Marines playing musical instruments on board the battleship Jaime I, Almería, Spain, Feb. 1937.
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Gerda Taro (1936) |
ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ)は戦争写真家であり、ロバート・キャパの仕事上のパートナーであり、仲間であった。ロバート・キャパの名は、当初はハンガリーのブダペスト出身のアンドレ・フリードマン(1913–1954)との共同の架空のアメリカ人写真家名だった。1910年8月1日、ドイツのシュトゥットガルトで、中流階級に属するガリシア系ユダヤ人の家庭に生まれた。戦争の最前線を記録し、命を落とした最初の女性フォトジャーナリストとされる。1929年、タローは一家でライプツィヒに移り住むが、それはナチスの時代が始まる直前だった。1933年、ナチスの反対運動で拘束され、家族全員でドイツ以外の国に住むことを余儀なくされた。1934年、ヒトラーの支配するドイツを逃れ、パリに渡る。1年後、アンドレ・フリードマン(後のロバート・キャパ)に出会い、彼の助手となる。この間、写真について多くを学び、やがて二人は恋に落ちる。その後、写真家集団アライアンス・フォトの写真編集者となった。ゲルダ・タローがフォトジャーナリストとしての第一次資格を得たのは、1936年のことだった。フリードマンとタローは、政治的な混乱が進む中、報道写真を撮影し、ロバート・キャパの名前で販売するという計画を立て、都合よく乗り切ろうとした。しかしすぐにその秘密がばれてしまう。
War orphan eating soup, Madrid, Spain, 1936.
そしてフリードマンはロバート・キャパを名乗り、タローは本名のゲルタ・ポホリレを、親交があった日本の美術家、岡本太郎(1911–1996)にちなんでゲルダ・タローと改名した。1930年代、二人は写真を共有し、スペインの人民戦線政権が誕生する直前の出来事を取材した。1936年、スペイン内戦が勃発すると、タローはバルセロナに向かった。デビッド・シーモア(1911–1956)、キャパとともにその様子を記録した。3人はコルドバ南部とアラゴン北東部で戦争を記録した。タローはフォーマットが正方形のローライフレックスで、キャパは長方形のライカで撮影したため、彼らの初期の戦争写真はどちらが撮影したか判別できる。1937年の一時期、キャパとタローは同じ35ミリフィルムを使って仕事をしたのでこの時期の撮影者の判別は難しい。1937年7月、フランスの左翼系新聞「ス・ソワール」の取材でマドリードのブルネテ地方を撮影したが、彼女の写真は国際的なメディアからの需要が高まっていた。報道写真家ゲルダ・タローとして独立独歩の道を歩むためもあって、タローはキャパの求婚を断り、自らのキャリアを積んでいく。
Militiawoman training on the beach, near Barcelona Spain, 1936.
そしてスペイン内戦を取材したイギリスの作家ジョージ・オーウェル(1903–1950)やアメリカのアーネスト・ヘミングウェイ(1899–1961)などの反ファシスト知識人と交流を持つようになった。彼女の作品は上記の新聞「ス・ソワール」に掲載された。その後「フォト・タロー」というレーベルで商品化されて、大手出版社の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」「ライフ」「フォルクス・イラストリエンテ」「リガード」などの雑誌に配信された。バレンシア爆発事件を同単独で撮影、最も有名な写真となった。
Republican soldiers, Málaga front, Spain, 1937.
1937年7月25日、ブルネテの戦いで共和国軍の撤退を取材中、負傷兵を乗せたウォルター将軍の車の荷台に飛び乗ったタローは、共和国軍の戦車が側面に衝突し、重傷を負い、翌7月26日に死亡した。若干26歳という若さだった。一度意識を取り戻した際に発した「私のカメラは大丈夫? まだ新品なのよ」が最期の言葉だったという。キャパはその後、多くの素晴らしい女性たちと浮名を流すことになるが、タローの死から立ち直ることはできなかった。彼は "If your pictures aren't good enough, you're not close enough"(あなたの写真が十分でないなら、十分に近づいていない)という有名な言葉を残している。これはタローが戦場で果敢に被写体に近づいていたことを意味する。彼女の政治的な姿勢は反ファシストのレッテルを貼られることになった。フランス共産党により、パリで盛大な葬儀が執り行われた。2007年にニューヨークの国際写真センターで大規模な展覧会が開催された。死後もタローは人々の記憶に刻まれている。スペインのスサーナ・フォルテス(1959-)の小説『ロバート・キャパを待ちわびて』はキャパとタローの生涯を描いたノンフィクションである。
Republican soldiers in a trench, Aragón front, Spain, 1936
2012年、イギリスのインディーズロックバンド alt-J がデビューアルバム『驚異の波』でタローという曲を歌った。さらにトリーシャ・ジフ監督(1956-)の『メキシコのスーツケース』は、キャパ、シーモア、タローが紛失した4,500枚のネガをめぐる物語を描いたドキュメンタリー映画である。これらのネガは、キャパの弟コーネル・キャパ(1918–2008)が1974年に開設した国際写真センター(ICP)が所蔵している。なお下記リン先の同センターのウェブサイトには兵士の死体写真が掲載されているが、ここでは転載を見送った。ゲルダ・タローの戦場写真を眺めているうち、バルセロナ生まれのマルセー・ルドゥレダ(1908–1983)が1960年に亡命先のジュネーヴで書いた作品『ダイヤモンド広場』(田澤耕訳・岩波文庫)が蘇ってきた。スペイン内戦の義勇兵になった夫の戦死を背景にした小説だが、戦争を憎む気持ちは二人に共通している。
Gerda Taro (1910-1937) | Biography | Archive | International Center of Photography