2022年6月27日

バズ・ライトイヤーに再会できる日がやって来た

Buzz Lightyear ©2022 Pixar Animation Studios

久し振りに映画館に出かけようと思っている、バズ・ライトイヤーに会いに。ピクサーのアニメ映画「トイ・ストーリー」は第3作まで観たが、第4作は見逃した。第3作では大学生になったアンディから玩具好きの女の子ボニー・アンダーソンにウッディやバズ・ライトイヤーを預ける。これはピクサーの CEO(最高経営責任者)だったスティーブ・ジョブスの息子リードが高校を卒業したこととオーバーラップする。この3部作はジョブスが大事に温めていたもので、最後は大きくなったアンディが実家を離れ、大学に進学するというものだった。だから続編制作はジョブスの遺志に反するという気持ちが脳裡を走ったからかもしれない。

Buzz and Woody
Action figure of Buzz Lightyear and Woody Pride

しかしやはり観ておくべきだったと後悔している。当時購入したバズとウッディのアクションフィギュアは、今でも大切に保管してある。ところで影の主役はバズ・ライトイヤーだと思っていたが、ずばり「バズ・ライトイヤー」とタイトルした映画が制作され、7月1日から日本で公開されることになった。映画は予めストーリーを公開するのは禁句である。従って公式サイトにも「誰よりも仲間思いの "バズ・ライトイヤー" の原点を描く感動作!」という説明くらいで、物語の詳細は掲載されていない。なお下記リンク先でメキシコの俳優アラン・エストラーダが、同映画の同性愛嫌悪について批判した記事を読むことができる。

Movie Film Alan Estrada criticized the homophobic comments in Buzz Lightyear's latest film

2022年6月25日

漫画家ロバート・クラムが描いた音楽家たち

East River String Band
Eden and John's East River String Band by Robert Crumb
Country Music
Pioneers of Country Music
Blues Music
Pioneers of Blues Music
Robert Crumb (born 1943)

ロバート・クラム(1943年生まれ)は1960年代にあらゆる規範を無視して、極めて性的な成人向け漫画を発表し、漫画は子供のものだと無邪気に信じていたアメリカの保守社会に衝撃を与えた破天荒な漫画家である。クラムは、普通の生活を送り、社会の許容される規範を守ることを信じたことはない。たとえ社会からのけ者にされようとも、自分の心に従うことを信条とする自由人であった。困難で不幸な結婚をした彼は、漫画に癒しを求め、兄と一緒に自分の漫画を作り始めた。10代は反抗期で、伝統的なものを敬遠していた。高校卒業後、グリーティングカードの会社に就職したが、この仕事が嫌で嫌でしょうがなかった。1960年代半ばに LSD を使い始めてから、状況は劇的に変化した。そして、平凡な日常を捨て、もっと刺激的でペースの速い人生を歩む勇気を得たのである。この事件後、彼のキャリアは真に飛躍し、アンダーグラウンド漫画で名を馳せることになるのだが、このステップは彼の人生にとって決定的なものとなった。1920 年代から 1930 年代にかけてのカントリー、ブルース、ケイジャン、フレンチ・バルミュゼット、ジャズ、ビッグバンド、スイングミュージックといった、彼の音楽の興味について頻繁に漫画を描いており、バンド仲間のテリー・ツワイゴフ(1949年生まれ)が 1995 年に制作したドキュメンタリー映画「クラム」のサウンドトラックにも大きな影響を与えている。

WWW Robert Crumb Official Site | About| Books & Comics | Serigraphs | Etchings | Giclée Prints

2022年6月22日

ホームルーター SoftBank Air 導入顛末記

SoftBank Air
SoftBank Air ターミナル 4/4 NEXT

これまでインターネット接続は NTT のフレッツ光を利用してきたが、新たにホームルーター SoftBank Air を導入した。「コンセントに差すだけ、工事がいらないおうちの Wi-Fi」と宣伝されているデバイスである。繋がらない、遅い、使いものにならない、といったネガティブ情報がネット上で溢れている。しかし地域や環境によって状況は変わるので予断と偏見は禁物である。提供エリアが公開されているので調べてみたところ問題はなさそうだ。それに初期契約制度、すなわちターミナルの受け取り日を1日目として8日間 SoftBank Airの契約を解除できる制度がある。契約の解除によりこの期間に発生した初期費用、通信料金、端末料金は免除されというので、申し込みをしたところ、1週間弱で届いた。他の Wi-Fi ルーター同様 Softbank Air も窓際や高さのある場所に設置すると電波が入りやすくなるとされているようだ。パソコンラックの天板に置いてコンセントを差し込んだところ、5つの緑色ランプが点灯、さらに LEVEL ボタンを長押ししたところ、3つのランプが点灯した。どうやら電波状況に問題はなさそうだ。次に Wi-Fi 設定をした。ネットワーク名(SSID)と暗号キー(PSK-AES)が Air ターミナル の側面に、次のようなラベルが添付されている。

