譜を研究しており『ブラックインディアン系図研究』の著者である。アフリカ系アメリカ先住民(African-Native Americans)とういうのは日本では耳慣れない用語だが、ネイティブアメリカンとアフリカの両方のルーツを持つ人々のことを指し、ゆえに2つの民族が融合したサブカルチャーが形成されている。ラジの祖先は1907年にオクラホマ州となったインディアン準州の5つの部族(チェロキー、チカソー、チョクトー、クリーク、セミノール族)の奴隷であったアフリカ系アメリカ人である。チェロキー族は1863年にアフリカ系アメリカ先住民の奴隷を解放し、南北戦争の後、他の部族も同じように解放した。チカソー族を除くすべての部族は、最終的に自由民に部族内の完全な市民権を与えた。オクラホマ州制定の準備として、アメリカ議会はドーズ委員会を設立し、部族の集団的な土地所有を解消し、個々の部族に土地を割り当てることを任務とした。何千人もの人々が、部族の一員であることと土地の分配を受ける権利を証明するために委員会の前に姿を現した。

Foxx family 2008
Walton-Raji suggests Africa-Native Americans today, like the Foxx family pictured.

チェロキー族と一緒に1,200人の奴隷が強制移住させられた。チョクトー族は、1830年と1831年の冬に移住した最初のグループだが、インディアンテリトリーに連れて行く奴隷を買うために、多くのチョクトー族の人々が個人資産を売ったという話は、歴史の本には書かれていない。どんな歴史書でも、あるいはグーグルで「奴隷制を反映した地図」を検索しても「南部」と呼ばれる地域の地図が表示され、そこにはオクラホマがあり、まるで奴隷制が行われていないかのように見える。1866年の条約でアメリカ先住民準州の奴隷制度がようやく廃止されたとき、あるコミュニティが栄えたという事実がある。ある家族が土地割り当てを受けるべきかどうかを決めるための情報をドーズ委員会に与えた。土地は部族が共同で所有しており、自由民は1866年以降も部族の一員だった。なぜなら、彼らは他に行くところがなく、1830年代からそこが彼らの故郷だったからである。だから彼らはその場所に留まり、その言葉を話していた。しかしオクラホマ州の州都化が近づき、残りの土地を白人入植者のために解放する前に、アメリカ政府は部族が共同で所有していた土地を取り上げ、個々のメンバーに再分配することを決定したのである。アンジェラ・ウォルトン=ラジは「白人であろうと、黒人であろうと、混血であろうと、移民の家族であろうと、アメリカ大陸出身の家族であろうと、あなたの遺産はあなたの遺産です。あなたの家族史は、民族に関係なく、同じ方法論で行われます」と強調している。

Smithsonian An Ancestry of African-Native Americans by Katy June-Friesen| Smithsonian Magazine

2023年3月14日

ポルトガルのファドをパリのラジオ局で聴く

Radio Alfa Fado
Amália Rodrigues

アナログ LP レコードや CD をセットするのが面倒なときは、ネットワークオーディオプレーヤーでインターネットラジオを流しっぱなしにすることがある。よくアクセスするのは、アメリカのルーツ音楽を中心にしたラジオ局、そしてヨーロッパのクラッシック音楽局。たまにアルゼンチンタンゴ専門局にチューナーを合わせることもあるが、最近はポルトガルのファド専門局がお気に入りである。ユネスコによって人類の無形遺産に指定されたファド(Fado)は、ポルトガル語で「運命」「宿命」を意味する。ポルトガルギターとヴィオラで伴奏されるが、アマリア・ロドリゲス(1920-1999)がファドの女王(Rainha do Fado)としてよく知られている。当初は詳細不明でポルトガルの放送局だと思っていたが Radio Alfa Fado はパリから発信されていることが分かった。1987年に設立されたのだが、イル・ド・フランス地方、すなわちフランスの首都パリを中心とした地域圏のポルトガル人コミュニティを対象としている。ヨーロッパ大陸の最西端、ロカ岬に立って夕陽を眺めながら、ルイス・デ・カモンイス(c.1524-1580)の「ここに地終わり海始まる」に思いを馳せたことが懐かしい。そして夜、リスボアの居酒屋で聴いたファドが忘れ難いものとなった。ファドはポルトガル人のアイデンティティの音楽である。異郷の地に住む彼らにとっては唯一無二のラジオ局だと想像する。

broadcaster WEBRADIO | ALFA RADIO | ALFA FADO | ALFA MAIS | ALFA POP | Radio ALFA FM 98.6

