2022年8月30日

安倍晋三元首相の「国葬」を考える

Painting Shinzo Abe
インドのムンバイの美術学校の前に展示される追悼絵画(©2022 ロイター)

自民党の岸田文雄は優柔不断な政治家だが、安倍晋三元首相の銃撃事件からわずか6日後の7月14日、国葬の実施を表明した。そして8月26日、内閣は国費約2億5,000万円を支出することを閣議決定した。9月27日に日本武道館で行われる国葬費用は、今年度予算の一般予備費から支出される。

朝日文庫(2019年4月30日)

国内外から最大6,000人ほどの参列が想定される中、ほかにも警備や海外要人の接遇に伴う費用がかかる。こうした費用は含まれていないため、国葬にかかる総額はかなり高額になると想像されるが、不透明なままである。8月20日、21日に実施された毎日新聞と社会調査研究センター、産経新聞とFNNによる世論調査では依然、安倍元首相の国葬への反対が賛成を上回っており、世論が置き去りになっている。とは言え賛成の動きは看過できない。25日には「ありがとう安倍元総理」と題した「デジタル献花」のサイトが開設された。国葬に賛成し、弔意を示したいと、20~30代の経営者ら有志が中心となり立ち上げたという。前稿「昭和の妖怪岸信介と統一教会」で触れたように、安倍晋三は「反韓」「嫌韓」の右翼保守層の間で圧倒的な支持を得ていた。しかし青木理『安倍三代』(朝日文庫)に詳述されているように、平和主義者だった父方の祖父安倍寛、そして保守でありながらリベラル姿勢を貫いた父親の安倍晋太郎の遺志を受け継がず、党内きっての反共親米派だった母方の祖父岸信介に傾倒したのである。岸は寛信、晋三を溺愛、娘の洋子に私邸に「孫を連れてこい」言ったという。安保闘争が激化、岸の私邸をデモ隊が囲むようになった。幼い安倍晋三が「アンポ、ハンタイ」とはしゃぎ、周囲から注意されたというエピソードが語り継がれている。すでに安倍寛は他界していたし、晋太郎は選挙戦や政治活動で自宅を留守がちにしていたから、岸が大きなに影響を与えたのだろう。祖父への敬慕の情が、その後の安倍晋三の人格を形成していったのだろう。学生時代の彼はむしろノンポリティカルだった点は注目に値する。そして政治家になってからは岸信介の政治信条を追随するようになったである。

PDF_BK  前田 修輔「戦後日本の公葬」国葬の変容を中心として(PDF 1.07MB)の表示とダウンロード

2022年8月28日

昭和の妖怪岸信介と統一教会

祖父の岸信介に抱かれた安倍晋三
母方祖父の岸信介に抱かれた安倍晋三(右)と寛信(1957年2月)

写真は岸信介(1896–1987)が第56代内閣総理大臣に任命された1957年2月25日、溺愛してやまない孫を囲んでの祝賀会だと思われる。岸信介は1930年代、中国東北部の傀儡国家・満州国を搾取的に支配したことで知られ「昭和の妖怪」の異名を持つ。戦時中の東条英機内閣で商務大臣、軍需副大臣を務め、1941年12月7日の対米宣戦布告に共同調印を行った。第二次世界大戦後、A級戦犯の疑いで3年間収監された。しかしアメリカ政府は起訴も裁判もせず、最終的には釈放した。岸は戦後の日本を親米的な方向に導くのに最適な人物と見なされたからだ。米国の支援を受けて、彼は1950年代、日本社会党の脅威に対抗して日本の保守陣営を強化することになった。1955年に保守系小政党の合併により強力な自由民主党(LDP)の結成に尽力し「1955年体制」(自民党が圧倒的に優位な政党であった期間)の開始の立役者とされる。首相として岸は1960年の日米安全保障条約の改訂を誤って処理した。日本の近代史における最大の抗議行動である安保闘争を引き起こし、岸首相は不名誉な辞任を余儀なくされる。弟の佐藤栄作も総理大臣になったが、孫である安倍晋三は二度にわたって首相を務めた。その安倍は2022年7月8日、第26回参議院議員通常選挙のため、街頭演説を奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅前付近にて行っていた際に、犯人自作の銃で背後から撃たれて死亡した。