setting

ネットワーク SSID は 2.4GHz 帯、5GHz 帯のどちらを選んでもご利用できるが、5GHz 帯の方が電波の干渉を受けにくく、安定した通信ができる場合が多いという。これを元に早速親機である Windows マシンの設定をした。暗号キーは12桁で、入力は面倒だが、パソコンの場合は比較的楽である。むしろ他のネットワーク端末、すなわち、プリンタ、スマートフォン、タブレット、ネットワークプレーヤーのほうが手間がかかった。気になるのは回線速度だが、インターネットを快適に利用する目安として、ウェブサイトを閲覧する場合は1Mbps~10Mbps。25Mbps 出ていれば 4K 動画の視聴が可能だという。Speedtest サイトで測定をした結果、この数値をはるかに上回る結果が出ている。ただ Wi-Fi 子機がやや古いので、これを交換すればさらに速度が向上するだろうと期待している。なお NTT のフレッツ光、および Yahoo BB のプロバイダ契約の解除手続きをした。下記リンク先で、Wi-Fi およびネットワークなどの、さらにきめ細かい設定ができる。

Wi-FiSoftBank Air | 電波受信レベル | Wi-Fi(無線LAN)の設定 | ネットワークの設定 | 設定情報の確認

2022年6月20日

米国郵便公社がピート・シーガーの切手を発行

For Pete's Sake
Newport Folk Presents For Pete's Sake
New Pete Seeger Stamp

ニューポート・フォーク・フェスティバルは米国郵便公社と提携、7月21日午後8時から「For Pete's Sake」を開催すると発表した。会場は名女優ジェーン・ピケンズ(1907–1992)にちなんで改名された映画館で、ピート・シーガー(1919–2014)の写真をあしらった切手発売を記念して開催される。シーガーは2014年1月に94歳で死去した。シーガーは、社会活動家として、またダッチェス南部のコミュニティの活動家としてよく知られているが、米国郵便公社は彼自身の切手でその栄誉を称えることにしたのである。7月21日にデビューする彼の切手は「音楽アイコン」シリーズの第10弾で、息子のダン・シーガーが1960年代初頭に撮影した、バンジョーを演奏する写真が使用されている。音楽アイコンシリーズにはリディア・メンドーサ(1916–2007)ジョニー・キャッシュ(1932–2003)レイ・チャールズ(1930–2004)ジミ・ヘンドリックス(1942–1970)ジャニス・ジョプリン(1943–1970)エルビス・プレスリー(1935–1977)サラ・ヴォーン(1924–1990)ジョン・レノン(1940–1980)マーヴィン・ゲイ(1939–1984)などが登場した。 ところでご覧のように、切手には Forever とあるだけで、金額が書いていない。実は価格は変動制で現在は58セント、これが近い将来59セントになってもこの切手を使える仕組みになっている。現在の日本郵便の定形封書の25グラム以内は84円である。もし85円に値上げになったら、新たにデザインした85円の切手を作ることになる。このような無駄が米国郵便公社の Foreever 切手にはない。文字通り合理的な「永久切手」である。

USPSUnited States Postal Service Reveals New Pete Seeger Stamp for 2022 | That Eric Alper

2022年6月18日

ウクライナの風刺漫画家ウラジーミル・カザネフスキーの作品

Putin and Death 2022
Putin and Death 2022
The terrorism and refugees
The terrorism and refugees 2020
Free child and the war
Free child and the war 2019
Crowd and question
The Crowd and question 2018
Road to Communism
The Road to Communism 2017

