2021年9月18日

女性初の戦場写真家マーガレット・バーク=ホワイト

Liberation of Buchenwald
解放されたナチスのドイツ・ワイマール近郊エッタースベルク丘のブッヘンヴァルト収容所(1944年)

マーガレット・バーク=ホワイトは、女性初の戦場カメラマンとして知られている。また、男女を問わず外国人写真家として初めてソ連に入国し、ソ連の製造業などを撮影したことでも知られている。1904年6月14日、ニューヨーク州ブロンクスに生まれた。ポーランドから移住してきたユダヤ人の父ジョセフ・ホワイトと、アイルランド系カソリックの母ミニー・バークのもと、ニュージャージー州バウンド・ブルックで育つ。1922年、コロンビア大学に入学し、爬虫類学を専攻したが、在学したのは父が亡くなった直後の1学期だけだった。父の思い出を大切にしようと写真を始め、ピクトリアリスムの代表的な写真家、クラレンス・H・ホワイト(1871–1925)の門を叩いた。彼女の母親も、娘に初めてのカメラを買ってあげるなどの応援した。1924年にエヴァレット・チャップマンと結婚したが、2年後に離婚、父の姓と母の旧姓を繋いで、バーク=ホワイトと名乗るようになった。大学を転々とし、最終的にはコーネル大学を卒業し、1927年に学位を取得した。

Chrysler Building
クライスラー・ビルの屋上から撮影するバーク=ホワイト(1931~34年)

バーク=ホワイトはオハイオ州クリーブランドに移ってから商業写真家としてのキャリアをスタートさせる。彼女が成功したのは、写真の技術に加えて、彼女の人間力によるところが大きい。オハイオ州にスタジオを構えてから、オーティス・スチール社は彼女の初期のクライアントのひとつとなった。後年、バーク=ホワイトはインタビューで、国防総省の資材や機械を生産する鉄鋼業が国防上の問題とみなされていたため、工場での撮影にさまざまな困難があったことを明かしている。1929年に『フォーチュン』誌に写真家兼副編集長として採用され、フォトジャーナリズムのキャリアをスタートさせた。その1年後には、外国人ジャーナリストとして、また女性として初めて、ソ連の産業界を撮影するという先駆的な取り組みを行った。1935年、アメリカの雑誌界の大物、 ヘンリー・ルース(1898–1967)は彼女を『ライフ』誌のフォトジャーナリストとして採用したが、これは同誌初の女性スタッフ・フォトグラファーであった。彼女は1940年まで同誌に在籍した。1969年に写真家を引退するまで、同誌とは何度も関係を持った。

第二次世界大戦出征する男性に代わってモスクワ近郊のクリシェボ集団農場で働く女性たち(1941年頃)

バーク=ホワイトが『ライフ》誌に掲載した作品の中で最も有名なのは、フォート・ペック・ダムの写真で、同誌の創刊号1936年11月23日号の表紙を飾っている。国際的なキャリアは、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキアでのナチズムと、ソ連での共産主義を記録することだった。ヨシフ・スターリン(1878–1953)が人前で微笑む姿を撮影、グルジアを訪れた際には、スターリンの母親をはじめとする家族を撮影している。しかし作品から受けた最も顕著な影響は、第二次世界大戦中のことだった。1941年、ナチスドイツの戦闘機がモスクワにミサイルを投下し始めたとき、彼女はモスクワにいた。その時、彼女は唯一の外国人写真家だったのである。アメリカ大使館に避難したバーク=ホワイトは、戦争開始の最初の写真を撮影した。その後、アフリカ、イタリア、ドイツで米軍に同行し、女性として初めて戦闘地域を撮影しました。また、1940年代半ばには、インドとパキスタンの間で起こった混乱を撮影している。1953年、パーキンソン病の最初の症状が出た。1971年、67歳でコネチカット州スタンフォードにあるスタンフォード病院で他界した。

The Library of Congress  Margaret Bourke-White | Introduction & Biographical Essay | The Library of Congress

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