家系図
戦後日本の政財界を席巻した岸・安倍家の閨閥

容疑者の母親が統一教会に多額の寄付をしたため、家庭崩壊したのが犯行の動機らしいと報じられると、同教団と安倍の関係が俄かに脚光を浴びることになった。安倍晋三は「反韓」「嫌韓」の右翼保守層の間で圧倒的な支持を得ていたが、教団は韓国で生まれた。朝鮮半島問題専門誌『コリアレポート』の辺真一編集長は「安倍氏は根っからの対韓強硬派ではない。そもそも外祖父の岸信介元首相は日韓の黒幕と称されたほどの日韓国交正常化の立役者であり、父親の安倍晋太郎元外相も代表的な親韓派政治家であった。安倍氏はその二人のDNAを受け継いでいるのである」と書いている。教団と自民党との関係は半世紀に及ぶ。1954年に文鮮明によって韓国で創設されたが、1959年ごろから日本で布教を始めた。1964年に宗教法人として認証されたが、本部を渋谷区南平台町に移転。岸内閣時代には首相公邸として使用された場所で、隣には岸の自宅があったという。教団は1968年に設立した反共産主義の政治組織「国際勝共連合」を梃子に、党内きっての反共親米派だった岸信介と気脈を通じ繋がりを深めた。両者の関係は岸の孫、安倍晋三に受け継がれた。これを機会に改めて青木理著『安倍三代 』を紐解いた。特筆すべきは父安倍晋太郎が自民党重鎮の政治家で、保守でありながらリベラル姿勢を貫いたことである。そして岸信介と違って平和主義者だった父方の祖父安倍寛も深堀りしている。残念ながら安倍晋三はそのいずれも受け継がなかったことを本書で再認識した。ご一読を。

Amazon  青木 理(著)『安倍三代』 (朝日文庫) 朝日新聞出版 (2019年4月30日第1刷発行)

2022年8月22日

統一教会の闇を漂流し始めた岸田文雄

岸田文雄
仕事は無策でもコロナに感染する

毎日新聞によると、同社と社会調査研究センターは20、21の両日、全国世論調査を実施した。岸田内閣の支持率は36%で、7月16、17日の前回調査の52%から16ポイント急下落した。また自民党と統一教会の関係に問題があったと思うかとの問いでは「極めて問題があったと思う」が64%「ある程度問題があったと思う」が23%で、合わせて90%弱が問題があったと答えた。そして首相官邸は21日、岸田文雄首相が新型コロナウイルスに感染したと発表した。NHKの調べによると、全国の感染者数は21日19時15分現在22万6,171人で、226人が死亡している。いったんピークアウトしたかに見えた第7波のピークがリバウンドしている。人の移動の自粛を要請するメッセージを岸田政権が一切発さなかった影響がきわめて大きく、皮肉にも自身の感染は休暇で過ごした保養先だったらしい。22日夜療養中の公邸からオンラインで記者団の取材に応じ、統一教会と閣僚らの関係が指摘されている問題について「政府が疑念を持たれることがないようしっかり過去の説明をした上で、未来に向けてこの団体との関係を断つよう徹底していくことが重要だ」と述べた。