ウラジーミル・カザネフスキーは1950年、ウクライナのレベディンに生まれる。1973年、ハリコフ国立大学宇宙放射物理学専攻卒業。また、キーウ・インスティテュート・オブ・ジャーナリズム・スキルを卒業し、プレスアーティストとなる。現在、彼はフリーランスの風刺漫画家、作家として活動している。カザネフスキーの作品は世界中で展示され、53カ国で開催された国際風刺画コンテストで、500以上の賞を受賞している。彼の風刺画は世界の多くの新聞や雑誌に掲載されている。自身の風刺漫画集「頭」「老いたキューピッドの黙示録」「ホモ・ギバー」「首」「ウラジーミル・カザネフスキー」はスイス、ベルギー、ウクライナで出版された。ロシア軍の侵攻により、スロバキアに逃れたが、プーチン大統領を題材にした風刺漫画を描き続けている。

cartoon movement  Vladimir Kazanevsky | A global platform for editorial cartoons and comics journalism

2022年6月12日

肖像写真で社会の断面を浮き彫りにしたアウグスト・ザンダー

Circus Artists
Circus Artists, Cologne, Germany, 1926
August Sander

アウグスト・ザンダーは、20世紀初頭のドイツの肖像写真を著しく、かつ見事に撮影した人物および記録写真家だった。世界大戦のさなか、このような被写体に取り組むことは、ザンダーにとって勇気のいることであった。ドイツのラインラント=プファルツ州アルテンキルヒェン郡ヘルドルフで、1876年11月17日に生まれた。サンダーは最初は父親と同じ鉱山労働の仕事をしていた。その頃、鉱山会社で働きながら写真家として活躍している人がいた。ザンダーが写真に出会ったのは、この人がきっかけだった。叔父の経済的援助を得て暗室を建設し、写真用の機材を購入した。1897年から1899年まで、写真家のアシスタントとして働く。兵役を終えた後、ドイツ国内を旅しながら工業写真や建築写真を撮影した。1901年、リンツにあるオーストリア人の写真スタジオで働き始める。ザンダーはやがてパートナーのひとりとなり、1904年にはスタジオの個人事業主となった。同年、パリ万国博覧会で名誉十字勲章と金メダルを授与される。この頃、写真に色を使う実験をしており、この作品はライプツィヒ美術館に収蔵された。最初の個展は1906年、リンツのランドハウス・パビリオンで開催された。その3年後、ケルンに新しい写真館を設立した。

Young Farmers
Three Young Farmers, Westerwald, 1914

1911年からポートレートシリーズ「20世紀の人々」の制作を開始した。第一次世界大戦中はドイツ軍に所属し、写真家としての活動を続ける。1919年には、学生や弟子を指導するようになる。1920年代初頭、人々と時代の社会構造を写真で記録することを概念とした芸術家集団「ケルン・プログレッシブ」と接触する。1927年には地中海のサルデーニャ島を3ヵ月間旅行し、風景や人物など約500枚を撮影した。1929年、サンダーは「時代の顔」と題する写真集を出版した。この写真集には、彼の初期のシリーズからのポートレートが含まれている。ドイツの小説家アルフレート・デーブリーン(1878–1957)はこの写真集を「顔、写真、その真実について」というエッセイで紹介している。しかしアドルフ・ヒトラー(1889–1945)支配下のナチス政権が、ザンダーの私生活や仕事に課した制約のため、写真集「時代の顔」は押収され、写真版も破壊されてしまった。

Forester's Child
Forester's Child, Westerwald, 1931

社会主義労働者党に所属していた息子のエリックは拘束され、10年に及ぶ投獄生活の中、1944年に獄死してしまう。同年、ザンダーのスタジオは爆撃により被害を受けた。1935年、息子が刑務所にいる間、ライン川沿岸一帯、ラインラントの風景画のシリーズを制作し始めた。1942年、ケルンからヴェスターヴァルト地方の小さな村クフハウゼンに移り住んだ。この転居により、彼は自分の作品のネガをいくつか救出することができた。彼のケルンのスタジオは1944年の爆撃で破壊されたが、彼が市内の以前のアパートの近くの地下室に残した何万ものネガが戦争を生き延びた。その後、この地下室の25,000から30,000のネガが、1946年の火災で破壊された。第二次世界大戦がまだ続いていた頃、彼は戦争で死んだり、行方不明になった男性の戦前の写真をプリントし、家族に贈った。このような混乱の中でも、彼は作品を発表し続けたのである。