2023年3月10日

カナダ先住民ファーストネイション略史

Wolfe Teeth of Nakoda Nation
Wolfe Teeth of Nakoda Nation: Photo by Harry Pollard

カナダではイヌイットもしくはメティ以外の先住民を First Nation(最初の部族) と呼ぶ。1910年代初頭、写真家ハリー・ポーランド(1880–1968)はカナダ各地を旅して、西部やアルバータ州に最初に居住した先住民の写真を撮り続けた。サーシー族は、20世紀半ばに200人まで減少したが、その後2,000人まで増加した。彼らは伝統的なドレス、羽毛の頭飾りを身につけ、バイソンを狩る姿で描かれている。アルバータ州公文書館で見ることができるこれらの歴史的な画像は、個人の名前も含まれており、それ自体が物語を語っている。そしてその多くは「孤高の歩くバイソン」や「走るアンテロープ」など、動物をモチーフにした名前である。ヨーロッパとの接触以前のアルバータ州の先住民には、シクシカ族、カイナイ族、ピイカニ族、グロ・ヴァントル族などがいた。クートネイ族やクロウ族などの他のグループは、バイソンを狩るためにこの土地に遠征し、戦いを仕掛けた。ビーバーの一派であるツウ・ティナ族が土地の中央部と北部を、北部はスレイビー族が占拠していた。

Woman smoking meat
Woman smoking meat

1534年、ジャック・カルティエ(1491–1557)というフランス人探検家がカナダにやってきた。彼は8年の間に3回のカナダへの航海を行った。最初の航海では、セントローレンス湾に入り、探検した。2回目の航海ではセント・ローレンス川に沿って、イロコイ族の町スタダコナ(ケベック州)とホチェラガ(モントリオール)に到達した。この地域のイロコイ族は、この川は3カ月の旅を要するほど西に伸びていると説明した。ヨーロッパ人は初めて、この土地の広大さを知ることになった。カルティエは、指示書にある「大量の金とその他の貴重なもの」は見つけられなかったが、湾岸の豊富な漁場と本土の毛皮を見つけ、ヨーロッパの商業的利益を誘った。その後3世紀にわたり、フランス、イギリスをはじめとするヨーロッパの入植者たちは、東部での漁業や毛皮貿易で繁栄し続けることになる。土地や植民地の設立に関わる多くの戦争や戦いを経て、入植者や探検家たちは徐々に西へと移動し始めた。カナダ西部は、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてアメリカからの着実な移民によって急速に発展した。多くの移民が森林を切り開き、木材を切り出し、豊かな土壌を耕した。土地に対する需要が高まり、人々はさらに西の開拓地に目を向けるようになったのである。毛皮貿易が衰退していく中で、イギリス政府や英領北アメリカの指導者たちは、大草原の農業の可能性に関心を持つようになる。

Joe Big Plume
Joe Big Plume of Tsuu T'ina Nation

1867年、カナダ連邦が誕生した。1870年、カナダはハドソンズ・ベイ・カンパニーからルパートランドとノースウェスト・カンパニーを購入し、西部と北極圏全域をノースウェスト・テリトリーと銘打った。1874年、カナダは後のアルバータ州で存在感を示し始め、ノースウエスト騎馬警察を草原を越えて現在のレスブリッジに派遣し、フォート・マクレオドを設立した。1875年には、現在のカルガリーとエドモントンに砦を築く。1883年にカナダ太平洋鉄道がカルガリーまで開通した。ナンバード条約とは、1871年から1921年にかけて、カナダ政府と先住民の間で結ばれた11の条約である。政府は条約によって先住民を白人や植民地の社会と文化に同化させることができると考えた。先住民は、条約を自分たちの伝統的な領土の分配を交渉するための手段だと考えていた。政府の交渉担当者は、伝統的な領土と引き換えに、土地の特別な権利、現金支給、狩猟・漁具、農業用品の配布など、さまざまな約束を先住民族にした。これらの合意条件は条約によって異なり、論争や争いが絶えない。条約は現在もなお、先住民族コミュニティに法的・社会経済的影響を及ぼしている。

Native American  Canada's First Nations people in rare historical photos by Harry Pollard, Early 1910s