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しかし過去に教団と接触があった閣僚の名があがっているにも関わらず、具体策を提示していない。彼は「検討」を連発するので「検討使」と揶揄されている。珍しく決断したのは、安倍晋三の「国葬」を早々と閣議決定したことである。これには上記毎日新聞の世論調査で「賛成」30%「反対」53%という結果が出ている。失政を重ねているが、岸田自身の説明が聴こえて来ない。第2次改造内閣で自民党政調会長に萩生田光一を指名したが、これは安倍派議員の顔色をうかがった典型的な派閥人事であった。しかしこれは裏目に出ている。萩生田が統一教会と抜き差しならぬ関係にあることが分かり、テレビの情報番組などで叩かれているからだ。このままでは内閣支持率が落ちるばかりだが、岸田は萩生田を自民党の役員から下ろす気配はない。萩生田の統一教会施設訪問をリークしたのは教団関係者だった。つまり自民党と統一教会の関係を一番知っているのは教団なので、萩生田は癒着を断ち切ることができない。それを知っている岸田は何も言えず、ただ黙認せざるを得ないのだろう。かくして岸田文雄は統一教会の狡猾な策略に翻弄され、その闇を漂流し始めたのである。

PDF_BK  藤田庄市 | 日本における統一教会の活動とその問題点 | 活字メディアで報道された批判を中心に

2022年8月18日

統一教会の背後霊に取り憑かれた萩生田光一

萩生田光一
背後霊に取り憑かれた萩生田光一

ニュースサイト「デイリー新潮」が、萩生田光一政調会長が生稲晃子の選挙支援を統一教会に要請か、と報じたのは8月16日だった。当ブログでは第2次岸田改造内閣に関し、総務政務官によりもよって過去に性的少数者をめぐる発言などが問題となった、衆議員議員の杉田水脈が起用されたことに疑義を呈したばかりだが、またひとつボロが出た。東京選挙区で初当選を果たした元おニャン子クラブのメンバー生稲晃子。彼女の擁立工作を主導した萩生田は選挙中、生稲を伴って八王子市内の統一教会関連施設を訪ね、支援を要請していたというのである。18日の記者団の取材に対し、6月の参院選前に生稲氏と訪れたのは八王子市子安町にある施設だと説明。子安町にある施設は教団の「八王子家庭教会」で、出入り口は複数あるものの、玄関の横の壁には「世界平和統一家庭連合八王子家庭教会」と記されている。

統一教会の旧ロゴ
統一教会の旧ロゴは旭日旗だった

萩生田は16日にニュースサイト「デイリー新潮」に報じられるまで、訪問自体を自ら明らかにすることはなく、この日も「(施設の)名前はちょっとわからない」と言葉を濁したという。そして「過日の記者会見でも申し上げましたけれども、ここは活動は一線を画してですね、そして政調会長ですから宗教法人のあり方ですとか、そういったものを政府でも動きがあると思いますので、連携をしながら、しっかり見守っていきたいなと思います」と話しているが、統一教会と縁を斬るとは断言していない。信者にとって萩生田は「家族同然」だそうだし、教会から過去の深い繋がりを暴露されることに恐れ慄いているからだろう。統一教会、そして安倍晋三の背後霊に取り憑かれた、哀れな政治家だが、自民党ともども許しがたい存在である。なお「旧統一教会(世界平和統一家庭連合)」という表記をやめ、単に改名前の「統一教会」に「統一」することにした。

NEWS  萩生田光一政調会長、生稲晃子氏の選挙支援を統一教会に要請か(8月16日付けデイリー新潮)

2022年8月3日

三浦瑠麗「大喪の礼」誤読奇譚

大喪の礼
昭和天皇「大喪の礼」古装束の皇宮護衛官に担がれ葬場殿へ向かう葱華輦(1989年2月24日・新宿御苑)