Country Lads
Country Lads, Westerwald, 1912

1947年、ニューヨーク近代美術館の写真ディレクター、エドワード・スタイケン(1879–1973)が開催した写真展「ファミリー・オブ・マン」に彼の写真が多数選ばれる。1953年、サンダーは1920年から1939年の間に撮影された408点のケルンの写真をケルン市立博物館に売却した。これらは1988年に「ありのままのケルン」というタイトルで、死後書籍として出版されることになる。戦後はケルンに戻り、1946年に写真展を開催した。1960年、ドイツ連邦共和国から功労勲章を授与される。1964年4月20日、ザンダーは脳卒中でケルンで死去、87歳だった。遺体はケルンのメラーテン墓地に息子のエーリッヒと一緒に埋葬された。なお、2002年にアウグスト・サンダー・アーカイブと研究者のスザンネ・ラングが、サンダーの写真619点からなる、全7巻の写真集『アウグスト・サンダー:20世紀の人々』を刊行した。

MoMA  August Sander (1876–1964) | Works, Exhibitions, Publications | Museum of Modern Art

2022年6月10日

キバナコスモスに似た厄介者オオキンケイギク

オオキンケイギク
オオキンケイギク(京都市上京区妙顕寺前町)
オオキンケイギクは葉が裂けていない

滋賀県長浜市の病院に入院中の友人を見舞ったついでに、近くの川の土手を散歩したら、コスモスに似た黄色い花が咲き乱れていた。そういえばたまたま通りかかった、京都市上京区の裏千家今日庵の近くの路地にも同じ花が咲いていた。植物に関しては誠に浅学であるが、てっきりキバナコスモス(黄花コスモス)だと思いこんでいた。ところがひょっとしたらオオキンケイギク(大金鶏菊)じゃないかと思い始めた。オオキンケイギクはキバナコスモスとそっくりだが、ウィキペディアによると、葉の形が異なるという。前者が羽状深裂に似た形であるのに対し、狭倒披針形だというのだ。よく見ると葉は羽根状に深く裂けていない。葉の幅が葉先近くで幅が広いので狭倒披針形である。ということでオオキンケイギクであることに間違いはなさそうだ。ところでこの花は明治時代に鑑賞目的で導入されたが、繁殖力が強く在来種に悪影響を与える恐れがあるという。そこで「特定外来生物」として第二次指定で追加登録されており、持ち出しや栽培は禁止されているという。なるほど、それゆえに土手や空き地に咲いているのだろう。見た目は綺麗でも、嫌われものなのだ。

PDF  なぜオオキンケイギクが「特定外来生物」に指定されたのか? (PDFファイル 601KB)| 環境省

2022年6月6日

スマートフォン Google Pixel 導入顛末記

People talking on mobile phone
People talking on mobile phone (Royalty Free Vectors)

スマートフォンと縁を切ったのは2019年だった。スマートフォンのスマートは「頭がいい、利口な、賢い」という意味だが、まさにその通りだと思う。アップルの iPhone そしてソニーの Xperia を使っていたが、昔ながらの携帯電話、俗にいうガラケーに戻した。ただ外出時にインターネットを覗きたくなる時が稀にあるので、タブレットも持つようにした。ただ、この2台に加え、コンパクトデジカメも必携ツールなので、合計3台がバッグを占めるようになった。だからと言って重いというわけではない。密かにアメリカの美術家シンディ・シャーマンの Instagram 写真に啓発され、自分にはその才能はないと思いつつ、超遅れ馳せながら再導入することにした。親機であるパソコンが Windows マシンなので、必然的に Android 端末を導入ということになった。同期させればブラウザのブックマークや連絡先(電話帳)も新たに作る必要がないからだ。迷いながら選んだ機種は Google Pixel だった。ブラウザ、メール、カレンダー、地図、クラウド写真保存などに Google のアプリケーションを使っているが、デバイスもノートパソコン Chrome Book に続き Google 製になってしまった。主な Google のアプリケーションは予めインストールしてあったので、Metaの Facebook, Instagram, Business Suite、メッセンジャー LINE、音楽プレイヤー jetAudio などを別途ダウンロードした。

Google Pixel Screenshot
Google Pixel Screenshot

スマートフォンをウォークマン化する場合、AGC(Automatic Gain Control)と呼ばれる自動利得制御、すなわち信号が強くなると出力が大きくならないようにし、信号が弱くなると出力が小さくならないようにするシステムが欲しい。アルバム単位で聴く場合は最初の曲の音量調節すればよい。しかし複数のアルバムを順番をばらばらにして聴くシャッフル再生の場合は、曲ごとに音量調節が必要なのでイライラするからだ。jetAudio はこの機能が備わった優れものである。さて、ところで、パソコンと USB 接続すれば、楽曲をスマートフォンに転送できると思っていたが、そうではなかった。パソコンの画面に「MTP USB デバイス」というアイコンが表示されるが、クリックすると「このフォルダーは空です」という警告が出る。つまりスマートフォンの中が見えない。そこでヘルプファイル「USB ケーブルを使ってファイルを移動する」に助けを求めた。