2023年3月7日

アメリカ先住民女性のエンパワーメントの象徴ジングルドレスダンス

ingle Dress Dancers

アメリカ先住民のジングルドレスダンスほど賑やかで、シンフォニックなものはないだろう。オジベウ語でジイバアスカ・イガナンと呼ばれる金属製の円錐の列がドレスからぶら下がり、ダンサーが動くとガラガラと音を立てる。伝統的なダンスでは、足を組まない、後ろ向きに踊らない、輪を作らないということが求められる。フットワークは軽く、軽快で、地面に近い。ドレスは動きながら鳴る。現代のジングルドレスダンスでは、より流動的で、足を交差させ、完全に円を描くことができ、後ろ向きに踊ることができる。ドレスはより自由に動けるようにデザインされているが、金属製の円錐はそのままで、歌いながら踊り、ダンサーはしばしば羽の扇子を持ちながら踊る。ジングルドレスダンスは、1920年代から1950年代にかけて人気と文化的意義が高まったが、その後衰退し、元の夢の状態に戻り、1980年代にパウワウの拡大や競争の出現によって再び息を吹き返した。ジングルドレスダンスのルーツは、ウィスコンシン州、ミネソタ州北部中央のミル・ラックス・オジビュー・コミュニティ、オンタリオ州のホワイトフィッシュベイなど、オジブエの国のどこかにあると言われている。

ingle Dress
Jingle Dress, Whitefish Bay, Wisconsin, 1940

このパウワウダンスの起源については、様々な説があるが、最も多いのは、このドレスとダンスがオジブエ族のビジョンから遺されたものだというものである。このパウワウダンスの起源については、様々な説があるが、最も多いのは、このドレスとダンスがオジブエ族のビジョンから遺されたものだというものである。第一次世界大戦中、オジビュ族の少女が、スペイン風邪の流行が原因なのか、重い病気になった。父親は彼女を失うことを恐れ、娘を救うためのビジョンを求めた。彼はドレスと踊りの説明書を見て、娘のためにドレスを着せ、片足を常に地面につけたまま「春のような」ステップをいくつか踏むように指示した。

Brenda J. Child

すると、娘の体調は次第に良くなり、踊り続けることができた。そして、ついに完治した彼女は、踊り続け、やがて第1回ジングルドレスダンス協会を結成したのである。ジングルドレスダンスの伝統が重要視しているのは、このダンスが1921年にアメリカ先住民の宗教が弾圧され、宗教ダンスが非合法化された時期と重なることである。競技ダンスやパウワウのサーキットが拡大し、国内のさまざまな地域の部族が初めてこのダンスに触れるようになると、再び爆発的に人気を取り戻した。チペワ族のレッドレイクバンドの市民であり、歴史家であるブレンダ・J・チャイルド(1959-)は『リフレクションズ』で、伝説のウィルマ・マンキラー(チェロキー族初の女性酋長)が、1980年代にレッドレイク部族のロジャー・ジュルダン酋長からジングルドレスを贈られたことを取り上げている。1920年代にダンスがウィスコンシン州、そしてダコタ州へと広がっていく中で、ジングルドレスとその儀式が、五大湖地域の厳しい環境の中で、オジブウェの女性がいかに活発にコミュニティの健康や精神を維持するか、いかに密接に関係していたかという点チャイルドは着目した。パウワウが盛んになり、ダンスが当初の国境を越えて行われるようになると、ダンスはより多くのネイティブ・コミュニティに取り入れられるようになった。それは、祈りと癒しという、フォー・コーナーズ(ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州、アリゾナ州)の部族がよく知っているものとの結びつきがあったからである。

Native Ametican Woman The Jingle Dress: Healing through Dance | American Indian Studies Univ of Minnesota

2023年3月4日

カウボーイハットの歴史と特徴

Cowboy Hats
Billy Strings at Ryman Auditorium, Nashville

先月26日、テネシー州ナッシュビルのライマン公会堂で開催されたブルーグラスの麒麟児ビリー・ストリングス(1992年生まれ)の神技ギターピッキングとボーカルのライブ動画を YouTube で楽しませてもらった。特筆すべきはビリーが白いカウボーイハットとスーツで登場したことである。バンドのメンバーもブルーのハットにスーツ姿だったが、ネクタイがリボンタイなのは、レシター・フラット&アール・スクラッグスのフォギー・マウンテン・ボーイスに倣ったのかもしれない。10代の時にはインディ・ロックバンドで演奏していたビリーだが、グランド・オール・オプリ会場として知られる、カントリー音楽の殿堂ゆえの舞台衣装だったのかもしれない。ブルーグラス音楽の始祖ビル・モンロー(1911–1996)は、兄チャーリーとのモンロー・ブラザースの時代からステットソンの帽子を愛用していた。オリジナルのブルーグラス・ボーイズが誕生したのは1939年だった。ビル・モンローの意図を推測するのは難しい。