山猫総合研究所の三浦瑠麗がフジテレビ系情報番組「ワイドナショー」に出演し、天皇と上皇の葬儀「大喪の礼」を「たいもの礼」と言い間違えたため、ネットで集中砲火を浴びている。曰く「日本で少し私が憂慮するのは、天皇陛下の国葬は当然だと、これはもう "たいもの礼" だと。天皇陛下という方は国民のために祈っていただいている、本当にプライバシーを自己犠牲している。だから権威は認めるけど、民主主義で選んだ総理大臣に対して、毀誉褒貶もあろうだけれども、政治はダメってのは民主的にはおかしいと思っているんです」云々。例えば「古文書」は「こもんじょ」だけど「こぶんしょ」といった具合に、人はともすると誤読することがしばしばある。政治家も誤読が多くレベルが低い。かつて安倍晋三は「訂正云々(ウンヌン)」を「訂正デンデン」と読み、麻生太郎が「未曾有(ミゾウ)」を「ミゾウユウ」と読み間違えたことは記憶に新しい。

三浦瑠璃

教育者でもある義家弘介は「便宜(ベンギ)」を「ビンセン」そして「出自(シュツジ)」を「デジ」と読んでいる。皇室典範第25条に「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」とあるが、確かに「大喪」は「たいも」とも読む。しかし条文はいわば固有名詞で「たいそうのれい」と読めない三浦瑠麗は基本的な教養に欠け、政治学者として恥ずかしいの一言につきる。気になるのは彼女の主張は「天皇陛下の国葬は行われるのに、安倍元総理の国葬はいけないというのはおかしい」という点である。つまり安倍晋三の「国葬」と天皇の「大喪の礼」との比較は、安倍晋三の「国葬」で彼を天皇と並ぶ権威化したいという意図が見え隠れすることである。このところ連日のように、旧統一教会と癒着していた政治家の名前が報道されている。安倍晋三はその旧統一教会を政治利用した広告塔だった。だから同教会によって家庭崩壊された山上徹也容疑者は、安倍晋三を銃弾のターゲットにしたのである。ゆえに疑惑に塗れた安倍晋三の「国葬」強行は民主主義の破壊なのである。

broadcast 三浦瑠麗 | 天皇陛下と同じように安倍元総理は国葬すべきである | ワイドナショー | フジテレビ

2022年8月1日

スペイン内戦取材で26歳という若さに散った女性戦争写真家ゲルダ・タローの生涯

Republican Marines playing musical instruments
Marines playing musical instruments on board the battleship Jaime I, Almería, Spain, Feb. 1937.
Gerda Taro (1936)

ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ)は戦争写真家であり、ロバート・キャパの仕事上のパートナーであり、仲間であった。ロバート・キャパの名は、当初はハンガリーのブダペスト出身のアンドレ・フリードマン(1913–1954)との共同の架空のアメリカ人写真家名だった。1910年8月1日、ドイツのシュトゥットガルトで、中流階級に属するガリシア系ユダヤ人の家庭に生まれた。戦争の最前線を記録し、命を落とした最初の女性フォトジャーナリストとされる。1929年、タローは一家でライプツィヒに移り住むが、それはナチスの時代が始まる直前だった。1933年、ナチスの反対運動で拘束され、家族全員でドイツ以外の国に住むことを余儀なくされた。1934年、ヒトラーの支配するドイツを逃れ、パリに渡る。1年後、アンドレ・フリードマン(後のロバート・キャパ)に出会い、彼の助手となる。この間、写真について多くを学び、やがて二人は恋に落ちる。その後、写真家集団アライアンス・フォトの写真編集者となった。ゲルダ・タローがフォトジャーナリストとしての第一次資格を得たのは、1936年のことだった。フリードマンとタローは、政治的な混乱が進む中、報道写真を撮影し、ロバート・キャパの名前で販売するという計画を立て、都合よく乗り切ろうとした。しかしすぐにその秘密がばれてしまう。

War orphan
War orphan eating soup, Madrid, Spain, 1936.