  • スマートフォンのロックを解除します。
  • USB ケーブルを使って、スマートフォンをパソコンに接続します。
  • スマートフォンで [このデバイスを USB で充電中] の通知をタップします。
  • [USB の使用] の下で [ファイル転送] を選択します。
  • パソコン側で、ファイル転送のウィンドウが開いたら、ファイルをドラッグします。
  • 転送を終えたら、Windows とスマートフォンの接続を解除します。
  • USB ケーブルを取り外します。

スマートフォンで[このデバイスを USB で充電中] の通知をタップします、というのは流石に気が付かなかった。この方法で 1,924 曲をコピーしたが、容量は 10.3GB だった。なお Google Pixel には外部ストレージ用の microSD スロットがないが、この程度なら内部ストレージで十分まかなえる。問題は写真と動画ファイルだが、万が一内部ストレージが窮屈になったら、クラウドストレージの Google フォトに転送すれば何とかなると楽観している。使い方に関しては、紙ベースや PDF ベースのマニュアルがないので「Google Pixel について学習する」あるいは、以下リンク先の Google Pixel のヘルプセンターにアクセスする必要がある。

google スタートガイド・アプリの使用・アクセサリの使用・設定の変更・スマートフォンの保護・他

2022年6月4日

アマチュアこそシリアス・フォトグラファー

植田正治
植田正治「小狐登場」1948年(東京都写真美術館蔵)

近代オリンピックは、参加することに意義があるという名言を残した、フランスのピエール・ド・クーベルタン男爵(1863-1937)によって創立された。その基本精神はアマチュアリズムの尊重であり、逆に、アマチュアリズムの象徴がオリンピックであった。スポーツは金のためにあるのではない、という精神といったものがかつてその根本にあった。しかしそれは裏返せば、有産階級の発想であり、差別思想であるという批判も当然ながら出た。プロ組織がない競技では、選手はみなアマチュアである。しかし学生なら特待生制度があるし、社会人なら企業のバックアップがある。スポーツの大衆化によって、アマチュアリズムを高らかに謳うことは困難になったともいえる。だから現在のオリンピック憲章にはアマチュア規定が削除されている。毎日新聞社の月刊写真雑誌『カメラ毎日』が健在だったのは何時までだったろう。植田正治(1913–2000)が「アマチュアこそシリアス・フォトグラファーだ」と寄稿していたのが、何故か今でも印象に残っている。

野島康三
野島康三「題名不詳」1930年(京都国立近代美術館蔵)

所謂ハイ・アマチュアというのはおそらく和製英語だと思うけど、シリアスとか、アドバンスド・アマチュアという用語を英語圏では使うようだ。要するにアマチュアこそ純粋に芸術写真に没頭できる。だからプロの仕事などに目もくれず、アマチュアとしての誇りを持つべきだという主張だったように記憶している。植田正治は山陰をベースにしていたが、関西を通り越して東京で知名度を上げた作家であった。関西写壇との確執については氏自身から伺ったことがあるが、西日本はアマチュアリズムに関し昔から意気軒昂である。また日本最古の写真クラブ「浪華写真倶楽部」や「地懐社」「京都丹平」など、歴史を持った写真団体が今でも健在である。これらの団体に共通しているのは、文化の首都圏集中に対する反骨精神が漲っていることである。戦前の「浪華写真倶楽部」や「丹平写真倶楽部」で重要な働きをしたのが安井仲治(1903-1942)だった。ピクトリアリズムからストレートフォトグラフィーという軌跡を辿った東京の野島康三(1889-1964)とオーバーラップする。

安井仲治
安井仲治「蛾(二)」1934年(東京国立近代美術館蔵)