Bill Monroe wore Stetson Cowboy Hat

ブルーグラス・ボーイズのドレスコードやステージでの見せ方については、テネシー州ナッシュビルのグランド・オール・オプリの興行主であるジョージ・D・ヘイ(1895–1968)の圧力に大きく影響されていたのではないかと考えられる。ヘイはステージショーのために、みんなに本物の「カントリー」を見せたかったのだろう。彼はミュージシャンのためにカントリー調のステージ上の人格を考案し、それに合わせて派手なモノマネをしたのである。モンローは、ヘイが好んでいた下品で搾取的で自虐的な田舎の風刺画から離れて、ケンタッキーの貴族と呼ばれるイメージに向かうことで、他のオプリの仲間たちとは一線を画そうとしたのだと考えられる。黎明期のカントリー音楽のミュージシャンたちは、ステットソンの帽子をカウボーイハットという認識を持っていなかった可能性がある。ステットソンのウエスタンハットがカウボーイハットとしてイメージが定着したのは、やはり西部劇の影響が大きいのではないだろうか。巨星ハンク・ウィリアムズ(1923–1953)もステットソンの帽子を着用していたが、バンド名のドリフティング・カウボーイズが象徴的だ。

Buffalo Bill's Wild West
Young cowboys from Buffalo Bill's Wild West, 1886, posing with their guns and chaps.

カウボーイハットとは、クラウン(帽子の山の部分)が大きく膨らんだオーバーフロー型のハットと定義されている。テンガロンハットと呼ばれることもある。突出したクラウンと広いツバを持ち、ファッションや天候の保護など、特定の条件に合わせて被る人が変更できるようにうまく設計されている。欧米では代表的な帽子で、メキシコ人がかぶっていることで有名である。アメリカ西部や南部の牧場で働く人々、メキシコのカントリーミュージック歌手やランチェロミュージシャン、北米のロデオサーキットで活躍する人々の間で、カウボーイハットは一般的なものとなっていた。カウボーイハットは西部劇で最もよく知られた服装だが、当初は現在のような丸くカーブしたブリム(つば)を持っていなかった。最初のカウボーイハットは、1865年、アメリカの南北戦争末期にジョン・B・ステットソン(1830–1906)によってデザインされた。ステットソンは有名な帽子メーカーで、フィラデルフィアにルーツを持つ。彼がデザインした最初のカウボーイハットは、当時「平原のボス」と呼ばれた。この帽子は、ビーバーやウサギなどの小動物の毛皮と細い毛を使って作られていた。

Resistol Hatco
Resistol Hatco, Garland, Texas

現在のカウボーハットを変えたのはメキシコ人である。デザインし直し、保温性を高めるために高いクラウンにし、メキシコの暑く日差しの強い気候を遮るためにつばを広くした。また、ロープの邪魔にならないよう、縁を上向きにカーブさせた。西部の人々には標準的な頭飾りがなく、カウボーイハットの進歩とともに、西部の国々はそれぞれのニーズに合わせてカウボーイハットをかぶっていったのである。この帽子は人気を博し、作家のルシウス・ビーブ(1902– 1966)は「西部を制した帽子」と名付けた。カウボーイハットはその後、地球上のさまざまな地域に広がり、さまざまな理由で着用されるようになった。ファッションのために、天候のために、その人気のために、それぞれそれを身に着けている。カウボーイという固有の生業、アメリカ西部という固有の地域の帽子ではなくなったのである。現在、カウボーイハットは毛皮をベースにしたフェルト、ストロー、時にはレザーを使って作られている。帽子の内側にはシンプルなバンドが付けられ、頭部を安定させるが、クラウンの付け根に紐が付いているものもある。色は茶色、黒、ベージュが一般的である。なおステットソン社は1970年に製造を中止した。ステットソンハットは現在、テキサス州ガーランドのハットコ社によって製造されている。

Cowboy Brown How Dress Worn in the West became Western – Points West Online by Nancy McClure