そしてフリードマンはロバート・キャパを名乗り、タローは本名のゲルタ・ポホリレを、親交があった日本の美術家、岡本太郎(1911–1996)にちなんでゲルダ・タローと改名した。1930年代、二人は写真を共有し、スペインの人民戦線政権が誕生する直前の出来事を取材した。1936年、スペイン内戦が勃発すると、タローはバルセロナに向かった。デビッド・シーモア(1911–1956)、キャパとともにその様子を記録した。3人はコルドバ南部とアラゴン北東部で戦争を記録した。タローはフォーマットが正方形のローライフレックスで、キャパは長方形のライカで撮影したため、彼らの初期の戦争写真はどちらが撮影したか判別できる。1937年の一時期、キャパとタローは同じ35ミリフィルムを使って仕事をしたのでこの時期の撮影者の判別は難しい。1937年7月、フランスの左翼系新聞「ス・ソワール」の取材でマドリードのブルネテ地方を撮影したが、彼女の写真は国際的なメディアからの需要が高まっていた。報道写真家ゲルダ・タローとして独立独歩の道を歩むためもあって、タローはキャパの求婚を断り、自らのキャリアを積んでいく。

Militiawoman
Militiawoman training on the beach, near Barcelona Spain, 1936.

そしてスペイン内戦を取材したイギリスの作家ジョージ・オーウェル(1903–1950)やアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)などの反ファシスト知識人と交流を持つようになった。彼女の作品は上記の新聞「ス・ソワール」に掲載された。その後「フォト・タロー」というレーベルで商品化されて、大手出版社の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」「ライフ」「フォルクス・イラストリエンテ」「リガード」などの雑誌に配信された。バレンシア爆発事件を同単独で撮影、最も有名な写真となった。

Málaga fron
Republican soldiers, Málaga front, Spain, 1937.

1937年7月25日、ブルネテの戦いで共和国軍の撤退を取材中、負傷兵を乗せたウォルター将軍の車の荷台に飛び乗ったタローは、共和国軍の戦車が側面に衝突し、重傷を負い、翌7月26日に死亡した。若干26歳という若さだった。一度意識を取り戻した際に発した「私のカメラは大丈夫? まだ新品なのよ」が最期の言葉だったという。キャパはその後、多くの素晴らしい女性たちと浮名を流すことになるが、タローの死から立ち直ることはできなかった。彼は "If your pictures aren't good enough, you're not close enough"(あなたの写真が十分でないなら、十分に近づいていない)という有名な言葉を残している。これはタローが戦場で果敢に被写体に近づいていたことを意味する。彼女の政治的な姿勢は反ファシストのレッテルを貼られることになった。フランス共産党により、パリで盛大な葬儀が執り行われた。2007年にニューヨークの国際写真センターで大規模な展覧会が開催された。死後もタローは人々の記憶に刻まれている。スペインのスサーナ・フォルテス(1959-)の小説『ロバート・キャパを待ちわびて』はキャパとタローの生涯を描いたノンフィクションである。

Aragón front
Republican soldiers in a trench, Aragón front, Spain, 1936

2012年、イギリスのインディーズロックバンド alt-J がデビューアルバム『驚異の波』でタローという曲を歌った。さらにトリーシャ・ジフ監督(1956-)の『メキシコのスーツケース』は、キャパ、シーモア、タローが紛失した4,500枚のネガをめぐる物語を描いたドキュメンタリー映画である。これらのネガは、キャパの弟コーネル・キャパ(1918–2008)が1974年に開設した国際写真センター(ICP)が所蔵している。なお下記リン先の同センターのウェブサイトには兵士の死体写真が掲載されているが、ここでは転載を見送った。ゲルダ・タローの戦場写真を眺めているうち、バルセロナ生まれのマルセー・ルドゥレダ(1908–1983)が1960年に亡命先のジュネーヴで書いた作品『ダイヤモンド広場』(田澤耕訳・岩波文庫)が蘇ってきた。スペイン内戦の義勇兵になった夫の戦死を背景にした小説だが、戦争を憎む気持ちは二人に共通している。

ICP  Gerda Taro (1910-1937) | Biography | Archive | International Center of Photography