二人に共通するのは、いずれも素封家に生まれたディレッタントであったことだ。海外に目を向けると、まず思いつくのがジャック=アンリ・ラルティーグ(1894– 1986)である。あるいはアルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)を引き合いに出して良いかもしれない。彼らもまた裕福な家庭に生まれ、それゆえの自由を謳歌した写真家たちであった。スポーツの世界では、その技量において、プロがアマを上回るとされているようだ。だから、もしアマあるいはプロアマ混成チームに負けたのでは沽券に関わる、という深層心理がイチロー選手をしてオリンピック辞退に繋がったのかもしれない。プロの棋士がアマ相手の場合はコマ落ちで将棋を指す心理に似たものだ。写真もまた、プロがアマを上回ると思われてるフシがある。確かに技量においてはそうでなくてはならない。スポーツにおいては、その技量が勝敗に直結するが、写真表現に関しては違うと私は思う。所詮シロウトですから、趣味ですから、と言った消極姿勢があるとすれば残念である。蛇足ながら写真愛好家に対しアメリカには shutterbug というスラングがある。直訳すればシャッターの虫、言い得て妙である。

aperture_bk Home, Photo, Video, Software, Opinions, About Us and Contact Us | Shutterbug Net

2022年6月2日

絶滅していなかったフロッピーディスクの記憶

Different data storage media
5.25" and 3.5" FD, Cassette and 8mm tape, CD, DVD, ZX, SDHC, CompactFlash, USB disk (WIKI)

山口県阿武町で誤って1世帯に4,630万円を振り込んだ、いわゆる誤送金問題で、町役場から銀行に依頼データの入ったフロッピーディスク(FD)を渡したことが報じられると「旧石器時代」「時代遅れ過ぎる」など、驚きや嘆きの声が上がった。ところが絶滅していたかのように思われた FD は、一部の中央省庁や役所、銀行、企業ではいまも日常的に使われていることがわかった。10年前に製造中止に追い込まれたシステムで、顧客データなどを扱ってることに私も驚きを禁じ得ない。絶滅危惧種化した FDD 駆動装置メーカー主要3社が生産撤退に動き始めたのは2009年だった。ティアックは4月に生産を終了、ワイ・イー・データも販売を終了した。残るソニーも2009年9月に終了、他社と足並みをそろえたようだ。また FD も、三菱化学が今年2009年3月末で販売を終了した。ソニーは3.5型 FD 全6機種を2010年4月に販売終了した。3.5型 FDD は1984年からコンピュータ搭載が始まった。ウィンドウズ95の発売で、空前のパソコンブームが起きた1995年がフロッピーディスク需要のピークだったようだ。さらに光磁気ディスク MO だが、日立マクセルと三菱化学メディアが販売を終了した。私が最初に触れたコンピュータは、学生時代、大型のそれであった。

Floppy Disk

真空管を使っていた筈で、かなり巨大なものだった。カナタイプライターでオペレートするものだったが、ディスプレーはなかった。記録媒体は紙の鑽孔(さんこう)テープだった。簡単な住所録を作ったことがある。自作の入力項目をパンチした円環状のエンドレステープが、いわばソフトだったと記憶している。次に触れたコンピュータが、時代は大幅に下って1979年、NEC の PC-8001 だった。外部記憶装置はカセットテープレコーダーを使用したもので、遊びでカラオケソフトを BASIC で書いたことを思い出す。オプションで5インチフロッピーを使用できたようだが、記憶にない。その後、1983年に NEC が FDD を内蔵した PC-9801 シリーズを発売、フロッピーディスクが一気に広まったことが懐かしい。わずか 20MB HDD が珍しい時代だった。

PowerBook 2400c
Macintosh PowerBook 2400c/240

フロッピーディスクで思い出し、押し入れの奥にしまってあったアップルの PowerBook 2400c/240 を引っ張り出してみた。外付けながら我が家にある唯一の FDD 駆動装置である。1997年5月に発売された180をクロックアップ、1998年4月発売されたものだ。外部記憶装置は FDD のみで、光学ドライブは付属してない。日本 IBM との共同開発で、今見てもデザインは優れてると思う。三次元 CAD でデザインされたが、日本 IBM は二次元のソフトしか持ってなく、製作に苦労したというエピソードがある。角が丸みを帯びた流線型で、だからだろうか、初代モデルの開発コードネームはコメットだった。日本のみで売られたものだが、B5ノートは小さすぎて、本国の米国では受け入れられなかったという記事を読んだ記憶がある。ところで FDD 装置があるものの、肝心のフロッピーディスクがないのに気付いた。ずいぶん前に処分してしまったからだ。知りあいに電話したところ、持っているという。あるところにはあるものだ。再生品を通販サイトが販売しているようだ。

WWW フロッピーディスクの歴史 | インターネット百科事典ウィキペディア(Wikipedia)日本語版

2022年6月1日

大都市に変貌する香港を活写したファン・ホーの視線

Dusk in Aberdeen
Dusk in Aberdeen, Hong Kong, 1958
何藩 (1931–2016)

ファン・ホー(何藩)は1931年10月8日に上海で生まれ、1949年に家族と共に香港に移住した。1941年、戦争が始まると、両親がマカオに数年間足留めされ、ホーは使用人に預けられることになった。幼い頃、父が家に置いていったコダックのブラウニで写真を始め、その後、14歳の時に父から譲り受けた二眼レフカメラのローライフレックスで写真を撮り始めた。ホーは生涯、このカメラを使い続けることになる。独学で学んだ彼の写真は、路地、スラム街、市場、通りなど、都市の生活に魅了されたものだった。彼の作品の多くは、露天商や、自分より若い子供たちの素朴な写真で構成されている。暗室はなくバスタブでフィルムを現像した。やがて1950年代から60年代にかけて、大都市になりつつあった香港を撮影し、重要な作品群を作り上げる。2006年に初めてホーの作品を見たニューヨークのローレンス・ミラー・ギャラリーのギャラリーのオーナーは「バウハウスの直系だと感じたが、香港で制作された作品である。抽象的であり、同時に人間的でもある」とコメントした。アメリカ写真協会、英国王立写真協会、英国王立芸術協会のフェロー、シンガポール、アルゼンチン、ブラジル、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギーの写真協会の名誉会員になった。

Approaching Shadow
Approaching Shadow, Honk Kong, 1954

そして1958年から1965年にかけて、アメリカ写真協会による「世界のトップ10フォトグラファー」のひとりに選ばれている。「陰影」はホーの最も有名な作品のひとつである。彼は従姉妹にコーズウェイベイのクイーンズカレッジの壁際でポーズを取るように頼み、暗室作業で斜めの影を加えた。このプリントは2015年に過去最高の37万5,000香港ドルで落札された。ファン・ホーは香港の映画監督であり、俳優として高い評価を得ている人物である。映画界でのキャリアを積むため、1961年に香港の映画会社ショウ・ブラザーズに入社した。映画『ツバメ』(1961年)のスクリプター助手としてスタート、いくつかの映画に出演するようになる。

Lifes Go On, Hong Kong, 1966

1960年代前半には、先駆的な短編自主映画シリーズも制作し、その第1作『大都会小人物』(1963年)は1964年の日本国際映画祭で「名誉賞証書」を受賞している。 1969年にショウ・ブラザーズを退社し、香港と台湾の様々なスタジオで20本以上の作品を監督した。カンヌ、ベルリン、サンフランシスコの国際映画祭で3作品が公式上映され、5作品が台湾と香港の国立電影資料館に永久保存される。独立系映画だけでなく『デンマークの冒険』(1973年)『長い髪の女』(1975年)『誘惑のまとめ』(1990年)など、映画におけるエロティック分野の開拓者としても高く評価されている。1979年、映画界を引退したホーは妻と共に、子供たちの大学進学のためにカリフォルニア州サンノゼに移住した。しかし健康状態が次第に悪化し始め、心配した家族から再び写真を撮ることを勧められるようになった。

Hong Kong Venice
'Hong Kong Venice', Hong Kong, 1962

近代的な機材を使い、サンフランシスコのベイエリアで写真を撮るのではなく、香港で撮った古いネガを調べて、地元のギャラリーにポートフォリオを展示し始めたのである。2000年にはパロアルトにあるピンスカンジャナのモダンブック・ギャラリーで1960年代以来の個展を開催、ホーの娘はこの展覧がの自信と幸福を回復することになったと認めている。2016年6月19日、サンノゼで肺炎のため死去した。84歳だった。2017年6月後半にサザビーズ香港ギャラリーで、1950年代の香港で撮影した32点の写真と、彼のローライフレックスカメラ、初期の書籍である『ストリート写真への想い』などの関連品が展示された。展示に合わせて新しいモノグラフ『念香港人的舊』が2017年6月に出版された。残された家族がサラ・グリーンと香港人出版社のサポートを受けながら、約1年かけて完成させたものである。

WWW_BK Fan Ho (1931–2016) | Biography, Artorks, About, Faq and Contact | Official Website